7.慣れるなよ



思い出したのは、とある日の稽古。


シトが踏み出した時、ルーアスの視線が素早く動いた。シトが木刀を滑らせたとき、握り方を瞬時に変えてガードする。

そういえばいつも突き刺さっている気がする。目には見えない鋭いなにか。


全身に刺さって、シトをとらえて離さない──。


「……目」


シトは身体をゆっくり起こした。


「叔父さん、俺の動きをよく見てる」


ただ見ているだけじゃない。突き刺してくる視線。優しい瞳の奥が刃物のように銀色に光るあの瞬間。


少女が満足げにうなずいた。


「人間は脳みそだけで生きているわけじゃない。五感がある。特に視覚は情報の八割を占めるともいう。五感すべてを使って、脳みそを使って、思考するんだ。もてるすべてを相手にぶつけろ」


言っていることは理解できる。答えは出した。けれど、それを自分に実践できるだろうか。不安がとぐろを巻く。シトの心情を察したのか、少女が息をもらすように薄く笑った。


「そんなに心配すんな。言ったろう。お前の長所は馬鹿な所。私の経験則によれば、馬鹿は素直だから案外飲み込みが早い」


だからさっさと立てと少女がシトの額を指ではじいた。

なんだかんだシトの中に棲むこの神は面倒見がいい。厳しいことばかり言うし、性格もかなりきついが。

シトを強くして、マ神を倒し、神の座を取り戻す。その明確な目的のためだと頭では分かっているが、これはまるで――。


立ち上がると同時に、思わず笑いがこぼれた。


「何笑ってんだよ」


すかさず少女の声が飛んでくる。


母親みたいだと思って。


そう言おうとして、寸でのところで呑み込めた。せっかくシトの助けになってくれているのに、機嫌を損ねかねない。

今回ばかりは思考が素早く追いついてくれた。




シトには母親がいない。自分を産んですぐに死んだと聞いている。だからシトにとっての親はルーアスただ一人だ。けれど、母親がいたらこんな感じだったのかもと淡い妄想が頭をよぎった。死んだ母親はどんな人だったんだろう。


「……俺、お前がいたらどんどん強くなれそうだ」


「ふんっ、この私が選んだ魂なんだから当然だろう。強くなってもらわんと困る」


少女が鼻を鳴らした。何かを誤魔化すように、シトに空になった皿を乱暴に突きつけてくる。


「これ返しといてくれ。今日も美味かった」



皿一面を埋め尽くしていたムサカが綺麗に無くなっている。こんなにも華奢で儚い身体のどこにこれだけの量を取り込めるのか、不思議で仕方が無い。


少女が碧い瞳をそらす。月明かりが少女の整った輪郭をなぞる。

この世に生まれる直前、白い光に包まれて、シトは確かに少女に逢った。そこで何を言われたのかはもう思い出せないが、神に選ばれ、力を与えられた人間として、シトは全身に青色の紋様を刻んで生まれてきた。その紋様は、オリュンポス十二神の力を宿す十二神人であることの証。


今はまだ弱すぎて、神の力さえまともに使えないけれど、いつかこの力がマ神を倒し、世界を変える力になると思うと、血が沸き立って、高揚した。

忌み嫌われる十二神人として生まれてきたのに、そのことを悔いる隙もなく、本能に刻まれたマ神を倒すという使命感がシトの中で今も大きく育っている。


「カルディア隊に入って、この力でマ神を滅ぼして、世界を変える。叔父さんやみんな……兄ちゃんとも幸せに暮らしていくんだ。もちろんお前たち十二神も幸せに暮らせるように」


豆だらけの手ぐっと握りしめた。マ神に対抗できる力がこの中にある。

絶望はしない。

ただひたすらに前を向いて強くなる。


稽古を再開しようとして、あっとシトは少女を振り返った。


「そういや、まだお礼言ってなかったよな」


少女が首をかしげる。


「なんの礼だ?」

「色んなことだよ。今みたいに俺が分からないことちゃんと教えてくれたり……ハマルティアの会に遭遇した時も、お前が声をかけてくれなかったら、十二神人だってことがばれてたかもしれない」


感情が高ぶった時に自身の意志とは関係なく、十二神人であることを示す紋様が身体中に現れる。たくさんの人が行き交う街中で紋様を見られたらどうなっていたことか。考えるだけでぞっとした。


「だから、ありがとう」


シトが歯をみせて笑うと、少女は「ああ」と素っ気ない返事とともに顔をそむけてしまった。そして、ちらっと視線だけを動かしてシトをみる。唇が少し尖っていた。


「……お前はいちいち反応するな。十二神や十二神人が悪く言われるのなんてもう慣れただろ」

「慣れるわけない! 十二神人おれが悪く言われるのも、十二神おまえが悪く言われるのも」

「……ああそうか。まぁ安心しろ。私はシトと違ってもう慣れっこだし、私のことまで気にする必要……」

「慣れるなよ! そんなことに!」


シトが強い口調で少女の言葉を遮る。

眉をつりあげて真剣な表情で少女に詰め寄った。


「悪く言われることに慣れてほしくない。だって、お前はこんなに良い奴なのに」

「は、はあ?」

「マ神が言ってることも、島のみんなが言ってることも、ハマルティアの会が言ってることも全部嘘っぱちだ。俺にはお前が昔人々を苦しめていた神になんて見えない。だって、お前は良い奴だから」


丁寧に紡がれたシトの言葉が少女の心臓を容赦なくくすぐる。

なぜか黙り込んでしまい、シトをまっすぐみることさえできず、少女はうつむいた。熱い耳の縁を撫でる夜風が気持ちいい。


何も答えない少女の顔を覗き込もうとして、シトはハッとあることに気づく。

その瞬間、額からどっと冷たい汗が浮かんできた。


「え……もしかして、俺、なんかまずいこと言っちゃった……?」


少女は何も言わない。今度は首の後ろまで冷たくなってきた。


「ちょっ、何か答えろって。変なこと言ったなら謝るから」


少女は何も言わない。シトの単純明快な脳によって導き出されたたった一つの、最悪な答えが確実なものになっていく。


「……もしかして、泣いて……」


「泣いてない」


少女が勢いよく顔を上げ、シトを睨みつけた。

ほっとすると同時に、眼光の鋭さにおののく。


「あー、よかった。急に何も言わなくなるから泣かせたのかと思ったじゃんか」


「誰がお前みたいな弱虫小僧の言うことで泣くかよ。お前に泣かされるくらいなら、マ神に殺された方がマシだ」

「いや、そこまで言う!?」


心配して損したと思うと同時に、幼少期の記憶がシトの中によみがえってきた。

あの頃は、この気が強い高慢ちきな少女に幼いシトはよく泣かされていた。

主に少女がシトのご飯やお菓子を横取りしたことで泣いていた気がする。ルーアスが少女の分のご飯を作り始めたのも思えばこれが原因だった。


「……やっぱりお前、暴政で人々苦しめてただろ」

「さっきと言ってることが全く違うが、ただでさえ馬鹿なのにボケもきたか?」


少女がふうと息を吐いて、シトを正面からみつめた。


「……結局、わからないんだよ」

「なにがだよ?」

「自分も、自分以外の気持ちも。平和に、共に暮らしていたはずだったのに。……そう思っていたのは、十二神わたしたちだけだったんだろうなあ」


そう言って、寂し気に笑う少女からシトはなぜか目が離せなかった。

造り物のような美しい顔。ここではない遠くをみて憂いている。

どこからか現れた雲が月を静かにさらっていった。

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