第2話

 ノスタルジーに出会ったのは偶然だった。

 部活の顧問としての仕事、生徒指導案件の浮上、定期テストの制作作業。

 仕事がたまたま集中してしまったその日、夜十時に廊下で君に出会った。


「酷く驚いたよ。生徒がいていい時間じゃないからね」

「生徒だったのは十五年以上も前のことだよ」

「だから余計に驚いたんだよ」


 かつてのままの姿の賀古希美だと気づいた時の、僕の驚きと言ったらない。

 彼女の娘か、それとも生霊か。

 トンチンカンなことを言う僕に、ノスタルジーは僕との思い出話を語ってみせた。

 思い出と言うにはあまりに些細なエピソードだったけれど、それはどれも僕も強く記憶していたもので、彼女の視点から語られるそれは、そうであったら良いなと、僕が浅はかにも妄想していた形に酷似していた。


「彼女は君と話したくて、苦手な宿題を一生懸命解いて来ていたんだよ、って言った話かい?」

「そうそう。髪を切ったあと、僕に気づいてほしくて髪型を頻繁にアレンジしていた、とかもね」

「ああ、言った言った」


 ノスタルジーはまたくつくつと笑う。何より、こういうところだ。

 彼女は僕が何も言わずとも、僕が現在ここで数学教師をしていることを知っていた。どうやら知識は共有されているらしい。

 それどころか、僕の思考に返事をするように会話をして見せる。

 結論として、彼女は僕の妄想の産物だと。そう片付けることしか出来なかった。

 妄想の産物だから、思考くらい読んでみせる。情報も知っている。だって僕の脳が作り出しているから。

 だから、僕の望む答えをくれる。


「まったく、こじらせてるねぇ」

「教師なんて大体そうだよ」

「ひどい偏見だ」


 そう言いつつも愉快そうに笑ってしまうあたり。やはり彼女は賀古希美ではなく、ノスタルジーなのだろう。


「私はそれを肯定した覚えはないんだけどね」

「じゃあ何か、と聞いても教えてくれないじゃないか」

「センセは、自分が何者なのかを正しく説明できるのかい?」

「ただの三十路を過ぎた数学教師だよ」

「的確すぎて悲しくなるね」


 ただ、妄想の産物であっても、君とこんな風に、何気ない話をして過ごせることが嬉しかった。

 過ごせなかった時間を焼き直すようで。

 こじらせてると言われても仕方がないな。


「そのための私だろう? センセ。やり忘れたことはしていこう」

「例えば?」

「呼び方。それでいいのかい?」


 唾を飲み込む音が酷く大きく響いた気がした。いい年したオッサンが、こんなことで何を動揺しているのか。


「ノスタルジー、と口に出して呼んだほうがいいかな」

「そっちじゃないよ、わかっているくせに。呼べなかったこと、心残りなんだろう?」

「呼んだじゃないか」

「メールでだけね」


 痛いところを突かれた。それもそのはず。彼女はすべてを知っているのだ。

 僕が言われたいこと。言われたくないこと。


「彼女は呼んでほしいって、そう言ったのにね」

「……仄めかされただけだよ」

「あれは君に言っていたんだよ。それすら出来なかった君に、やり方をとやかく言われる筋合いはないね」


 耳の痛い話だ。

 授業中、グループワークの合間。

 色んな人と仲良くなりたい。気安く下の名前で呼んで貰えると嬉しい。

 同じグループの女子との雑談で君が溢した言葉の対象に、自分が含まれているだなんて思っていなかった。

 僕に向けられた言葉ではないと流してしまっていた。

 連絡先を交換して、最初で最後のやり取りで、それが僕にも適用されていたのだと。

 それを知ったのは、卒業してからのことだった。


「昔のことだよ」

「当時のメールをロックしてクラウドにまで保存しているのに?」


 流石僕の妄想。なんでもお見通しだ。まったく女々しくて嫌になる。


「いいじゃないか、女々しくたって。呼んであげたかったんだろう?」

「……そうだね」


 呼んであげたかった。メールではなく、直接口で。そう思ってからはもう、彼女に会う機会はなかった。


「違うよ。作らなかったんだ。連絡先を持っているんだから、作ろうと思えば作れたのに」


 そうだ。僕はしなかった。だって全部、過去形だったんだ。

 仲良くなりたかった。もっと話したかった。

 彼女が最後のメールで打ち明けてくれた言葉は、全部過去形だった。そうじゃないのは、これまでありがとうの一言だけ。

 僕を過去にした彼女に今更その先を望めるほど、僕は自惚れてはいなかったんだ。


「だから、また逃げるのかい?」


 伏せた顔を上げると、君と目が合う。あの頃のままの彼女の顔。僕が見たことのない表情。


「私は今、ここにいるよ」


 そうだ。君はそのために、いてくれているんだった。


「……希美さん」

「なあに? センセ」


 満足そうに笑う彼女は、僕を名前で呼ばない。


居宿いすきくん? そうくん? どっちがいいかな」

「センセでいいよ」


 だって僕は、彼女が僕をなんて呼んでくれるのか知らない。

 彼女からの最後のメールには、想くん、と書かれていた。

 メールでしか呼べなかったのは、彼女も同じだった。

 僕は彼女の声で、僕の名前が呼ばれるところをうまく想像出来ない。現に、さっきノスタルジーが呼んだ名前にも、なんだか違和感を覚えてしまった。

 だから僕はきっと、今の教え子にされるような呼び方を、ノスタルジーに貼り付けているのだろう。


「なにより、センセの後悔が『呼んでもらいたかった』じゃなく『呼んであげたかった』だからだろうね」

「ああ。お陰で少しスッキリしたよ」

「それは何より」


 初恋の少女を作り出して、こうして一人で後悔を晴らしていくのは、客観的に見ればなんとも気持ちが悪いものだけれど。

 それでも僕は、この時間に救われていた。週に一度の、この時間に。


「もう帰らなくちゃ。用務員さんに見つかると面倒だ」

「そう。それじゃあまた、木曜日に」

「ああ、また。木曜日に」


 教室を出て鍵をかける。

 窓から覗いた教室に、もう君はいなかった。

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