第2話 迷宮への招待
その日も出勤途中で、飲み慣れたる銘柄の缶コーヒーの隣に、『期間限定百円ポッキリ』のシールに誘われて微糖味の缶コーヒーのボタンを押している自分がいた。
「あれ? なにか変だぞ」
なんだろうこの感覚? 前にも同じような戸惑いを感じたことがあったような……。いわゆるデジャブというやつなら何度も経験しているが、それとも明らかに違う強烈な違和感。これって……。いやいや、そんなはずがあるものか。
私はありえない、あってはならないことだと何度も自問自答した。
いつも同じ銘柄をチョイスしているはずなのに、どうしてこの日に限って他の銘柄に浮気をしたのだろう?
これを既視感だと決めつけるにはあまりに、短絡的すぎないか。
何度も同じ時間を繰り返しているのではないのか? 三度目? 五度目? いやもっと多くて百、五百度目かもしれない。
何かがおかしい。根拠には乏しいが、いつも買い求めているコーヒーが気になって仕方ない。私は、何度もお試し品の缶コーヒーを買っているのかもといった、あまりに非科学的なことを考えていた。
私は、その微糖味の缶コーヒーを開けると、グビッと一気に飲み干した。やはり私の好みの味ではない。明日からはまた、飲み慣れたコーヒーを飲むようにしようと、空き缶を自販機脇の空き缶入れに放り込んだ。
だがしかし、大学では仮にもSF同好会に席を置いていた人間が、安易に、よくあるデジャブだろうとの結論を出すわけにはいかないだろう。
自分が同じ時間を何度も繰り返している?
しかし、そんな馬鹿げたことが現実にあるだろうか? SFの世界の話ならいざしらず……。
すると私の脳裏にある一人の人物が思い浮かび、電話を掛けてみることにした。
東京の大学に通っていたときに、SF同好会で一緒だった男で、名前は牛川光司といった。
前に会ったのは去年の年末だったろうか。年一回定期的に行われている、大学のサークル仲間の集まりがあって、東京の居酒屋で呑んだとき以来だから、約半年ぶりだ。その際に彼と電話番号を交換していたのが幸いした。
今は東京で小中校生を対象とした個人学習塾を経営している。古今東西のSF小説を読み漁っていて、めっぽうこの手の話に詳しい男だ。
「はい……、牛川……。だれ?」
電話に出た牛川は寝起きなのだろうか、一度あくびをしてから、少し不機嫌そうな声でぼそっと呟いた。
良かった、起きていてくれて。
私は早速、自身の脳裏をかすめる奇妙な感覚と経験を、自分なりにかい摘んで説明した。牛川は私の心配をよそに、端から冗談だと決めつけることはぜずに、私の語る荒唐無稽な話に最後まで耳を傾けてくれた。
「たいへん興味をそそられる話だ」
牛川は感情を抑制したような声でそう一言だけ言うと、積極的に相談に乗ってくれると約束をしてくれた。
しかし、話の途中で私はまた目眩におそわれ、次の瞬間朝のベッドの上にいた。
どうやら、私が紛れ込んだ迷宮には時間制限があるらしい。目を覚ましてからおよそ一時間半といったところだろうか。
長女の一夏が、会社に遅れるから早く起きなさいよ、と母親気取りで声を掛けてきたのも、前回と同じだ。
私がループする世界に紛れ込んだのは決定的だ。
私はいつもどおりに、顔を洗い、口を濯ぐと、髪を整え、パジャマから出勤用のシャツとズボンに着替えて、ダイニングに向かった。
妻を始めとして三人の娘たちはすでに食事を摂っていた。
家を出ると、名も知らぬお婆さんにが「今日も暑いですね」と、馴れ馴れしい態度で話し掛けてくる。
しばらく歩くと、散歩をしている老夫婦の連れている小型犬に吠えられた。いつものことなので、私は「構いませんよ」といった愛想笑いを浮かべてやり過ごす。
遠くでサイレンの音がけたたましく鳴り出した。よく聞くと、救急車のサイレンではなく、消防車のようである。
私は、歩きながら牛川に電話を掛けようとしたが踏みとどまった。あまり早く掛けてしまうと彼はまだ寝ている可能性があるし、もしかしてそれをきっかけに、歯車が狂って致命的な過ちを犯してしまわないとも限らないからだ。
家を出たのが七時五十分前後で、私の記憶違いでないとすれば、前回彼に電話をしたのが八時二十分くらいだったはずだ。その時牛川は起きたばかりのようだったから、それ以前に起こすのはまずい。
私は、例の自販機の前に来た頃に時計を見る。電波腕時計が八時二十分を指し示していた。
スマホの電話アプリから彼の連絡先をタップして、牛川の応答を待った。
「はい……、牛川……。だれ?」
すぐに彼が電話に出てくれたことにホッとした。前回同様、今目覚めたばかりだと言わんばかりの眠たそうな声だ。
私は、改めてこれまでの経緯、朝起きてから気づくと再びベッドの上にいる理解不能な事象について、整理して再度彼に疑問を投げかけてみた。
私にとっては二度目だが、彼にとっては初めて聞く話に付き合ってくれ、前回同様私の突拍子もない話しに理解を示してくれた。
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