第11話 小さな誤解
***
惺嵐は宣言通り次の日もまたその次の日も、莉珠のいる居室には来なかった。
新婚初夜を迎えることができず朝を迎えてしまったことは、侍女たちに知られてしまっている。
何故なら然るべき日の翌朝、彼女らは惺嵐が寝室から出てくるのを扉の前で今か今かと待っていたからだ。
太陽が空の高い位置に来ているというのに、いつまで経っても惺嵐が部屋から出て来ない。痺れを切らした侍女の一人が扉を開けて乗り込むと、そこには寝台で熟睡している莉珠しかいなかった。
状況を察した彼女たちは翌日からは大勢で来ることはなくなった。代わりに侍女の青花と
「おはようございます。王妃様、ご気分はいかがですか?」
「おはよう。特に悪いところはないから大丈夫」
最初に声をかけてくれたのは如意だ。
如意は十九歳で大人の雰囲気を纏った少女だ。黒髪を綺麗に結いあげていてほつれ毛は一本もない。灰色の瞳は垂れ目がちで口元には黒子がある。
「王妃様、昨夜はとても冷え込みましたがよく眠れましたか?」
次に話しかけてくれたのは青花。
歳は莉珠の一つ下で十五歳。栗色の髪をふんわりと結いあげ、小花の飾りをつけている。小さな鼻にくりくりとした緑色の大きな瞳。ぱっと見は小動物のようで可愛らしい。
「青花が火鉢と綿の布団を用意してくれたからぐっすり眠れたわ。ありがとう」
莉珠が労うと青花は面映ゆい顔をする。
「今朝は私がお召し物を準備しました。お似合いになるものを選びましたよ」
そう言って青花が見せてくれたのは、孔雀のような藍色と柿子色の生地に小鳥や草花の柄が入った鮮やかな
自分のために選んでくれたことが嬉しくて莉珠は笑顔を綻ばせる。
「青花が選ぶものはどれも洗練されていて素敵ね」
「褒めていただけて嬉しいです! では早速着替えましょう」
促された莉珠は寝台から下りて二人に着替えを手伝ってもらう。
しかし、夜着を脱がせてもらい、用意してもらった衫襦と裙に着替えたところでそれは起きた。青花が莉珠の首から提げている佩玉を取ろうとしたのだ。
莉珠は外されないように首後ろに手を当てて咄嗟に叫んだ。
「駄目、触らないで!」
大声を出してしまい、青花の身体がびくりと揺れる。側にいた如意もびっくりして目を見開いていた。
叱られたのだと認識した青花がみるみるうちに青ざめていくので莉珠はすかさず謝った。
「大声を出してごめんなさい。だけど、この佩玉は絶対に外さないで欲しいの」
莉珠は下を向き、胸の位置にある佩玉に手を添える。
これが外されて莉珠から離れてしまえば、青花や如意に累が及ぶかもしれない。
災いで誰かを不幸にしたくはないし、傷つき悲しむ姿を見るのはごめんだ。
「この佩玉は私の命と同じくらい大切なもの。だから、絶対外してはいけないの」
「とても大切なものなのですね。では、佩玉にあう装飾品に取り替えます」
寒心に堪えない表情を浮かべていると青花が莉珠の気持ちを汲んでくれた。佩玉はそのままに、腕輪や耳飾りを選び直してつけてくれる。
耳飾りをつけ終えたところで、如意が辺りを見回しながら口を開く。
「青花、お化粧道具が見当たらないけど持ってくるのを忘れてないかしら?」
指摘されて青花は、あっと声を上げる。
「すみません、うっかりしていました。すぐお持ちします!!」
ぱたぱたと足音を立てて青花が部屋から出ていく。
「まったく。そそっかしいわね」
腰に手を当てる如意は青花の背中を見つめながら小さく息を吐く。それからすぐに莉珠に向き直った。
「青花を待っている間、お茶でもお飲みください」
「ありがとう。いただくわ」
莉珠は如意の言葉に甘えることにした。
台座に上がり机の前にある敷物の上に座って待つ。程なくして如意が淹れて持ってきたお茶を机の上に置いてくれた。
いつものお茶の香りと少し違っていたので茶杯の中を覗き込めば、昨日までは透き通ったお茶だったのに今朝はそれが濁っていた。
莉珠はそれを見て顔を上げると如意に尋ねた。
「これって乳茶かしら?」
「はい、そうです。今朝搾ったばかりの乳なので新鮮ですよ。冷めないうちにお飲みください」
如意に進められるまま茶杯に口をつける。口に含んだ瞬間、想像していたものとまったく違う味がして莉珠は吃驚して咽せてしまった。
「ゴホッ、ゴホッ!!」
「王妃様、どうなさいました?」
如意は取り乱すことなく微笑みを浮かべたまま、手巾を莉珠に差し出した。
「……お茶がしょっぱくて驚いてしまって。ごめんなさい」
手巾を受け取った莉珠が口もとを押さえながら理由を説明する。
すると、如意は不思議そうに首をこてんと傾げた。
「まあ。王妃様はご存じないのかもしれませんが蒼鹿国の乳茶はこれが普通です。黒茶を煮出して山羊や牛の乳と岩塩を入れて飲むんです」
「そうなのね。はじめての味でびっくりしたわ」
姚黄国で飲まれていた乳茶は塩ではなくたっぷりの砂糖が入っている。
莉珠が口にしたことはないけれど、瑛華が四阿で愛飲しているのを何度も目撃したことがあるし、甘いお茶がどんな味なのかも想像したことがある。したがって塩が入っているとは予想外だった。
「お口にあわなかったのですか? せっかく私が真心をこめて作りましたのに」
如意は口元に手を当て悲しい表情をする。
ここでの生活を始めてから数日しか経っていないが、文化的な衝撃を受けて毎日が驚きの連続だ。けれどずっと後宮の限られた範囲でしか生活を送ってこなかった莉珠にとっては、戸惑いこそすれど新鮮で刺激的だった。
挨拶の仕方も髪型も服装も似ているようでどこか違う。姚黄国の女性は一般的に
男性だけでなく女性も騎馬技術や弓術にも長けていて、中には馬が走っている背中に立って獲物を仕留める猛者もいると青花が言っていた。
馬に乗ったことがなく、弓などの武器も扱ったことがない莉珠には想像もできない。
(蒼鹿国の文化風習を詳しく学ぶ機会があれば良かったけれど。そんな暇なかったから)
王荘が最初の関所まで同行して基本的な情報を教えてはくれた。しかしその内容は概要にすぎず、そこに歴史や文化、風習の深い知識はなかった。
(この国の王妃になったのに、私はほとんど知らないのね)
情けなくて眉根をぎゅっと寄せていると如意が真顔で尋ねてくる。
「……もしかして、姚黄国出身の王妃様からすれば野蛮なお味でしたか?」
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