第6話 真夜中の会合

 項貴妃と瑛華の三人だけという状況は決まって折檻されることが多かった。

 莉珠は胸に手を当てると下を向いた。まだ何もされていないのに、これから起きることを予見して息が苦しくなる。

 憂さ晴らしの相手をさせられるなら早く終わらせて欲しい。

 えも言われぬ不安に駆られていると不意に衣擦れの音が耳に入る。

 ハッと顔を上げた時には項貴妃が目の前に立っていた。続いて莉珠の肩にぽんと手が置かれる。妙に優しい手つきに莉珠の身体はぞくりと寒気が走った。


 怯えた表情を浮かべていると項貴妃が静かに言った。

「莉珠、おまえは夜明け前にここを出て蒼鹿国そうろくこくの王のもとに嫁ぐのよ。――瑛華の身代わりとしてね」

「……えっ?」

 莉珠は赤色の瞳を見開いた。それはまさに青天の霹靂ともいえる言葉だった。



 蒼鹿国――それは姚黄国ようおうこくより西域にある小さな国で、棲雲せいうん山脈と砂漠高原に挟まれた比較的新しい国だ。

 有名な特産品は上質な玉で、棲雲山脈から流れる河でしか採れない。その中でも白色や乳白色は姚黄国の貴族や富豪の間で人気が高く、銀と陶器で取引がされている。小国ながら豊かな国であると耳にしたことがあった。


 ところが、姚黄国の国民は蒼鹿国が野蛮な国という認識を持っている。その理由は異民族――遊牧騎馬民族の流れをくむ者たちの国だからだ。未だに遊牧生活をしているとも、移動住居で暮らしをしているとも言われているが真相は不明だ。

 動揺していると今度は瑛華が口を開く。

「嬉しいでしょう? 鳥かごのような後宮から出られるわよ」

「で、でも。縁談が上がっているのはお姉様なんでしょう? 身代わりってどういうことですか?」

 聞き返すと項貴妃が力任せに顎を掴んでくる。鋭く伸びた爪が肌に食い込んで莉珠が呻き声を上げると項貴妃は「いい声」と言ってうっとりと目を細めた。


「陛下は北西地域の守りを強固にするために蒼鹿国と手を組むことにした。その証に瑛華を降嫁させると言い出したの」

 姚黄国より北西にはウシハ族という騎馬民族がいて、彼らは略奪や殺人といった蛮行の限りを尽くしている。西と東を繋ぐ文明の十字路では隊商がたびたび襲われ、多くの国が被害を受けてきた。

 今年も姚黄国と交易をしている国の隊商の何組かがウシハに襲われて金品を強奪された。その上、領土までもが侵されてしまった。

 これ以上の被害を出さないため、さらなる侵攻を防ぐために皇帝は蒼鹿国と同盟を結ぶことにしたのだ。


 しかし姚黄国の人間にとって『騎馬民族』というのは印象が悪い。したがって元遊牧騎馬民族である蒼鹿国に奇異の目を向けてしまうのもまた事実だった。

「おまえとてあれがどんな国なのか、噂くらいは耳にしたことがあるだろう? 野蛮な国に嫁ぐなんて瑛華が耐えられるはずない」

「お母様の言うとおり、あんな国の王のところへ嫁ぐなんてわたくしは耐えられないわ。噂だと王は毛むくじゃらの巨漢だというし。おまけに肥満体型で腹の贅肉は膝まで垂れて、常に脂汗が滲んでいるんですって! 想像しただけで気持ちが悪いわ!! ――それから」

 瑛華は言葉にするのも憚られるというように口元に袖を当て、一段と声を潜めた。


「おまえはレビレート婚を知っているかしら? あそこでは野蛮な風習が盛んに行われているのよ」

 聞き慣れない単語に莉珠は小さな声で「分かりません」と答えると顎を掴んでいた項貴妃が答えてくれた。

「レビレート婚は夫の兄弟とも関係を持つことよ。つまり兄弟間で妻が回されるの」

 説明を聞いて莉珠はヒュッと息を呑む。

 項貴妃は憂いのある表情で瑛華を見つめると莉珠の顎からぞんざいに手を放した。

「子には辛い思いをさせたくないというのが親心というもの。莉珠、これまでの恩返しに瑛華の身代わりになりなさい。そのためにおまえの身体には傷一つつけなかった」


 ――恩返し。

 項貴妃のお陰で莉珠は柳暗宮と福寿宮の範囲までの後宮内を歩けるようになった。もしも彼女がいなければ今頃莉珠は一生あの廃れた寂しい柳暗宮でたった独りで過ごさなくてはいけなかったはずだ。

 莉珠もその恩は返したいと思っている。だからこそ、項貴妃の考えを危惧した。

「ですが身代わりなんて……。私は災いを呼ぶ恐れがある上、あちらの王様にお姉様の身代わりだとバレたら国同士の問題に発展しかねます。それにこれはお父様の勅命で勝手に私が嫁いだりしたら……」

 叱られて罰を受けるのは項貴妃と瑛華だ。


 すると言葉の先を読んだ瑛華が口を開いた。

「心配無用よ。蒼鹿王はわたくしの顔を知らないし、おまえの目が災いを呼ぶことも知らない。だからわたくしからおまえを降嫁させるようお父様に進言したの。そうしたら、厄介払いもできて一石二鳥だとお喜びになっていたわ」

 皇帝が喜んでいたと聞いて莉珠は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。

(お父様にとって私は厄介者でどうでもいい存在だったのね)

 無関心だったことは重々承知している。しかしせめて、何かの役に立つくらいには思われているだろうと考えていたのに。それすらもただの自惚れだった。


 現実を受け止め切れずに呆然としていると、莉珠の胸中を知ってか知らでか項貴妃が口を開く。

「こたびの婚姻は表向きあの国と絆を深める名目で動いているが実際は違う。懐柔させてこちらに敵意を向けさせない外交戦略も含まれている。うちの兵力のほとんどはウシハのいる北西に向かっているから西に割きたくないの」

 要は北西の防衛力を低下させないために蒼鹿国をうまく丸め込みたいという思惑があるようだ。そのために同盟の証と称して公主を嫁がせる。


 皇帝の意図を理解すると同時に、瑛華の思考も理解できる。

 瑛華は政略結婚を命じられて素直に応じるような性格ではないし、蒼鹿国は蛮族の国。そこへ嫁げと言われることは相当の屈辱だっただろう。

(私が身代わりになればすべてがうまくいくということね)

 お膳立ては整っている。あとは莉珠が蒼鹿国へ向かえばいいだけのようだ。


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