第6話

 夕飯ができるまで荷物を持って二階の自室へ行く。制服から部屋着に着替えて、学習机に山のように積み上げた参考書を端に寄せると、鞄から世界史のノートを取り出した。

 学校で終わらなかった板書の続きを書き写しながらふと、鈴乃と自分のノートを見比べる。

 彼女のノートはすべて綺麗に埋められており、教師のちょっとした雑談さえもノートの端に書き込んでいるほどまとめられていた。対して穂香のノートは今日の授業だけでなく、その前の授業時に書くべき板書も抜けている。授業には確かに参加していたはずだが、また寝落ちしていたのだろうか。走り書きのような自分の字がどれだけ酷いのかさえも一目瞭然だった。

 六十分という時間の中で、しかも教師の話を聞き取りながら板書とメモを綺麗に、懇切丁寧に両立させている鈴乃を改めて尊敬する。高校二年生に進級しても不思議で仕方がない。それほどまでに自分は勉強が苦手なのかもしれないと、ノート提出さえ諦めていた。このまましらばっくれてしまおうか。

 そう溜息をついたところで、ふと鈴乃のノートに書かれたメモが目に入った。


・「月が綺麗ですね」は、夏目漱石なりの「愛しています」という告白。※諸説あり。


 事の発端は、ある生徒が「我、君を愛す」と訳していた『I love you』を、夏目漱石が「日本人はそんな直接的な愛情表現はしない」と言って自ら翻訳したものだと聞いたことがある。控え目で自己主張が弱いという、日本人の特徴と捉えていたからこそ言えたものだとしたら、随分洒落た言い換えだったように思える。

 もし告白をする場面に使ったとして、月が雲で隠れていたとしたら。

 はたまた、月の存在自体がまだ解明されていなかったとしたら。

 逸話が語り継がれる今だからこそ意図をくみ取れるかもしれないが、まだ英語が普及し始めてきた頃の夏目漱石の時代だったなら――。果たして「月が綺麗ですね」と言ったところで、それは告白として受け入れられたものだったのだろうか。名の知れた夏目漱石が発した言葉だからこそ、現在に至るまで逸話として語り継がれている証なのかもしれない。

 穂香はなんとなくスマホで検索すると、葉山先生が授業で話した通りの逸話が出てきた。

 中には「月が綺麗ですね」の返し方も掲載されていたが、夏目漱石ではなく、明治時代の文豪が発した「死んでもいいわ」が取って付けただけのような気がして腑に落ちない。

(まぁ、ただの例えだし。比喩表現だし)

 そう割り切ってスマホの画面を消すと、脇に置いてノートの続きを写し始めた。テストの点数が取れない以上、提出物だけでもなんとかしなければ。

 夢中になって書き続け、穂香が世界史のノートをすべて写し終えたのは、ちょうど夕飯の準備が出来たと母から声をかけられた頃だった。

 達成感に浸りながら階段を降りてリビングに行くと、食卓には二人分の夕食が並べられていた。白い湯気が立つ白米、わかめと玉葱の味噌汁。焼き鮭の横には大根おろしが添えられ、小松菜のごま和えと、具材がごろっと入った筑前煮がそれぞれ小鉢に入れられている。

「ありものでごめんね。明日買い出しに行くから」

「いいけど……お母さん、焦がしたほうを食べる気?」

 穂香の目線は母側に並ぶ焼き鮭に向けられていた。自分に配られたものに比べて、皮だけでなく身まで真っ黒に焦げてしまっている。二つに割れてしまっているのは、内側が食べられるか確認した証拠だ。

「これくらい平気よ。黒いところを省けばいいし、そんなに量も食べられないから」

「食べられる分が少なすぎる。身体に悪いよ。私の分を半分こにしよう。それでも食べきれなかったらそれでいいから」

 体調を崩しがちだとわかっていながら、無理をする母をどうにかして言い包め、自分の焼き鮭を半分に分けて、なるべく脂身の少ない方を渡す。真っ黒に焦げた母の焼き鮭を食べられる部分だけにするが、一食分にも満たない量だった。鮭フレークにして、明日の昼食用で持っていくおにぎりにしよう、と提案した穂香に、母は「ごめんね」と小さく微笑む。

がいなくなってから、お母さんらしいことできなくてごめんね」

 謝らないでほしかった。

 母は何も悪くない。万全ではない体調に炭のようなもの食べさせるわけにはいかないだけだ。

 喉から出てくる言葉を、穂香はぐっと飲み込んだ。半年もずっと続くこの日常に慣れてきた自分を、今一度恨めしく思った。

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