ノスタルジーの夜にまた会おう
舟渡あさひ
第1話
「また残業ですか、先生」
暗い、夜の校舎で声をかけられ振り返れば、そこには最近還暦を迎えた用務員さんがいた。
「ええ。授業プリントの作成に手間取ってしまって」
「部活の顧問に授業準備に……まあ大変でしょうが、無理はなさらないで下さいな」
「ご心配痛み入ります」
はは、と愛想笑いを浮かべて頭を下げる。
純粋に心配して貰えているのだろうと、そう思うと嬉しく、心配をかけてしまっていること自体は申し訳なく、嘘をついてしまったことは一層申し訳ない。
部活の準備も授業準備も、大変ではないといえば嘘になる。
ただこんな時間――夜十時になるまでかかることかと言われれば、別にそんなことはなかった。
なのに何故、残業代も出ないのに夜遅くまで仕事を引き伸ばして居残っているのかと言えば。
毎週木曜、夜十時。ここでだけ会える彼女と会うためだった。
施錠の確認、という言い訳を引っ提げて真っ暗な校舎を歩く。
センサーに反応して点灯する蛍光灯に照らされながら向かった先は、三年二組の教室。
僕が担任を受け持つクラスの教室、というわけではない。見つかってしまえば不審がられること間違いないが、不思議と見つかったことはないので、今日も特段警戒せず、職員室からくすねてきた鍵で解錠。中へと踏み入る。
「こんばんは、センセ」
柔らかな女性の声につられて視線を送れば、しっかりと施錠されていたはずの教室の真ん中に、ブレザーに身を包んだ長い栗色の髪の少女がいる。
紺一色の無地のスカートは今のこの学校の制服ではない。もう十五年は前の頃の、古い制服。
「こんばんは、賀古さん」
「センセ。今日はなんの授業をするんだい?」
「そうだね。今日はノスタルジーの話をしようか」
「数学教師のする授業じゃないね」
「教科書もノートも持たない生徒に数式を語ってどうするのさ」
「それもそうだ」
くつくつと喉を鳴らすように、控えめに笑う。
賀古希美はそんな風には笑わない。
賀古希美はこんな口調ではない。
……きっと。
確かなことを言えないのは、僕が彼女の笑い方を、口調を、よく知らないからだ。
週四コマの数学研究の授業。理系クラスの三年生だけを対象として、受験のために設けられた問題演習主体のその授業が当時、彼女と話せる数少ない機会だった。
数学Ⅰ・Aだけを対象とした週二コマの授業もあったのに、わざわざ数学Ⅱ・Bまでの全範囲を含めたこちらの授業を選択した奇特な者たちが集められたこの教室だけが、違うクラスだった彼女と会える場で。
さらに木曜日の二限目、十時からの一コマだけが、グループワークで他の生徒と一緒に演習問題に取り組める時間。
僕はそこでしか、彼女と話せなかった。
正確に言えば、そこでも僕は彼女と上手く話せなかった。
単に人見知りだったのもある。細かいことを気にしすぎてしまう性格だったのもある。
理由はなんにしても、僕は彼女とまともなコミュニケーションなど取れた覚えがない。
「だからノスタルジーなんだよね」
「……ああ、そうだね」
心を読んだように言い放つ目の前の少女に、僕は答える。
あの頃と何も変わらない姿で、僕の知らない話し方をする少女と、僕は毎週木曜日、夜の十時にこうして会っている。
あの頃、出来なかったことを。
あの頃、言えなかったことを。
あの頃、出来なかった話を。
僕に付き合ってしてくれる少女のことを、僕は心のなかで〝ノスタルジー〟と呼んでいる。
これは僕が君と、もう戻れないあの頃に。
ノスタルジーに、浸る夜の話。
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