第2章 身代わりの花嫁

第8話 蒼鹿国の王

 カラン、と床の上に何かが落ちる音がして莉珠の意識は浮上した。

「……っ!!」

 目を覚ました莉珠は腰を下ろしていた台座から飛び上がる。床に落ちたのは手に持っていた扇子で、これは姚黄国から持ってきたもの。

(ここはどこ……)

 扇子を拾い上げた莉珠は辺りをきょろきょろと見回した。

 部屋にいるのは莉珠だけで他に誰もいない。


 室内は青や緑の幾何学模様が緻密に描かれた壁画がある。天井には開花文や咋鳥文の連珠円文が、柱頭や桁には木彫りの装飾と極彩色の幾何学模様が描かれている。安永城とはまた違う壮麗さと豪華絢爛さを持ちあわせていた。


「そうだわ。私、蒼鹿国の天藍てんらん宮殿にいるんだった」

 自分の置かれた状況を思い出した。

 姚黄国の都を出て一ヶ月ほど掛けて蒼鹿国の都に辿り着いてそれから――。

 莉珠は、瑛華として惺嵐せいらんの妻に、そして蒼鹿国の王妃になった。


 婚礼の儀が済んだあとは寺院から宮殿へ移動して、準備されていた祝宴に参加した。大勢の人たちが入れ替わり立ち替わりやって来て祝福の言葉をかけてくれる。

 莉珠は惺嵐の隣で微笑みを浮かべて挨拶するけれど、その度に自分がこの人たちを騙しているのだという罪悪感から胸がちくりと痛んだ。


 祝宴がお開きになると賓客を見送る惺嵐に先に居室に戻るよう言い渡された。

 朝からずっと緊張していたことに加え、長旅の疲れもまだ取れていない。居室へ通され一人になった途端、気が緩んでドッと疲れが押し寄せてきたようだ。


(いつの間にか居眠りをしていたみたいね。どれくらいの時間が経ったのかしら?)

 莉珠は窓の前へ移動する。

 アーチ状の窓には雷文様の格子がはめられていて、その先を覗き込むと外は既に真っ暗になっていた。

 通された居室は宮殿の最上階で眼下には広大な中庭と両脇に建つ建物が見える。視線を先へ走らせると堅牢な城壁があり、その向こうにはたくさんの建物が見え、いくつもの明かりが灯っていた。


 その景色を眺めているとまるで地上に星が舞い降りて輝いているようだと莉珠は思った。

 安永城とは違う造りの天藍宮殿。高いところから景色を見渡したことのない莉珠にとってこれは新鮮な経験だった。

 一頻り景色を堪能した後、莉珠は深く息を吸って気を引き締め直す。


 婚礼の儀が済み、祝宴も無事に終わった。残されている予定はただ一つ――新婚初夜だ。

 夫婦になった男女の最初の営みで、結婚すれば誰もが同じ道を通る重要なものだと今朝がた侍女頭の玲瓏れいろうから教わった。

 そして重要な局面なので相手に何をされても身を委ね、受け入れろとも。

(何をされても身を委ね受け入れる。準備はできている……はず……)

 再び緊張が走り、莉珠の身体が震え始める。いわゆる、武者震いだ。


「も、もうっ。しっかりしなくちゃっ!」

 及び腰な自分を叱り飛ばしていると、部屋の戸が開かれた。

 振り返ると戸口の前には夫になったばかりの惺嵐が立っている。


 さらさらとした艶のある黒髪。すっと通った鼻筋に、くっきりとした青色の瞳。全体的に彫りが深く整った顔立ちをしていて、身体の均整がとれている。

 姚黄国の人間とはまた違う異国情緒漂う雰囲気に包まれているが美丈夫であることに違いはない。

 一瞬、見蕩れてしまっていた莉珠は我に返ると、惺嵐に改めて挨拶をした。


「本日はお疲れ様でした。改めてご挨拶申し上げます。姚黄国から参りました、り……瑛華でございます」

 惺嵐と公式の場以外で話すのは今夜が初めてだ。


 蒼鹿国でも姚黄国でも、婚礼の儀で花嫁の紅蓋頭が外されるまでの間は男女が顔をあわせることは縁起が悪いとされている。

 したがって莉珠が惺嵐と顔をあわせて言葉を交わすのは今夜がはじめてだ。そもそも蒼鹿国入りをして都に辿り着いたのが二日前。荷ほどきやら花嫁支度やらで忙しくしていたのでそんな暇はなかった。


 今はもう正式に夫婦となりいくらでも話すことができる。身代わりの花嫁で瑛華ではないけれど、できれば惺嵐とは良好な関係を築きたい。

(私がお姉様の身代わりで災いを呼ぶ莉珠だって打ち明けることはできないから。……だからせめてそれ以外のことで彼には誠実でありたいわ)

 無意識のうちに首から提げている佩玉に触れる。これを肌身離さず身につけている限り、誰かに災いが降りかかることはないはずだ。


 皇后が倒れて以降、莉珠はそれまで柳暗宮を出る時だけ身につけていた佩玉をいついかなる時でも外さなくなった。

 蒼鹿国でも絶対に佩玉は外さない。

 自分の決意を思い出した莉珠は佩玉をぎゅっと握り締めた。



「未熟者の私ですが誠心誠意お仕えします。どうぞよろしくおねが……」

 話している最中に惺嵐がツカツカと足早にやって来て、莉珠の顔近くに右手を勢いよく伸ばし、ガンッという音とともに壁をついた。

 手を壁についただけなのに、鈍くて重たい音がする。

 好奇心から惺嵐の手に視線を向けた莉珠は目を疑った。


 なんと壁には短刀が刺さっていて莉珠の黒髪が数本はらりと床に落ちていく。

「きゃあっ!」

 莉珠は小さな悲鳴をあげた。明確な殺意を受け取って背筋がぞくりと寒くなる。

(怖がっちゃだめ。だって何をされても身を委ねて受け入れろって言われたから)

 莉珠は玲瓏に言われたことを繰り返し思い出していた。


 重要な局面、初夜では相手に何をされても受け入れるのが妻の務めと言い聞かせる。

 莉珠は怯えながらも真っ直ぐ惺嵐を見据えた。

「……」

「……」

 二人の間に沈黙が流れる。

 どれだけ時間が経っただろう。時間にすればほんの数秒に違いないだろうが体感的には一刻くらい見つめあっていたような気がする。


 固唾を飲んで見守っていると惺嵐が小さく息を吐いて簡潔に問うた。

「おまえは、誰だ?」

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