第5話 忍び寄る魔の手
「公主は不当な扱いを受けているのに何故怒らないのですか?」
「怒るって何を?」
莉珠はぱちぱちと瞬きをしてから小首を傾げて疑問を疑問で返した。
その様子に困惑する瑩瑩は焦れた様子で言った。
「だって、だってそうじゃないですか! あなたがいくら災いを呼ぶ、噂の公主だとしても奴婢のような扱いを受けていい訳がありません。項貴妃や瑛華公主から折檻されているとも聞きました。あなたは皇帝の娘です。こんなのおかしいです。害されて良いはずがありません!!」
声を荒らげる瑩瑩は根が真面目なのだろう。
莉珠への不当な扱いに下唇をぐっと噛み締めている。一方で莉珠はばつの悪い顔した。
「不当だなんて思ったことないわ。私が鈍間で災いを呼ぶ身の上だから仕方がないことなの。それに項貴妃様のお力がなければ永遠に柳暗宮から出られず独りだった。二人には感謝しているのよ」
項貴妃は莉珠に自由を与えてくれた恩人。負の感情をぶつけてはくるが曲がりなりにも莉珠に価値を見出してくれている。
柳暗宮で孤独に過ごす方がよっぽどぞっとする。だから莉珠は二人に感謝し、誠心誠意尽くさなくてはいけないと思っている。
恩返しをするために。そして生まれてきてしまった罪を償うために。
傍から見れば歪な関係に映るに違いない。しかし、莉珠にとって二人は人との繋がりを持つための最後の砦だった。
背の高い瑩瑩は莉珠と同じ目線になるように膝を曲げる。
「感謝は後宮内を自由に歩けるようになってからするものです。福寿宮から先へあなたは行ったことがないんですよね? だったら歩いてみましょうよ」
瑩瑩の爆弾発言に莉珠は吃驚し、口を半開きにした。
言われた意味が分からず、ようやく頭が理解に追いつくと全力で首を横に振る。
「だ、駄目よ。そんなことをすれば皇后様に累が及ぶわ!」
「皇后様とあなたとの因果関係はないと伺っています」
「だけど!」
これ以上皇后の容態が悪化することはあってはならない。
(もし皇后様が亡くなってしまったらお父様が悲しまれる。想像するだけで辛いわ)
たとえ自分に関心を向けてくれない相手だとしても悲しませる行動はとりたくない。
また、誰かに災いや不幸が降りかかってしまうくらいなら――現状のままでいい。
「私はこの状況に満足しているわ」
「……公主」
瑩瑩は目を閉じて睫毛を震わせる莉珠の肩へ手を伸ばそうとした。しかし、その手は触れることなく空を掴む。
瑩瑩は莉珠から離れると盆を手に取った。
「……出過ぎた真似をしてすみませんでした。失礼します」
謝罪の言葉を呟いた瑩瑩は顔を背けると足早に部屋から出ていってしまった。
仕事を終え、柳暗宮に戻った莉珠は夜の
昼間と違って夜の帳が下りた里院は暗い。灯りを頼りにどこまで掃除ができるか想像もつかないけれど、できる限りのことはやるつもりだ。
「皆が寝静まってから頑張らなくちゃ……」
そう呟きながら瑩瑩からもらった月餅を一口囓った。想像していた通り、餡がぎっしりと詰まった食べごたえのある月餅は美味しい。こんなに美味しいものを食べるのは、はじめてかもしれない。
『公主は不当な扱いを受けているのに何故怒らないのですか?』
舌鼓を打っていると不意に瑩瑩の言葉が蘇る。
(私は不当な扱いを受けている? ……そんなこと、ない。全部私が悪いのよ)
だって、いくら考えを巡らせてもこちらに原因があるとしか思えないから。
蕎嬪が死に、乳母や女官も不幸な死に見舞われた。
莉珠は目もとにそっと手を置く。
「私がこの目に災いを宿さなければ……」
そもそも生まれてこなければ皆は今も幸せに暮らせていたかもしれない。
そう結論に至った莉珠の表情には、暗い影が落ちる。
やはり瑩瑩の意見は間違っていると、莉珠は囓った月餅を見つめながら思うのだった。
夜の後宮は昼間とは違ってしんと静まり返っている。起きているのは寝ずの番をする侍衛だけで彼らは絶えず見回りをしていた。
しかし、柳暗宮と福寿宮の間にある路は昼夜問わず侍衛の見回りはない。もともと人の往来に限りのある静かなそこは、夜になるとより一層侘しさが増していた。
莉珠は手持ち灯籠を下げて福寿宮へ向かった。
秋の冷たい空気がそよ風にのって頬を撫でる。日中と比べて夜は肌寒い。つい最近まで涼しいと感じていたはずなのに。季節は着実に冬へと向かっているようだ。
空を仰ぐと雲一つない美しい月夜が莉珠の瞳に映る。
今夜は月が明るい。月の光が地上まで降り注いでくれているお陰で莉珠の持っている灯籠には火がついていなかった。
何故なら支給される油には限りがある。あまり贅沢できないためこの天気はありがたい。
(この状況が続くなら昼間みたいに掃除ができるかも)
そう期待しながら視線をもとに戻した時だ。突然誰かに後ろから腕を掴まれ、木陰に引きずり込まれる。
「きゃあっ」
引っ張られた瞬間に莉珠は手に持っていた灯籠を落としてしまった。
抵抗しようとすると腕の骨が軋むほど強い力で捻じ上げられ、動きを封じられる。そもそも痩せ細った莉珠の身体では健康体の相手に敵うはずもなかった。
横目で相手を確認しようとするが、暗がりのせいで男なのか女なのかも判断できない。
(これはお姉様の差し金? 私が里院掃除をできないようにしているの?)
混乱している一方で、頭はどこか冷静だった。
莉珠は痛みに耐えながら声を絞り出す。
「あなたは誰? お姉様に邪魔をするよう命じられたの?」
莉珠が率直に尋ねると、意外な声が返ってきた。
「…………嗚呼、私にこんなことをさせるなどあの方もお人が悪い」
声を聞いて相手が誰なのか分かった。相手は宦官の王荘だ。
項貴妃の腹心である王荘は普段から莉珠のことを毛嫌いしており、陰で虐めてくる。
莉珠にとっては王荘も恐怖の対象だった。
(私、王荘に何かしたかしら? だけど口ぶりからして誰かに命じられたみたい)
思考を巡らせど答えは出てこない。そうこうしているうちに莉珠は連行され、普段使わない路を歩かされる。
また誰かに災いが降りかからないだろうか。
不安が募って尋ねたいのに、尋ねられる雰囲気ではなかった。
程なくして、莉珠はどこかの宮の一室に通される。奥には明かりが灯っていて、二つ影がある。
莉珠が目を凝らすとそこには項貴妃と瑛華が椅子に腰を下ろしていた。その周りにはいくつもの蝋燭が並んでいる。じっと観察していると王荘に無理矢理跪かされた。
「項貴妃様、莉珠公主をお連れしました」
「ご苦労だったわ。下がりなさい」
王荘は項貴妃に拱手をするとくるりと背を向けて部屋から出ていく。戸がぱたりと閉まるとたちまち莉珠の身体に緊張が走った。
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