第7話 取り戻した日常

 直後、無機質で抑揚のない声が脳に響く。


「おめでとうございます。あなたは見事、無限ループ・プログラム『メビウス』の脱出に成功されました。この後、クライアントのお祖母様であられる娘様からのメッセージが流れます」


 とにかく、私はこの迷路から抜け出せたようだ。


「お父さん、さぞや肝を冷やされたでしょう。娘からのお仕置き、いいえプレゼントかしら。やりすぎとは思ってないわ。あのときは本当にお父さんのことが大嫌いだったんですもの。妹が生まれてからは、私のことなど眼中にない感じで……。娘も、来年は百二十歳。玄孫らに囲まれて幸せな老後を送っています。最後にひとつご忠告を。甘いものはお控えください。そろそろ自分の身体を労る歳ですよ。以上、真ん中の娘、虹花でした」


 やっとあの迷宮から脱出できたのか?

 いや、まだ迷路の中からは抜け出せていないようだ。

 でもこは……。

 遠くで子供たちのにぎやかな声が聞こえてきた。

 どうやら、幼稚園の園内らしい。


「あら、虹花ちゃんのお父様でいらっしゃいません?」


 そう声を掛けてきたのは、虹花の入園式で一度だけ顔を合わせただけの若い保育士の女性だった。

「あっ、はい。星虹花の父親です」

「ちょうどよかったですわ。七夕飾りを園児たちがしているとろなんです。よろしかったらご一緒にいかがです? ご父兄の方でしたら大歓迎です。虹花ちゃんもおそらく喜びますわ。さあ、どうぞ中へ入ってください」

 私は、その保育士の女性に促されるまま、幼稚園の建物に入っていった。


 虹花に目ざとく見つかってしまった私は、彼女に手を引かれて、すでに様々な七夕飾りできらびやかに彩られた笹の枝を見上げた。


 いくつもの五色の短冊がぶら下げられていたが、虹花は短冊に何を書こうか躊躇しているようだった。

 私が何を書こうとしてたの? と尋ねると虹花は口を真一文字に結んで、奥歯を噛みしめるようにしこう答えた。


「妹ばかりかわいがっているお父さんなんて大嫌い」

 私は、胸が熱くなった。


 そんなに、虹花が心を痛めてただなんて思いもしてなかったからだ。

 別け隔てなく、三人の娘には平等に愛情を注いできたはずだったが、虹花から見るとどうやら違っていたらしい。


「じゃあ、こうこう書こうか? 『お父さんとお母さんが、ずっとわたしのことをかわいがってくれますように』って」

「そう書けば、お星さまは私のお願いを聞いてくれるかしら?」

「もちろんさ。虹花の願いは必ず、お空のお星さまに届くはずだよ」

「うん、分かった」

 虹花は床に置いた短冊にクレヨンをはしらせた。


 一番下の娘はまだ手のかかる一歳半で、次女はかまってもらえない事への不満が募っていたのだろう。


 次女の疎外感、家族に対してのちょっとした不満、末っ子の三女の世話にかかりっきりの母親に対しての反抗心、歪んだ感情。父親の私に至っては、末娘に首ったけだった。沙耶香を抱っこして頬ずりする態度が気に入らず、鬱憤がたまる一方だったのだろう。


 翌日からは、いつもどおりの生活が戻ってきたようだ。


 例の自販機の前で立ち止まった私は、馴染みの缶コーヒーのボタンを押しかけたところで、手を止めた。

 下戸の私は、大の甘党だった。風呂上がりに缶コーヒーを必ず一本、たまに二本、冷蔵庫から出して飲んでいるのを虹花に咎められたことがあった。


「おとうさん、甘いものはダメよ。お体によくないんですって」

 何処で聞いたのか、虹花は腕組みをするとカミさんみたいな口ぶりで、コーヒーを飲むのを控えるように私に促した。


「健康を気遣って、今後はミネラルウォーターを飲んでみることにするか」


 自販機の先の交差点を左に曲がると、見慣れた会社の建物が見えてきた。

 今日も熱くなりそうだ。

 私は、手に握ったミネラルウォーターのペットボトルに残った水を、グイッとひと飲みして歩みを進める。


 頭上には、容赦ない真夏の陽射しがシャワーのように降り注いでいた。


        <了>

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