第4話 小さな優しさ


「いた、い……」

 項貴妃に前髪をわしづかみされ、引っ張り上げられていると理解するまでほど時間はかからなかった。

「ふうん。こなたの言いつけどおり佩玉をきちんと首からさげているようね。間違っても瑛華に災いを振りまいたらおまえの目玉をくりぬいて、鳥の餌にするからそのつもりでいるのよ」

「は、い……」

 震える唇から声を絞り出して返事をする。


 莉珠にとって項貴妃は自由を与えてくれた恩人である一方で恐ろしい相手だった。彼女はいつも憎悪の感情を剥き出しにしてぶつけてくる。虫のいどころが悪いと昼夜関係なく呼び出され、躾と称して折檻される。

 身体に痕が残らない程度に暴力を奮われ、窒息死する寸前まで水甕に顔を浸けられて苦しみを与えられる。毎日ご飯が十分にもらえないのも項貴妃が女官たちにそう命じているからだった。


 項貴妃がぱっと手を離すと莉珠はその場に倒れ込んだ。

「嗚呼、おまえを見ていると虫唾が走るのはその顔があの奴婢ぬひに似ているせいかしら?」

 二人の兄は皇后の子供で瑛華は項貴妃の子供。

 どちらも高貴な身分の出であるのに対し、莉珠の母・蕎嬪きょうひん奴婢ぬひだった。


 そして彼女が皇帝の寵愛を得る前までは項貴妃が寵妃だった。

 卑しいと蔑んでいた相手に皇帝の寵愛を奪われ、項貴妃の矜持がズタズタになったのは言うまでもなく。蕎嬪が死んだ後もその憎悪と恨みの矛先は莉珠に向かっている。

「せっかくおまえがアレを殺してくれたのに思い出してしまったわ」


 莉珠の赤色の瞳が潤みを帯びる。母親を殺してしまったという事実を突きつけられて胸に鋭い痛みが走った。

 唇を引き結んで震える拳を握り締めていると、項貴妃が恍けた様子で小首を傾げる。

「あらどうして泣きそうな顔をしているの? 事実を話しただけで他意はないわ。これではまるでこなたが虐めているみたいではないの!」

「い、いえ……決してそんなっ」

 莉珠は弱々しい声で弁解した。


 眉をひそめる項貴妃だったが、興味をなくしたように溜め息を吐く。

「おまえを可愛がってやりたいのは山々だけれど、今は時間がない。瑛華、陛下がお呼びよ。すぐ支度なさい」

「はぁい。お父様はわたくしに何の用なのかしら?」

「宦官によるととても良い話だそうよ」

「まあ、嬉しいわ!」

 瑛華は莉珠に向かってニヤリと笑い、目を細めると踵を返していなくなる。


 その表情からは「おまえが呼ばれることは一生ないわね」という色が透けて見えた。

 災いを呼ぶ公主だとしても莉珠は皇帝の娘。会えずとも息災かどうかを確認する方法はいくらでもある。しかしこれまで皇帝が遣いを寄越したことは一度もない。


 改めて関心を持たれていないことを痛感し、惨めな気持ちになっていると項貴妃が言葉の刃で弱った心に追い打ちをかけてきた。

「おまえにできることは、この世に生まれてきた罪と周りに迷惑を掛けている罪をこなたと瑛華に償っていくことよ。身を粉にして誠心誠意尽くしなさい」


 それは死ぬまで生き地獄を味わせてやるという主旨の宣言だったが、莉珠はその意図を理解していなかった。そして既に充分なほど生き地獄の日々を送っている。

「恨むなら赤い瞳で産んだ蕎嬪を恨むのね。――王荘」

 項貴妃はあくまで悪いのは蕎嬪だと言って締めくくると後ろで控えている宦官を呼ぶ。

「はい、項貴妃様」

 呼ばれた中年の宦官は回り込むようにして項貴妃の前に立つと供手をした。


「莉珠に仕事をさせておやり」

「御意に」

 返事をした王荘は後ろに向かって手招きをした。すると端の方で大量の繕い物と焦げついた鍋を持っていた女官が合図を受け手机の上に置く。

「夕刻までに終わらせて。手を抜いたら承知しない」

「……はい」

 項貴妃は優雅に裙を翻し、王荘や後ろで控えている女官を連れて部屋から出ていった。


 残された莉珠はのろのろと身体を起こす。運び込まれた大量の衣類や鍋に視線を向けた後、黙々と仕事に取り掛かった。





 項貴妃の言いつけを守るため、莉珠は休憩をする間も食事をとる間も惜しんで仕事をこなした。真夜中になったら瑛華に命じられた里院にわ掃除も待っている。力のいる仕事なので夕食はとっておきたいところだが窓の外を見ると既に陽は傾いていた。

 今から厨房へ行っても夕食はにはありつけそうにない。


 莉珠は小さく息を吐いて肩を落とす。

「あのう」

「……ひゃっ!?」

 突然声がして頭を動かすと戸の前で人が立っている。

 莉珠は顔を赤くして首を縮めた。

「気づかなくて、ごめんなさい。えっと……」

瑩瑩えいえいです。王荘様に頼まれて仕上がった繕い物を取りにきました」



 宮女の格好をした、二つのまげを結った双丫髻そうあけいの少女は見慣れない顔だった。最近年季明けで女官や宮女が福寿宮からいなくなったのでその補填として入ってきたのだろう。

 涼しい目元の彼女は全体的に中性的な顔立ちをしていて背も高い。もともと背の低い莉珠が立つと見上げる格好になった。


「机の上にたたんであるものですべてよ。全部終わったと王荘に伝えて」

「承知しました」

 瑩瑩は机の上に置かれた衣類の山を見て一瞬片眉を動かすも、すぐに真顔になるとテキパキと働いた。大きな盆に修繕し終わった衣類をのせ終えると、瑩瑩は考え込むようにじっとそれを見つめている。


 莉珠が不思議そうにその様子を観察していると、お腹の虫が室内に鳴り響いた。慌ててくるりと背中を向けてお腹を押さえる。

(瑩瑩に聞かれたかもしれない。……恥ずかしい!)

 羞恥心から莉珠が顔を真っ赤にしていると瑩瑩に名前を呼ばれ、何かを包んだ布を差し出してきた。

「公主、良かったらこれをどうぞ」

「え?」


 受け取ってはらりと布を開けば中には月餅が二つある。香ばしい香りのする分厚いそれは、中に蓮の実や胡桃の餡がたっぷり詰まっていそうだ。

 食べる瞬間を想像して莉珠のお腹がまた鳴いた。二度もお腹の虫の鳴き声を聞かれてしまい、涙目になる。

「部屋のどこかで虫が鳴いています。その虫が月餅を食べに来る前にしまってください」

 瑩瑩は、莉珠のお腹の虫の声ではない体を装ってくれる。

「あ、りがとう」

 彼女の心遣いにお礼を言うと、莉珠は月餅を包み直して懐にしまった。

 そこでふと、今朝のできごとを思い出した。


「もしかして厨房に包子パオズを置いてくれていたのはあなた?」

 莉珠が尋ねると瑩瑩は小さく頷いて周りに人気がないことを確認してから声を潜めた。

「昨夜は瑛華公主の嫌がらせで夕食抜きにされていたでしょう? なので宴でくすねた包子を置いておきました」

 実を言うと昨日は瑛華に頼まれていたくつの刺繍を渡しにいったのだが図案が気に入らないと言われてしまい、その罰として食事を抜きにされていた。


「ありがとう。とても助かったわ」

 莉珠は心の底から感謝して微笑みかける。あの包子がなければ今頃もっとお腹が空いて力が出なかっただろうから。

 すると、瑩瑩が耐えかねたように表情を歪めた。




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