第1章 招災の公主

第2話 災いを招く赤眼


 姚黄国ようおうこくには五百年にわたって続く王朝があり、首都には広大かつ壮麗な安永城がある。

 城内には皇帝に仕える女の園――後宮も存在し、中でも大極宮から最も遠く離れた北西端には柳暗宮という小さな宮がある。そこは冷宮のように廃れていて女官や宮女の往来などほとんどない寂しい場所だった。

 公主の莉珠りじゅは柳暗宮にひっそりと暮らしていた。



 空が白み始める頃に起床すると着替えを済ませて宮を出る。

 公主だというのに袖を通している衫襦ひとえくんは刺繍も刺されていない無地の色褪せた朱柿しゅし色。結い上げている黒髪にも簪や櫛といった飾りの類はなく、紐で結ばれているだけ。

(今日は少し寝過ごしてしまった。早く厨房へ行かないと誰かと鉢合わせしてしまうかも……)


 一抹の不安を抱えて歩みの速度を上げる。目的の厨房に辿り着くと莉珠は迷うことなく貯蔵箱へ向かい、蓋を開けて中を覗き込む。

 箱の中は莉珠の期待を裏切るように何もない。空っぽだった。

「当てが外れてしまったわ」

 溜め息を吐いてがっくりと肩を落とす莉珠。

 普段この箱には野菜や果物が貯蔵されていて、少なくなってもすぐに担当の料理人が補充をしてくれる。

 だから皆が起きて仕事をしはじめる前に量が分からない程度に野菜や果物をこっそり持ち帰っていたのだが……生憎今日は持ち帰られるものが何もない。


(昨夜はこう貴妃様主催の宴が福寿宮で開かれていたんだった。うっかりしていたわ)

 宴が開かれる日は贅の限りを尽くした大量の食事が振る舞われるので普段と比べて何倍もの食材が消費される。また、調理や後片付けに追われる料理人には食材を補充する暇などなく、貯蔵箱が空っぽなのは無理もないことだった。


 無駄足を踏んでしまってしょんぼりとしていると調理台に目が留まる。

 台の上には、竹で編まれたお椀型の籠がネズミや虫から何かを守るようにして置かれていた。籠を持ち上げてみると中には乾燥してすっかり固くなった包子パオズが一つ置かれている。

 蒸し直さなければ固くて食べられそうにないほどカチカチの包子。しかし莉珠のお腹は食べたいと大きな声で主張した。

「……ありがとう、ございます」

 莉珠は誰とも分からない相手に感謝を述べた。竹籠を棚に戻して包子を布に包むと懐にしまい踵を返す。



 柳暗宮に戻った頃には陽が城壁から顔を出して夜はすっかり明けていた。

 莉珠は柳暗宮内の小さな調理場でお茶を淹れ、包子を蒸し直すと部屋に運ぶ。昨日の昼から何も食べていなかったので包子にありつけるのはありがたかった。

 蒸し直した包子はもちもちとした弾力を取り戻している。一口噛むとしっとりとした皮が舌の上にのり、ほんのりと甘みがする。そして中にはたくさん野菜が入っていた。


「美味しい……」

 莉珠が夢中で包子を頬張っていると柳暗宮の門扉がドンドンと乱暴に叩かれた。

 時間が幾ばくか経つのを待ってから席を立つ。そして門扉を開けると、地面の上に椀と匙がのった膳が粗雑に置かれていた。

 莉珠はそれを拾い上げると部屋へ持ち帰った。

 椀には底に描かれた模様が透けて見えるほど薄い粥がつがれている。

 悲しいことにこれはれっきとした莉珠の朝食だ。


「いただきます」

 莉珠は文句一つ言わずに手をあわせると、たった一杯の薄い粥を食べる。味付けも歯ごたえもない重湯のような汁が喉をとおっていく。

 食べ終えたばかりなのにお腹がまた鳴いた。莉珠は下を向くと赤子をあやすようにお腹をさする。今朝は包子があったお陰でお腹の主張は控えめだった。

 収監されている罪人のような扱いを受けているが莉珠はこの国の公主だ。

 本来ならばこのような待遇を受ける身分ではないし、彼女に仕えるべき女官や宮女がいて、身の回りの世話をしてくれる。


 ところが柳暗宮は閑散としていて莉珠以外に人の気配はどこにもない。建物は他の宮より古く、修繕されていないところからは隙間風が入り、雨の日などは酷い雨漏りもする。

 あばら家ともいえる宮に五年以上たった一人で暮らしている。その原因は、莉珠の瞳が血のように赤い色をしているからだった。


「……そろそろ福寿宮へ行かないと」

 朝食を終え身支度を整えた莉珠は胸辺りにある首飾り――翡翠の佩玉はいぎょくを確認する。

 佩玉には辟邪へきじゃの念が込められていて、これを首からさげておかないと後で厳しい罰を受ける羽目になることを莉珠はよく知っていた。






「――いつまで宝飾品の手入れをしているの? お気に入りの簪が挿せないのよ!」

 福寿宮内の小さな離れにて。

 莉珠が正座して玉の腕輪や螺鈿の簪を磨いていると罵声と共に戸が勢いよく開かれる。

 驚いて身体を揺らし、顔を上げるととそこには異母姉の瑛華えいかが腰に手を当てて立っていた。


 シミ一つない白くて陶器のような肌に、ぷっくりとした桃色の唇。鼻は高くもなく低くもない高さで、まどろむ猫のような瞳は榛色。濃紺を帯びた黒髪は頭上でくるりとした双鬟そうかんが結われている。

 瑛華は目を奪われるほど美しい公主だった。

 ところが今の彼女は端正な顔を歪め、莉珠へ蔑んだ視線を送っている。


「丁度終わりました、お姉様」

 莉珠は瑛華の側まで寄ると膝を床についてから顔を伏せ、磨き終わったばかりの簪を頭より高く持ち上げて差し出した。

 瑛華は鼻を鳴らしながらそれを奪い取った。

「まったく。どうしてわたくしが簪を取りにここまで来なくてはいけないの。それもこれもおまえがカメのように鈍間なせいよ」

「申し訳ございません、お姉様」

 莉珠は淡々と受け応える。

 余計なことを口にすると瑛華の機嫌を損ね、躾と称して折檻されてしまう。現に、この部屋の入り口には莉珠を苦しめるために水甕が置かれていた。


「のんびり屋のおまえのために、わたくしが素晴らしい仕事を与えてあげる。皆が寝静まった後で里院にわの掃除をなさい。朝まで好きなだけゆっくり仕事ができるわ。ただし、草一本でも残っていれば食事抜きにするから。いいこと?」

 夜に里院掃除など、当たり前だが細部まで行き届かない。

 瑛華はそれを知っていながらわざと命じている。――それもこれも莉珠の苦しむ姿を見たいがために。


「……はい」

 莉珠は短く返事をした。

(無理だと言ったら折檻される。……痛いのは、嫌)

 幼い頃から虐げられてきた莉珠は、瑛華に逆らってはいけないという考えが長年にわたって染みついていた。そのせいでどんな無理難題も二つ返事で答えてしまう。

 返事を聞いて気を良くした瑛華は奪い取った簪を頭に挿した。


「あっ、そうそう! おまえに言わなくてはいけないことを思い出したわ」


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