第3話
木曜夜十時。今週は珍しく、僕が最後だった。最後になると面倒も多いけれど、他の人に隠れてこそこそと彼女に会う必要がなく、自然と三年二組に向かう僕の足は軽くなる。
向かった先、三年二組の教室前に君はいた。珍しく、中ではなく外に。いつもと少し違う姿で。
本当に、この妄想は都合が良くて困ってしまう。
「こんばんは、センセ」
「こんばんは、
「似合うかい?」
「とても、素敵だよ」
背中まで伸びていた長い髪を肩のあたりまでで切りそろえ、低い位置で二つに結んだ彼女にそう伝える。
かつて、そうしてあげたかったから。あの時に、こういう会話をしたかったから。
「先週そういう話をしたからね。思い切って変えてみたんだけど、上手くいったようで何よりだよ」
くつくつと喉を鳴らすノスタルジー。彼女は本当に、すべてを見透かしていて心臓に悪い。
「丁度いい、とも思っているだろう?」
「まあね」
僕が手に持つプリントに意味ありげな視線を向けながらそう言うので、僕はプリントを差し出す。
数学研究の授業のものではないけれど、僕の受け持つ授業で渡す予定の宿題プリント。
先週、宿題の話をしたのを思い出してわざわざ持ってきたものだ。
「今の子はこんなの解いてるのかい? うっひゃあ、解けねー」
「僕らの頃も大して変わらなかったよ」
「そうだったかい?」
本気で首を傾げる彼女は、当時も決して優秀な方ではなかった。間違いだらけのプリントを見れば一目瞭然だったけれど、それでも彼女は、めげずにすべての問題に取り組んできていたっけか。
「一生懸命なことをセンセにアピールしたかったのが一つ。やる気のない子だと思われたくなかったのが一つ。間違いを訂正してもらうことで会話が生まれないかな、という期待もあったかな」
「解けなかっただけじゃないの?」
「それもあるけどね」
ノスタルジーの言葉は彼女の、本物の
僕がそうだったらいいなと、そう妄想しているだけの言葉だ。
実際に彼女がどんな思いで宿題に取り組んでいたのかは知る由もないけれど。それでも、実際に間違いだらけのプリントの訂正と正しい解き方を教えるだけの会話でも、彼女と話せるのが嬉しかったのだ。
僕が。ただ一人。
「彼女もそう思っていたよ」
「それを君に言わせてしまうあたりが、僕の卑怯なところだね」
「今日も卑屈だねぇ」
ノスタルジーは今日もくつくつと喉を鳴らして先を歩く。
『彼女』と呼んだり『私』と言ったり、『ノスタルジー』と呼んだり。
僕も彼女も、ノスタルジーと賀古希美をどことなく、ふんわり区別している。
僕は、僕が一人で自分を慰めているだけなのだと、自らに思い知らせるみたいに。
君は、きっとそれが反映された結果、だと思う。
「それより、今日は教室にいないの?」
「他に誰もいないのだろう? 折角だから散歩でもしようじゃないか」
そう言うノスタルジーにゆっくり着いていくけれど、正直、あの教室の外に彼女との思い出は少ない。
センサーに飛び込み、真っ暗な廊下の蛍光灯を次々点灯させながら練り歩いても、あまり晴らせる後悔はないだろうに。
「そうでもないさ。例えばあの窓。派手に割って怒られていたじゃないか」
指差す先を見て、思い出す。割ったのは僕ではない。友人の早瀬だ。
当の本人がそそくさと逃げ出したというのに僕は放心してしまって、犯人と間違えられた結果、彼の代わりに怒られたんだったか。
「センセが弁明しなかったからだよ。彼女は優しいなとも思っていたけれど、それ以上に、理不尽に怒られるセンセを見て胸を痛めていたよ」
……あの時、周りに彼女は居ただろうか。見られていたことすら僕は知らなかったはずだ。
そうだったとすれば、確かに嬉しい。だから彼女の介在しない思い出を
彼女が窓を指差すまで、僕はその記憶を忘れていたのに?
「……君は、僕の妄想なんだよね?」
「私はそうだと言った覚えはない。先週もそう言ったはずだよ」
時折こうして、本当の賀古希美なのではないかと思わせてくるのがずるい。そうであるはずはない。
僕は当時何も出来なかった。だからこうして、今更やり直している気になっているのだ。
そんなに都合がいいはずがない。
「私には、センセがそう思い込みたがっているだけに見えるけどね」
本当は彼女も僕を想ってくれていたのだと、そう思いたいからノスタルジーを生み出したのか。
そんなはずはないと思いたいから、目の前の少女を妄想ということにしているのか。
迷う僕とは対照的な迷わぬ足取りで、ノスタルジーは歩く。目的地は決まっているのだと言いたげに、しっかりと。
向かった先は、外だった。
『一緒に写真、撮ってくれませんか』
自分に話しかけているのだと、すぐには信じられなかった。
何で僕。
他にもっと愛想のいい人がいるでしょ。
思い浮かぶ言葉を口にしてはいけないことはわかったけれど、かと言って何を返せばいいか分からない僕は。
『……いいけど』
そんな、信じられないくらいそっけない返事をしたのを覚えている。
「やり直すかい?」
「誰が撮るのさ」
「それもそうだ」
彼女の友達、名前も知らない他クラスの女子に撮ってもらった写真に映った僕は、ガチガチに緊張してひどい顔をしていた。
お陰で折角のツーショットなのに見返すことも出来ない。羞恥心が邪魔をする。
「その割に、メールに添付された画質の悪い画像をSDカードに保存して今のスマホにまで引き継いでいるじゃないか」
「消せる訳でもないからね」
その写真を送るから。彼女にそう言われて連絡先を交換したのは、卒業式の日。
目の前の、裏門近くのケヤキの樹の下でのことだった。
「表の桜じゃないんだよなあ」
「あんな人の多い激戦区で堂々と頼める度胸があるはずないじゃないか。これでも勇気を出した方なんだよ」
「分かっているよ」
授業の一環だから。ただそれだけだった、大したことのない行動だったのに。
僕が一つ一つ、彼女の分からない問題の解き方を解説したのが嬉しかったのだと。
僕と仲良くなりたかったんだと。
そう教えてくれたのは、写真が添付されたそのメールでだった。
あの時、彼女がさぞ勇気を振り絞ってくれたのだろうと。
そう思えたのは、僕は彼女に何をしてあげられただろうかと、その時振り返って、ようやくのことだった。
解説だって、写真だって。僕から動けたことなんてなかったのに。
君が聞いてくれたから、君が声をかけてくれたから、実現したことなのに。
取ってつけたように、こちらこそありがとうって、そう返信することでしか伝えられなかった自分を省みれば。
彼女の勇気は、どれほど尊いものだっただろう。
「そう思うなら、言えばいいさ」
「そうだね。君は、そのためにいるんだ」
「違うよ。私にじゃない。彼女にさ」
突如、これまで僕に都合のいいことばかりを言ってくれていたノスタルジーは、思いもよらぬことを言った。
「同窓会。今度あるんだろう? 彼女は来るよ。センセに会いに」
行かない。そう返事をするつもりでいた招待の葉書が脳裏に浮かぶ。
「……行かないよ。行っても、何も言わない。今更だよ。十五年以上も君にありがとうって言えなかったことを悔いているんだ、なんて、三十過ぎてから言われる身にもなってよ」
「それが迷惑かどうかは、センセが決めることじゃないよ」
だから、君が決めることでもない。僕が生み出した君が。
「……今更だよ」
だから、僕にはそうとしか言えない。
「卒業式の日も、そう言ったんじゃなかったかい? また後悔するのかい?」
それでも君は、言い張った。
「私が言ってるんだぜ? センセ。彼女は、センセに会いに来る。後悔を晴らすなら、相手が過去じゃあ役者不足だ」
「それで、いいんだ。僕に必要なのは、前じゃなくてこの時間だよ」
「でも。言いたいことがあるんだろう? 私じゃなく、彼女に」
すべてを見透かして核心を穿つ彼女に、言い返す言葉を僕は持ち合わせない。
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