第7話

 自宅から学校まで距離が遠いこともあって、穂香は家族の誰よりも早起きだ。

 十二月の早朝はまだ外は薄暗く、うっすらと霧が出ている。穂香が制服に着替えてリビングに行くと、遅くまで残業していた父がソファで眠っていた。

 冬の寒い時期にこんなところで寝落ちしなくてもいいのに。穂香は父の肩を軽く叩いて起こし、寝起きでボソボソと喋る父のから今日の予定を聞き出す。午前中は母の通院に付き合うようで、あと小二時間は寝ていられるとのことだった。

「少しでもいいから布団で横になって。電気毛布入れてあるから、あったかいよ」

「ああ……すまんな」

 一体何時まで仕事をしてきたのだろうか。父はよれたシャツのまま、母が眠っている隣の自分の部屋へ向かう。きっと布団に着いてすぐ寝落ちして、起きてきた母に呆れた顔をされるのが目に見えた。

 穂香は父を見送ると、キッチンに向かい三人分の朝食と自分のお弁当を作り始めた。

 毎朝は必ず白米と味噌汁が決まっていて、おかずは漬物や母が作り置きする煮物を温めるだけ。

 勤務先まで近いこともあって朝は余裕がある両親に代わって、味噌汁だけ作るのが穂香の朝一番の仕事だった。

 生姜と長ねぎを炒めたところに出汁と味噌を入れ、最後に木綿豆腐と油揚げをいれて仕上げる。並行して昨晩余った鮭をほぐしたフレーク、白ごまを白米に混ぜておにぎりを作っておけば一石二鳥だ。おにぎりの粗熱を取っている間に朝食を済ませ、両親の分とは別にスープジャーに味噌汁を入れて蓋をする。おにぎりをラップに包み、スープジャーとともに巾着に入れると、通学用のリュックにつっこんだ。

 片付けをして時計を見れば、まだ六時半を過ぎたところだった。両親が起きてくる気配はない。

 食卓に書き置きをして、穂香はそっと家を出た。

 冷え込んだ朝方に思わず身を震わせ、学校指定のコートと意図的に袖口を伸ばしたカーディガンを一緒に擦りながら、穂香は今日も学校に向かう。

 電車の中は微弱ながらも暖房が入っていることにホッと息をついた。一時間ほど揺られて最寄り駅まで行くと、出勤する人の流れに紛れて改札を出る。ここからさらにバスに揺られなければならないのだが、道中には小中一貫校があるため、この時間帯は学生の利用が多い。

「さむっ……」

 駅から少し離れたバスターミナルまで行くのにだって、冷たい風が肌に刺さってくる。少しでも足を止めれば寒さが襲ってくることもあって、信号待ちはいつもより長く感じた。早く変われ、早く変われと赤く点灯した歩行者用の信号機を見つめる。

 すると突然、背後からドン!と衝撃が走った。

(えっ……⁉)

 突き飛ばされた、というよりぶつかったような感覚だった。

 穂香は勢いで前のめりに倒れ込んでいく。一歩前に踏み出せば車道だった。信号機はまだ赤く点灯したままで、ちょうど車がこちらに曲がって来るのが見えた。

(あ、終わった)

 寒さで悴んだ身体が思う通りに動くわけもなく、穂香はそのまま地面に倒れていく。

 これが自分の最後かもしれない。不思議と目の前の光景がすべてスローモーションに見えるのも納得してしまう。

 振り返れば、白い帽子を被った小学生が視界の端で揺れていた。

 もう終わった、私の人生終わった! ――そこまで考え、ぐっと目を閉じたその瞬間、後ろから勢いよく後ろから引っ張られた。

「えぐっ――⁉」

 どこぞの蛙のような声が喉から飛び出すと、掴まれたリュックとともにコートごと引っ張られた。ワイシャツの第一ボタンまでしっかり留めていたことが災いし、穂香の首が一瞬締まるが、お構いなしにそのまま後ろに引き戻されて勢いよく尻餅をついた。

 咳き込みながら顔を上げると、先程まで迫っていた車が横切っていくところだった。

「た、すかった……?」

 生きた心地がしない。心臓がこんなにもバグバグと音を立てて、生きていることを証明しているのに、座り込んだ際に触れたコンクリートのひんやりとした感覚も確かにあるのに、何が起こったのか上手く呑み込めない。ただ茫然と、信号機が青に切り替わって人が歩き出す横断歩道を見つめていた。

「――大丈夫か?」

 掴まれていたリュックから手が離れ、今度は軽く肩を叩かれる。穂香がそっと顔を向けると、同じ制服を着た長身の男子生徒が焦った表情をして屈んでいた。

「悪い、咄嗟にリュック掴んじまった。怪我は?」

 荒々しい口調と低めのハスキーな声で問われると、穂香は目を疑った。

 重ための前髪から覗く、焦りの色を浮かべた目がつり上がると、蛇に睨まれた蛙のように穂香は身を固くした。どうして彼がここにいるのかと彼の顔を見る。

「な、んで……」

「は? 大丈夫かどうか聞いてんだけど。……まぁ、人の顔を見て驚いているくらいなら平気か」

 立てるか、と男子生徒から差し出された手を思わず凝視する。

 在り得ない、この人が人助けなんてするはずがない。

 同じ目線になる彼――しきしまなおを見て、穂香は息を呑んだ。

 隣のクラスに在籍する彼は、一八五センチの長身と整った容姿、つり上がった眼力に加え、垣間見える気怠そうな態度で問題児扱いされるほど有名だった。話しかけても大体の生徒に対して見下ろす形になってしまい、怖がられることも日常茶飯事だという。

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