世界の神話が終わるとき、/ギリシャ神話をモチーフにしたバトルファンタジー

透川

Ⅰ.神話の始まり

1. 少年シト


──後・四五五年

ガルシャ国。アントリーニ島。



長い白色の坂を下った先の広場では、アントリーニ島最大の市場が開催されていた。

人の声に包まれた殷賑いんしんな雰囲気が毎日褪せることなく漂っている。


島の中心地から離れたところにある森の近くで暮らしているせいか、街の音は異物のように鼓膜にこびりついて、ベッドで横になるときも耳の中でずっとがやがやしている。


黒髪の短髪が風にゆすられ、まだ幼さののこったまあるい黒色の瞳の少年――シトは肩にかけた氷の詰まった保冷用のボックスに視線を落とした。その中には、シトと叔父のルーアスが世話をしている乳牛から搾った新鮮な牛乳の入った瓶がいくつもある。


シトが市場に来た理由はただ一つ。牛乳を売るためだ。


シトの売る牛乳の味を気に入って毎週買ってくれるお得意様の他にも、新規の買い手を見つけてどんどん売り上げを上げていく。そのために人でにぎわう市場は絶好の営業チャンスだった。


「よし」


自分にしか聞こえない声で気合を入れ、シトはあたりをじっくり見まわしながら歩く。

ふと、果物屋の露店に視線がとまった。店主は恰幅のよい女性で、商売もそっちのけで数人の主婦と話し込んでいる。


店主の視界の外側で、青年が山盛りにつまれたりんごを静かに見つめていた。

しばらくして、店主を一瞬だけみたあと、細長い手を伸ばし、りんごをひとつ掴む。

それを手元の袋にしのばせる。


瞬間、シトは青年の腕をつかんだ。りんごが音もなく、地面に落ちる。青年はぎょっとしてシトをにらみつけた。陽にやかれていない、不健康そうな青白い肌をしていた。


「な、なんだ! お前! 離せ!!」

「ださい真似すんなよ」


行き交う人が何事かとシトと青年を一瞥する。シトを振り払おうと必死に青年は腕を振るが、掴む手はびくともしない。異変に気付いた店主がこちらにやってきた。


「シトじゃないか。どうしたんだい?」

「おばちゃん、この人が林檎盗もうとしてたぜ」

「なんだって?」

「あ、いや」


店主が青年を睨みつける。その剣幕に気圧されたのか、青年の力が急に抜ける。芯を失ったようにうなだれ、自嘲気味に笑った。


「い、妹が風邪ひいたんです……。ずっと寝込んでて。俺の家は親がいなくて、妹と二人暮らしなんです。金も、その日生きていくだけで精いっぱいで……でも、妹に身体にいいもの食べさせてやりたくて」


声が涙ぐむ。青年が少しサイズの小さい上着の袖で目元を乱暴に拭った。

シトは掴んでいた青年の腕を離した。


「おばちゃん、りんご三つ」


お釣り用のコインケースからいくらか取り出し、店主に渡す。牛乳瓶を二本取り出し、購入したばかりのりんごが入っている袋に一緒に入れて、青年に突き出す。

青年が目を丸くして、突き出されたビニール袋とシトを交互にみた。


「妹に食わせてやれよ。二つは妹の分で、残りがあんた。特別に牛乳もつけてやる。たった一人の家族なんだから、妹を悲しませるようなださい真似もうすんなよ」


青年の瞳から涙がこぼれた。細い指がおそるおそるシトからビニール袋を受け取る。


「すまない、ありがとう」


シトと店主に頭を下げてから、青年は人混みの中に消えていった。

店主が腕を組み、大きな息を吐く。


「いいのかい、シト。さっきの話も嘘かもしれないのに」

「嘘じゃないと思うよ。りんごを盗もうとしたときの、あいつの手、震えてたから」

「……本当に、あんたって子は」


店主の分厚い掌がシトの頭を強引に撫でた。突然の衝撃に思わず声をあげる。


「うわっ、なにすんだよ!」

「ガキのくせにかっこつけてんじゃないよ」

「ガキじゃねえ! もう十四だ!」

「ガキじゃないか」


好き勝手撫でられ、シトは必死に髪をととのえる。今から色んな所に牛乳を売りに行くというのに、ぼさぼさの髪は恰好がつかない。

すると、フッと目の前に大きな手と小銭が差し出された。


「牛乳、もらえるかい?」

「……毎度あり!」


その日はいつもよりハイスピードで牛乳が売れていき、数十種類の色とりどりの豆を売っている老人を最後にボックスの中身はほとんどなくなった。残りの分をお得意様に届ければ今日の仕事は終了だ。まだ陽は高くぎらついて、今からお得意様の家を全て回っても完全に陽が沈む前には家に帰れるだろう。


広場を出て、白い石畳の坂を上がろうとして足を止めた。


坂の上から何かがおりてくる。


足の裏にしっかり伝わる地響き、カツカツと固いものがアスファルトとぶつかる音、人々の歓声。それに気づいた人たちが素早く脇に並び、拍手があたりを包み込む。


視界に入ってきたそれをみて、シトは脇に並ぶ群集に混じって身を隠した。

現れたのは、数百人の兵士たち。曇天をうつしたような重たい色の服に身を包んでいる。それぞれ腰に剣を差していた。


彼らの先頭を歩くのはひと際背の高い目元を仮面で隠した鎧姿の女。

後ろでひとつにまとめられた黒髪が足音に合わせて揺れる。


「マましん様だ!」

「マ神リモゥ様、こんなところでお会いできるなんて光栄だわ」


人々がマ神リモゥに頭を下げる。


拍手、歓声、感嘆の息。


先ほどまでの和気あいあいとした軽やかな空気が、重さを含んで質量を増す。


マ神リモゥを歓迎する島の人々の雰囲気とシトの中で渦巻くマ神への想いが何一つかみ合わない。下腹の底から湧き上がってくる気持ち悪さを抑え込むように唇をかみしめた。


マ神リモゥ。アントリーニ島を支配する神だ。広いラージ海に点々と浮かぶ島はそれぞれのマ神が支配している。


島の政治を行う長は、人間であるがゆえに神には敵わず、逆らうことができない。そのため、真の支配者はマ神だと、かつて長の下で働いていた叔父が話していたことはシトの記憶に新しかった。


他の島との交易は限られた島民にしか許されていないため、シトが他の島の内情を知る由はないが、どこも同じく人間は神の足元に跪き、頭を下げて讃え続けているのだろうと大体の予想はつく。

人間にとっては、マ神こそが真の神であり、英雄なのだ。


「あのお」


群集の中から背の曲がった老婆が目の前を通りすぎようとしたリモゥに声をかけた。

歓声と拍手がやむ。水を浴びた炎が音もなく消える瞬間のようだった。

人間が神に気安く話しかけてはいけない。神は絶対的な信仰の対象であり、人間と同じレベルに下げてはいけないのだ。


案の定、兵士が腰に差した剣に手を置き、老婆とリモゥの間に入った。


「このババア、分をわきまえろ」

「よせ。わたしは構わん」


リモゥの言葉に兵士が姿勢を正してその場から素早く退く。仮面の下は見えないが、唯一のぞく細長く艶やかな唇が引きあがる。


「わたしに何か用か」

「私のね孫が、孫のユニフが三ヵ月前に、マ神リモゥ様にお仕えするといって兵隊入りしたんです。けどあの子、兵隊に行ったっきり、何の音沙汰もなくて。今日、この中にユニフは」


老婆がリモゥの背後に行儀よく整列する数百の兵士をみた。


「おい。この中にユニフはいるか」

「……」

「どうやらいないようだ」

「……そうですか。ユニフはマ神様のお役にたっています?」


背の曲がった老婆と目線を合わせることなく、リモゥは静かに見下ろす。少し黙った後、再び笑って見せた。


「ああ。もちろんだ。みな、厄災の神を滅するために我々と共に戦ってくれている」

「そうですか。……そうですか。よかった……」


老婆が顔をほころばせたのを、もうリモゥは見ていなかった。無機質な足音とともに坂を下っていく。厄災の神を見つけるために島内を巡回しているのだろう。


見つけ次第、すぐに殺せるよう数百の兵士を連れて。


厄災の神から島を守ってくれているマ神に憧れる人間は非常に多い。ある程度の年齢になれば先ほどの老婆の孫のように、マ神に仕える兵士志願者はこの島だけでも吐いて捨てるほどいる。


マ神の列が去った後、今度は拡声器やプラカード、弾幕を持った集団が歩いてきた。

マ神に忠誠を誓うハマルティアの会だ。


「我々の生活を脅かし厄災をもたらす十二神、十二神人じゅうにしんじんを排除しろ!」

「我々の生活を脅かし厄災をもたらす十二神、十二神人を排除しろ!」

「我々の生活を脅かし厄災をもたらす十二神、十二神人を排除しろ!」

「我々の生活を脅かし厄災をもたらす十二神、十二神人を排除しろ!」


耳を塞いでもわずかな隙間から流れ込んでくる声。シトは隅で集団が通り過ぎていくのを待つ。


「かつて我々人間はオリュンポス十二神の邪知暴虐な振る舞いに苦しめられていた。奴らは神であることを傲り、我々人間のことなど塵と同等に考えていたのだ!」


「奴らが君臨し続けていたらやがて世界は滅びていただろう! まさに厄災! だからこそ利用され、踏みつぶされ、けなされ、尊厳を奪われた人間を救ってくれたマ神様に誓わなければならない!」


「オリュンポス十二神と百年にもわたる大戦争の末、勝利をおさめたマ神様に我々はすべてを捧げると!」


「厄災オリュンポス十二神は今でもしぶとく生き続けている! そして、厄災に加担し、世界を滅ぼそうと企む十二神人も野放しにしてはおけない! 排除するべきである!」


集団の主張を多くの人々は迷惑そうに顔をしかめているが、中には真剣な目で拍手を送っている者もいる。

主張は続く。耳を塞ぐ手に力が入る。呼吸が次第に荒くなって、瞳孔が熱く煮える。

自分の耳たぶを引きちぎってしまいそうなほど、指先に力がこもる。

その時だった。


「落ち着け、シト」


内側から聞こえた声。熱に呑み込まれそうなところを冷水のような静かな声に引き戻された。

そっと耳から手を離す。手首からひじにかけて表れていた蔦を巻き付けたような青い紋様がだんだん薄くなり、元の焼けた素肌に戻っていく。

ホッと息を吐いた。

いつのまにか集団はもう通り過ぎてしまっている。


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