2.ルーアス


島の中心地から二十分ほど歩けば人工の建物が徐々に減っていき、人の居ぬ間にひょこっと自然が存在を示し始める。

細い川の中から酸素を求めるように顔を出す三つの大きな石の上を軽やかに跳ねて、畑に挟まれた緩い坂を下って行けば、目の前に爽やかな緑色が広がった。

緑色の中で数頭の牛がのんびりくつろいでいる。

草原の少し奥にある赤い屋根の小屋。そこがシトの暮らす家だ。

扉を開けると同時に鼻の奥に触れる塩気のきいた牛乳の匂い。つられるように、台所へと向かう。


「ただいま、叔父さん」


鍋をかき混ぜていたルーアスが振り返った。シトをみて、目じりに刻まれたしわがより深くなる。


「おかえり、シト。今日は随分帰りが早いんだね」

「ああ! なんたって今日は牛乳がバンバン売れたんだ! すぐ完売したぜ」


空のボックスを得意げにみせる。ルーアスは鍋の中をかき混ぜる手を止めることなく、笑った。


「すごいなあ。シトは牛乳売りの才能があるな」

「まあな。俺、人と話すの好きだし、この仕事向いてる気するよ」

「そうか」

「みんな優しいし」


口にして、思わずハッとした。シトから牛乳を買ってくれた優しい人達の笑顔をかき消すように、今日出会った光景が浮かび上がってきた。

明るい月を雲が覆う。楽しい気分が一瞬にして吸い取られた。


「……シト?」

「……叔父さん、俺、今日マ神に会ったんだ」


ルーアスが眉をひそめる。カチッと火を消す音がやけに大きく響いた。


「それに、ハマルティアの会とも。……みんな、十二神人が嫌いなんだ」


マ神を真の神であると信じて疑わない群集の瞳。圧倒的な強者の言う事を簡単に飲み込んでしまう人間の愚かさに、怒りではなく、寂しさが募る訳をシトは何となく分かっていた。

人間が好きだ。物心ついた時から、ルーアスの手伝いで街に赴いて、たくさんの人と顔見知りになった。牛乳を売る仕事も一度も休んだことがない。

自分の人生に、島の人達がいない瞬間はどこにもない。

だから、寂しくて、どうしようもなく怖くなる。


「俺が……十二神人だって知ったら、みんな俺のこと嫌いになるのかな」


ポンと頭の上が少し重くなる。顔をあげると、ルーアスがやさしく笑っていた。

窓から差し込む太陽の光がルーアスの前髪をきらきら照らす。


「大丈夫。お前は強くて優しい子だ。お前が十二神人だと分かっても嫌わずにいてくれる人は必ずいるよ。私のようにね」


内臓がうねるようなこそばゆさ。瞳の中がじんわり熱くなる。頭を撫でられる手の温度が急に全身に伝わってきて、寂しさや恐怖の暗い感情がふっとぶ。

むず痒くて、シトはルーアスの手をおもいきり払った。


「や、やめろよ、ガキ扱いすんな」

「ははは、ごめんごめん」


急に居心地が悪くなり、自分の部屋にさっさと戻ろうとしたところを呼び止められた。


「シト、夕飯の準備ができたら、稽古しようか?」

「ほ、ほんとに! するする、絶対する!」


先ほどとは違う熱さが全身に生まれた。


「今日こそ叔父さんから一本とってやる!」

「毎回言ってるな、それ」

「きょ、今日は本気だ! 有言実行だ!」

「それも毎回言っているな」


このあとの楽しみを考えるだけで高揚する。早く夕飯の準備が終わってほしくて、自ら手伝いを買って出た。してやったりといわんばかりにルーアスが笑うのを見て、シトはあっと自分の単純さに気付く。ルーアスが鼻歌まじりで鍋をかき混ぜる横顔を恨めしくにらんだ。



舌の上に感じる濃い牛乳の深みととろみ、まろやかさの中で際立つ塩気と煮込んでやわらかくなったニンジン、ジャガイモ。飲み込んでもなお、口の中に残った味を忙しなく反芻した。


「うまい! 味付けも問題なしだよ」

「おおよかった。じゃ、これで完成だな」


ルーアスは夕飯を食卓に並べる前に、必ずシトに味見をさせる。

シトがうまいと言えば、完成にするし、何か違うと顔を曇らせると、数々の調味料を足したり引いたりして味を調整する。

自分の味覚はごく普通だと思っているシトは、なぜルーアスがこんなにシトの味覚をあてにするのか理解できず、訳を聞いたことがあった。

そうすれば、シトに美味しいと思ってもらうために作ってるんだから当然だろうと、親ばからしいこっぱずかしい答えが返ってきたので、それ以来何も言わずに完成間際の味見担当をしている。


鍋に蓋をして、玄関に向かう。シトが靴を履いていると、ルーアスが廊下の奥にある扉を数回叩いた。


「スイア。シトと裏庭で稽古をしてくるから、それが終わったら一緒に夕飯を食べよう」


扉の奥からは何の返事もない。ルーアスが肩を落とす。


「……兄ちゃん、今日も部屋から出てきてないのか」

「ああ。全く、部屋に閉じこもって何をしているのやら」


シトは何の音もしないスイアの扉を見つめた。実の兄ではあるものの、シトはスイアとまともに話した記憶がほとんどない。

たまに家の中ですれ違って何度か話しかけても、スイアは道端の吐瀉物を見る目でシトを見下ろした。

全身から伝わるシトへの嫌悪。

どうして自分は実の兄にあれほどまで嫌われているのか、何度考えてもわからない。シトの単純明快な脳みそでは理解できない事実が転がっているのだろうか。

実際、スイアは非常に頭がよく、神童とまで呼ばれていた。数年前までスイアは街の優秀な研究者のもとに勉強を習いに行っていたが、次第にそれもなくなり、今ではずっと狭い部屋の中に閉じこもってしまっている。

嫌われているという事より、このままでスイアはどうなるんだろうという不安の方が心を占める。

扉を開けると、真っ赤に染まった夕日が静かにシトとルーアスを見下ろしていた。


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