第六十六話 エウフェミア先生の戦略講座(第三回)
エアハルトと共に先生の執務室に行くと、ちょうど先生は錠剤を水で流し込んでいる所だった。
「あれ、先生。風邪か何かですか?」
「ん?ああ、そんなもんさ。少し体調を崩してしまってね。この所らしくもなく勤勉だったからな」
「ちゃんと休んで下さいね。先生、意外と一度真面目に仕事を始めるとのめり込むタイプだから。いくら艦隊の立て直しが急務と言っても先生の方が大切ですから」
「分かってるよ」
先生が笑って答えた。
先生の机の上にはいつもお酒の瓶が置いてあるが、ここしばらく量が減っていないように見える。お酒もほとんど飲まずに仕事に打ち込んでいるようだ。
「先生に倒れられでもしたら私はお先真っ暗ですよ」
割と私の中で先生のウェイトはそれぐらい大きい。
エアハルトやクライスト提督は私が先へと進む力になるかも知れないが、先生は私が進む方向を導いてくれる存在だ。
「あまり戦略面で私一人に依存するなよ」
今度は先生は笑わなかった。何だか急に真顔になる。
「えっ?」
「私が間違えないと言う保証は無い……まあその可能性はかなり低いとは自負してるが、それ以上に私がずっと君の側にいる保証も無いんだからな」
「ど、どう言う意味ですか」
私は動揺しながら尋ねた。
まるで先生がいずれいなくなってしまうような口調だ。
「大した意味は無いよ。敢えて言うなら常に悪い状況に備えた代替案を持て、と言う戦略や戦術における基本原則を語っただけさ。万一に備えて他の参謀を見付けておくなり、君自身が成長するなり、ね」
先生は一瞬で真顔を崩し、気の抜けた笑顔で言った。
だけど私の方はそんな風に一瞬で自分によぎった不吉な予感をぬぐう事は出来ず、硬い表情のままで黙り込む。
「さて、それでここにやって来たと言う事は何か相談したい事があったんだろう。何だい?」
先生は次の言葉を待たず、明るい表情と口調のままでそう言った。
「えーっと……どうも統合参謀総監部で大規模な出兵計画が立てられているみたいです。目標はもちろんツェトデーエフ三星系の奪還ですね」
「いずれ来るのは分かっていたが、思っていたより早かったな。内乱と前回の戦いで戦略機動艦隊が受けた損害はまだ回復していないのに」
「私とティーネが派手に功績を上げたせいで、他の門閥貴族や軍内の主流派が焦ってるみたい。特にティーネなんて、声望と実績だけ見れば、いつ陛下が皇太女に指名してもおかしくないぐらいですし」
「軍内の主流派、と言っても実際に動きを見せるのは三長官の中じゃフロイント元帥ぐらいな物だろう。ホリガー元帥は清廉潔白とはとても言えない人だが、もう位人臣を極めて満足している節があるし、ザウアー元帥は政治的な駆け引きを一切受け付けない生粋の軍人だ」
さすが先生、未来を知っている私と同じ人物評価だった。
「でも逆に言えばフロイント元帥一人が動けばそれで軍の帰趨はほぼ決まります」
「まあホリガー元帥は大勢に流されるだろうし、ザウアー元帥は統合参謀総監部から正式な作戦命令が出れば最後はそれに従うだろうからな。その分、止めるのも現状では難しくないんだが」
「そうですね。門閥貴族の今の中心はマールバッハ公爵家に出し抜かれる事を警戒しているフライリヒート公爵家で、ウチと力関係はほぼ五分だから、ウチから口を出せば多分出兵は止められるでしょう。ただ止めるだけだとフライリヒートの反感を買うかもしれませんけど」
「出兵を止めるべきかどうか。それ以上に止めた先の展望について聞きたいのか」
「はい」
「ふーむ」
先生は考え込む素振りを見せながら私たちの分のお茶を淹れてくれた。相変わらず出涸らしだ。
「以前も話した通り、帝国内の政治改革と三星系の奪取は君が目標としている帝国と連盟の和平には必須だ。だから論理的に考えてこの先、君が取れる方針は四つある。一つ、三星系を奪取してもらった上でエーベルス伯に帝国の頂点に立ってもらう。二つ、三星系を奪取した上で君が帝国の頂点に立つ。三つ、エーベルス伯に帝国の頂点に立ってもらった上で三星系を奪取してもらう。四つ、君が帝国の頂点に立った上で三星系を奪取する。帝国内の改革を優先するなら当然三星系への大規模な侵攻はまだ尚早だ。下手に仕掛けても余計な犠牲が出るだけだろうし、まかり間違って他の帝位継承者に大手柄でも立てられたら面倒な事になる」
「先生はこの前のバーベキューの時に、ティーネとこの先の戦略について話し合っていましたよね」
「ああ」
「私は先生もティーネも私なんか足元にも及ばない戦略家だと思っています。でもどうしてあの時、先生とティーネはほとんど真逆の結論に達してしまっていたんです?」
私がそう言うと先生は少し天井を見上げた。
「ヒルト、戦略と言う物は何のためにある?ああ、難しく考えず、一般的な定義を元に答えてくれればいい」
「軍事力の行使を政治的な目的、つまり政策の実現に繋げるためにあります」
「その通りだ。だけどそうだとしたら戦略と言うのはある目的や政策を実現するためにどれほどコストやリスクを払う事が許容されるのだろう?つまり戦争には必ず流れる血やその他の悲惨な犠牲や経済的被害、そしてそれらのコストを払っても結局当初の目的が達成されない可能性と言うのが常に付きまとう。だとしたら政治家や戦略家は一体何を基準にしてそれでもその戦略は実行するに見合うだけの価値がある、と判断すべきだろうか?」
「それは……もう政治や戦略を超えた域の話ですよ。道徳や倫理や感情や文化と言った物が決める事じゃないんですか?」
「そうだね。私はそれらを手段である軍事や目的である政治のさらに前にある物として便宜的に『前提』と呼ぶ事にしている。そしてこの前提と言うのは当然ながら所属している国家や集団、さらに言えば個人によって違うんだ。ある人間にとってはどんな犠牲を払ってでも達成しなくてはいけない問題が別の人間によってはそうではなくなる」
「人間にとって何が恐怖で、何が名誉で、何が利益かは、時代ごと地域ごと文化ごとに違う、ですね」
「良く分かってるじゃないか」
私の返答に先生は感心したような表情を見せた。
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