ちいさなちいさな羊飼い

稲子帰依

羊飼いとちいさな羊飼い

『ひとつめのラッパで地が燃えて。


 ふたつめのラッパで海が血に。


 みっつめのラッパで星が降り。


 よっつめのラッパで空が消え。


 いつつめのラッパで門が開き。


 むっつめのラッパで獣が現れ。


 ──最後のラッパで、ヒトは道具になったのです』




 それははるか昔のこと。数え切れないほどの人が生まれては死んでいくなか、小さな命が祝福を受けました。その名はハイタ。暗い髪色に金色の瞳を持った珍しい幼子でした。彼の両親はとても敬虔な信者であり、そんな親の元で育ったハイタもまた、たいへん信心深い羊飼いとなったのです。


 お母さんが天使さまにお連れされお父さんが街から帰ってこなくなった頃。ハイタは未熟な羊飼いのまま高原に1人、たくさんの物言わぬ羊と日が昇って月が沈むのを見届けてきました。祈りに始まり感謝で終わる彼の日々はとても穏やかで、ひび割れた地面も赤く染まった空も関係ありませんでした。




 空が暗雲に覆われたある日のこと。ハイタはいつものように真っ黒な瑪瑙の留め金に祈りを捧げてから羊たちを誘導する準備を始めました。──ですが、今日は特別な日。街に行く日なのです。杖を持った彼は羊を囲いから出し、獣道へと誘導していきます。ハイタにとって羊たちはとても大事なもの。一匹たりとも群れから外れてしまうことは許されないのです。けれどゆっくりしていては街につく前に日が暮れてしまいます。“太陽が落ちたらオオカミに襲われるよ”と教えられてきたハイタにとって、夜はとても怖いものでした。慎重に、でも急ぎ足で。ハイタは獣道を降りていきます。




 街への道も折り返しにかかったところで、ハイタは一人の老人に出会いました。顔に深い皺を刻んだその老人は山の奥深くに住まい、どの神も信仰しない風変わりな男です。ぼろの布切れをまとったその姿からか、いつしか人々は彼を『隠者』と呼んで避けるようになっていました。だけどハイタは知っています。その皺にどれだけの知識が刻まれてあるかを。その布切れの中にどれだけの技術を秘めているかを。というのも、隠者は度々ハイタの家を訪れては羊の飼い方や羊乳の絞り方、さらにはその加工法まで教えてくれていたのです。群れの扱い方を教えてくれたのも彼でした。たとえどんな人間だとしても、ハイタにとって神様の次に尊敬しているひとであることに変わりは無いのです。


「おはよう、おじいさん」


 ハイタは迷わず近くまで寄っていき、被っていた薄手の頭巾を下ろし挨拶しました。羊たちもリーダーに続かんとばかりにどんどん彼の後ろへと群がっていきます。それに気がついた隠者は軽快に笑い、こう言いました。


「ずいぶん大きな羊飼いさんだね」


その言葉にはっとなり慌てて振り返ります。そこにはずらりと羊たちが並び、みながみな姿勢を低くしていました。きっと休憩の時間だと勘違いしてしまったんでしょう。まるで隠者に平伏するようなその光景に、ハイタも思わず笑ってしまいました。


「今日は街へいくのかい?」


そう隠者が問いかけます。


「うん。おじいさんの言う通り、月がいっぱい沈んで陽が昇ったから届けに行くんだ」


ハイタはどこか自信気に答えました。


「うむ...そうかそうか。頑張っておいで」


彼はその姿に何かを噛み締めるように頷くと、小さな頭を撫でてそう言ったのです。ハイタもこくりと頷き、また黄色い頭巾を被って傅いていた羊たちを起こし街への道に戻ります。それを隠者は大事なものを見守るように遠ざかる彼らを見送っていました。その視線は、奇しくもハイタが羊たちに向ける眼差しと同じだったのです。




雲間からうっすらと覗く太陽が真ん中に登るとき、ハイタは枯れ木のランプが飾られた焼きレンガの建物にたどり着きました。傍の囲いに羊たちを追い込み、鍵を掛けて建物の方へと目を向けます。その外装は以前にも増して真っ白な粉をまとい、四角錐の屋根はところどころ欠けています。それはここが“崇高なる主”というものの庇護下にあっても、災厄からは逃れられないことを意味していました。少し不安になりながらハイタは扉を叩きます。低い音が二、三度繰り返された時でしょうか。ハイタよりもずっと大きな男の人が出てきました。男の服は破ったように歪で髪は逃げ場を求めてあちこちに跳ねています。ですが、目だけは希望に満ちていました。


「やっとか」


そう男が言うと、ハイタも小さく頷きました。彼を羊たちのところへと案内する間、ハイタは少しだけ不安を感じていました。男はハイタよりも大きくそして強いのです。きっとハイタを殺して鍵を奪うことは容易いでしょう。でも、これまでもこれからもそういったことはありません。というのもハイタ以外に羊を飼える人間はいないからなのです。羊の価値はハイタの価値。...もしも囲いに羊が居ないなんてことがあったら、ハイタに意味はなくなってしまいます。きゅっと銀の鍵を握りしめ、おそるおそる囲いの方を見やります。そこには十数匹の羊を相手に1人の少女が戯れていました。褪せた大地に似つかわしくない白い服を着た可憐な少女は男の娘であり、それと同時に数少ないハイタのお友達でもありました。羊毛に埋もれていた彼女は僅かな隙間から顔だけを出し、


「こんにちは、ちいさな羊飼いさん」


と眩い笑顔で言いました。彼もそれに返します。


「こんにちは、ベアトリーチェ。羊は気に入った?」


「うん、みんなふわふわでかわいいのっ!」


何気ないやり取り。ですが、ハイタにとってそれはとてもとても大切なものでした。男は小さくため息をつき、ハイタに囲いを開けさせます。男は道を空けるように離れていく羊たちを複雑そうな顔で眺めたあと、それを見てくすくす笑う彼女の目線まで腰を落とし、


「お父さんは羊飼いさんと話をするからベティはお家に戻りなさい」


と、語りかけました。少女はむっと頬をふくらませますが、男の視線に負けてがっくりと肩を落とし“わかった”とだけ言い残しました。その様子を見ていたハイタはなぜか優しい笑顔を浮かべていたのです。


「ちいさな羊飼いさん、どうして笑っているの?」


囲いを出た少女が不思議そうにたずねました。自分でも気づかなかった微笑みの理由はハイタには答えられませんでした。なぜだろう、どうしてだろうと2人して首を傾げていると、男の呼ぶ声がします。


「行かなきゃね」


小さな声でハイタが言うと


「うん、またあとで!羊さんもオオカミさんに気をつけてね!」


と大きな声で少女が言いました。道というにはあまりにも歪んだ地面を駆けていく少女を背に、ハイタは囲いの中へと入ります。静かな世界の中で“あいつまた...”と呆れと嫌味を孕んだ呟きが響きました。それも当然のこと。ハイタは男と少女の家族じゃありません。それどころか街に住んでいる人間でもないのです。そしてそんなよそ者に一食分を割くよりも保存して明日に回す方が合理的です。けれど男とて人の子でありまして、娘の落胆する顔は見たくないのです。そんな男の下した判断が、こうしてハイタに鬱憤をぶつけることでした。ハイタもそれをわかっています。だからこそなにも聞こえないふりをしました。ハイタは寄ってくる羊を宥めながら男の前に立ち、口を開きました。


「何匹連れていきますか」


──それは決して少女には見せられない命と命の交換。大事な大事な道具と引き換えにハイタは明日も呼吸をするのです。ケープコートと体の間に潜り込む羊も、頭突きしてくる羊も、甘えたように鳴く羊もみんなみんな食べられるための道具。誰かを生かして事切れるために育てられた生命なのです。男もハイタも羊に愛着がないわけではありません。ただ誰かがやらなければならないこと。それだけなのです。...それでも、もしオオカミがいるとしたらそれは他の誰でもないハイタなのでしょう。




昼間と変わらない空が広がり、すきま風がひどく痛くて冷たい夜でした。ハイタが神様を模した留め金に祈りを捧げていると扉の隙間から広く淡い月光が差し込んできたのです。気にかかり光の方を見ると、そこには小さな袋を提げた少女が立っていました。彼女はにこりと笑い、言うのです。


「一緒に食べよう」


と。ハイタが少女にお礼を言うと、彼女は変わらない明るい笑みで返してくれます。──少女と知り合ってから街の夜はいつもこうして共に食事をとっていました。彼女にとっては同情(もしくはそうあれとの教え)なのでしょうが、疎まれているハイタにとってはある種の救いにも等しい時間でした。というのも、ハイタが信仰している【はすたあさま】と街の人が信仰している【よはねさま】にありました。【はすたあさま】は姿形のない羊飼いの神様で【よはねさま】は神の使いを束ねる一柱。ですが街の人は【はすたあさま】も【よはねさま】が遣わした【みつかいさま】の一部だと考えているのに対し、ハイタは【よはねさま】とは関係の無い神様だと考えていました。つまるところこれは解釈の不一致、というものです。──神さまは自分以外を崇めることを赦しません。ゆえにハイタも赦されなかったのです。与えられた僅かな赦しは羊の取引と少女という存在だけでしょう。それでもハイタは幸せでした。神に祈って、少女と話して、平穏に羊と生きる。その尊さを知っていたからです。


「それで今日はね、天使さまが来てね、ウカ?のセンテイ?をしに来たって言ってたの。それで私が選ばれて。なんかもうよく分からないんだけど、凄いことなんだって!明日ね──」


少女は元気よくかつ一方的に語りかけます。これも普段通りのことでした。もともと物静かなハイタです。おしゃべりな少女の話に相槌を打つだけで精一杯でしたが、それでも彼女は嬉しそうに話し続けていました。彼女にとっても、きっと誰であれ聞いてもらえること自体が嬉しいのでしょう。けれどハイタは楽しそうにしている少女を見ているだけで硬いパンは痛くないし、冷めたポタージュでも温まった気になれるのです。ふいに話し続けていた少女が黙り壁の隙間から空を見上げました。濁りきった雲から覗く下地は澄んだ紺色に染まり、合間に散らばる星々は彼女を見守るように優しく瞬いています。


「私ね、羊飼いさんが好きなんだ」


少女がぽつりと呟きました。伏せられた瞳は憂いているようにも悲しんでいるようにも見えます。それはまるで次はもう会えないような、目が覚めたら消えてしまうような雰囲気でした。自分が知らない少女が座っているみたいで、ハイタは複雑な気持ちです。


「あ、その、瞳の話なの。お月様みたいに綺麗で真ん丸だから。街が好き、お父さんもお母さんも好き、それと同じで羊飼いさんの目が好きなの。もちろん、あなたもね。みんな大好きなんだ」


流れる空気のまずさを感じ取った少女が慌てて付け足しました。えへへと笑う少女にハイタは首を傾げます。ハイタには彼女の“好き”も“綺麗”もわかりませんでした。なにせ、彼にそんな言葉を向けるのはここにいる少女ただ一人なのですから。少女はすぐに話題を切り替え、また新しい話を紡ぎ続けます。この時間を切り取れたらいいのにと思いながら、ハイタは楽しそうな彼女の話に相槌を打ち続けるのでした。


優しい時間は永遠ではありません。さらさらと落ちる青い砂がその終わりを告げました。少女は残念そうな声を漏らし続けようとした話を下ろしました。空になった器とスプーン、それからコンパスの埋められた真鍮の砂時計を袋に入れてため息をついてこう言いました。


「続きはまた明日...だよね」


「うん、また明日」


小さな約束。ですが夜明けが保証されない世界ではきっと大きな意味を持つのでしょう。風が強く寒い夜でしたが、今この時だけは少し暖かかったのです。




次に会った時、少女は随分と異なっていました。錦糸のように細やかな金髪はまっさらに色が落ち、若葉色の瞳は深く澄んだ紺碧に侵食されています。やけに静かな街の中で囲いにもたれ柔らかな微笑みを浮かべていることが、そこにいるのが少女だという唯一の証拠でした。ハイタがゆっくりと傍により名前を呼んでみるものの、上の空の彼女には届きません。


「...私は大丈夫だから」


何度か呼ぶうちハイタを見つけた少女は囲いに寄りかかったまま、今にも消えてしまいそうな声でそう言いました。さしものハイタでもなにひとつ大丈夫ではないことがわかります。いつものように羊を囲いの中へと連れていき柵越しの少女に視線を向けます。あの夜と同じ笑顔の彼女はずいぶんと衰弱していました。白い服はところどころ血に染まり、肩甲骨の辺りからは小さくて赤いコブのようなものが生えていました。ただ“大丈夫”を繰り返す彼女の首から提げた砂時計は、砂と一緒に生命がこぼれ落ちていきます。少女は途切れ途切れの呼吸から言葉を紡ぎました。


「ほんとはね、知ってたんだ。羊が居ないのは私たちが食べてるからだって。羽化も神様の御使いになる過程だって」


視線を合わせたハイタの首に青い砂時計のペンダントをかけながら彼女は続けます。


「だから大丈夫。心配することなんてなにも無いよ」


ゆっくりと呼吸しながら少女はそう言いました。もう笑顔を取り繕うこともできないのでしょう。...ふと、重い雲の隙間から光が差し込みました。残酷なまでに綺麗なその景色から、人の形をした影がいくつか降りてきます。白い羽根に、髪。あまりに特徴的なその姿から天使が降臨したということが誰にでもわかりました。


「主の砂は満ちた。これより汝に福音が訪れることだろう」


喜怒哀楽のどれも感じさせない声で天使は言いました。フードに隠れていてわかりませんが、その表情はきっと氷のように冷たいことでしょう。少女は無言で立ち上がり、吸い寄せられるように天使の方へと歩いていきます。1歩進む度に苦しそうな声を漏らし、赤い塊が広がっていきます。ハイタはそれをどうにかして止めようと動きますが、足が進みません。それどころか腕の自由も効かないのです。後ろを振り向くと──少女の父親が、ハイタを抑えていました。腕の中でもがくハイタに彼は苦しげな表情で首を横に振ります。それでもハイタは諦めませんでした。力任せに腕を降って、つかない足で暴れます。やがて何事かと集まった人々は天使さまの姿を見てはひれ伏し、祈りの体制をとっていきます。その景色がハイタには気味が悪くて仕方ありません。...がむしゃらに動いていると、少しだけ拘束が緩くなりました。ハイタはその一瞬を見逃さず男の足を蹴り力いっぱい前に進みます。目論見通りに抜け出せたものの、少女の背中には血が滲んだ赤い紅い翼が広がっていました。反動でもつれかける足無理に動かし、彼女へ手を伸ばします。“まだありがとうを言えていない”。そう言うよりも前に、少女は天使たちのところに辿り着きました。...振り返った少女は不思議そうな顔でハイタを見ています。白い翼に白い髪、青い瞳。やっとの思いで伸ばした先にハイタの知っている少女はいませんでした。──翼の生えた彼女は慈愛に満ちた微笑みをハイタに向けると、天使たちと共に空へとかえっていきました。


さて、残されたのは止めようとしたハイタと敬虔な信者たちです。


「10年前と同じだ」


群衆の中から声が聞こえました。それは次第に大きくなり、ハイタを非難するものへと変わっていきます。“よく見たらあの時の羊飼いの子じゃないか”“裏切り者”...そんな言葉がハイタに向けられます。誰が投げつけた角張った悪意に小さな悲鳴が零れました。しかしそんなことは露知らず、ひとつ、またひとつと悪意はハイタに向けられます。ハイタが痛いと言っても誰も気にしないし、やめてと言っても終わりません。結局ハイタの手と声は、誰にも届かなかったのです。──ちいさな羊飼いが去った街には確かに人がいました。死への恐怖と生への渇望に呑み込まれた誰よりも人らしい人が。




居場所を一つ失ったハイタは、嫌な予感がして急いで羊たちのところに戻っていました。“どうか無事でいて”。“気のせいであって”。無力なハイタにはそう祈りながら走ることしかできません。


...しかして人は、神様を超えることなぞできません。少なくともハイタはそうでした。羊たちを囲っていた木製の柵は黒く染まり、彼らが食べるはずだった草からは赤い雫が滴っています。ふと輪の中心に、大きな白い塊がありました。輪郭を描くように紅く色付いている『それ』に僅かな希望を抱き、震える手で囲いを開け凄惨な現場に足を踏み入れます。赤い液体が波紋を作り、ハイタのブーツを染め上げるなか中央へたどりつくと──そこには、かつて羊だったものがひとつだけ横たわっていたのです。一歩進む度にぴちゃりと鳴る地面から、ほかの羊がどうなったのかは想像に難くありません。この亡骸は見せしめとして、あるいは墓を立て骸を埋めることを赦した神さまの慈悲として置かれたものなのでしょう。それでも、ハイタは泣きも吐きもしませんでした。...いいえ、ただ実感がないだけなのです。なにせほんの少し前まで歩いて食べて生きていた痕跡が泡のようにぱっと消えてしまったわけですから。訪れた喪失はハイタが背負うにはあまりにも大きすぎたのでしょう。彼は羊の亡骸をただただ撫で、


「きみは食べられなかったのかな。でもそういうこともあるから、仕方ないよね」


と声をかけました。ふわふわの羊毛は撫でる手を包み込みますが、“それ”が鳴くことはありません。悩んだ末にハイタは“無意味に殺された羊”ではなく“屠殺に失敗した肉”とすることにしたのです。彼は赤い湖のなかで優しく優しく語りかけます。まるで誰かを諭すように。そこにある理不尽に理由を与えるように。──ハイタは考えました。少女が羽化する時に自分が何もしなければ羊たちは死ななかったのではないかと。自分が殺したようなものじゃないかと。次々に過ぎる嫌な考えを頭を振ってかき消そうとしますが、そう簡単に無くなってくれません。全部が敵に見えて、自分さえも嫌になって、どうしようもないこの場所に倒れ伏しそうになったその時でした。


「それでいいのか?」


嗄れた声に振り返ると、そこには見知った老人が立っていました。堕ちた天使のように黒い布と神さまのように真っ白な髪。──そう、隠者です。彼は全てを知っていました。少女が羽化したことも、羊がいなくなったことも、ハイタの両親に何が起こったかも全てを。知っていながら黙っていたのです。そのことを知ってか知らずか、ハイタは憤りをぶつけました。いえ、そうするしかなかったのです。かつて、少女の父親がハイタにそうしたように。


「何が言いたいんですか」


隠者はしばらくの間沈黙した末、似つかわしくないからかいの意を孕んだ笑顔で答えました。


「迷える羊飼いさんに救いを与えようと思ってな」


救い。...その単語にハイタは何も言えなくなりました。彼が今まで知っていた隠者はおじいさんではなかったのです。いえ、人ですらないのでしょう。彼は神さまを信仰しないのではなく、する必要がなかった。思い返せばおかしな点は沢山ありました。【ちーず】と名付けられた食品は街のどこにもありませんし、ハイタが住んでいた山はただの老人には厳しい環境なのです。ましてハイタの行動を把握していない限り、街への道を先回りすることなぞ不可能なのです。ハイタが言葉に詰まっているところに今度はこの上なく不気味な笑顔で隠者は言います。




“こんな街は無くしてしまわないか”




と。隠者の顔は影に覆われどんな顔をしているのかも、どんな考えでいるのかもわかりません。耳の内から侵食する心地よい悪魔の囁きにハイタが身を委ねようとしたその時です。不意に暖かな思い出がよぎりました。──ハイタが大切にしていた少女の言葉が。




『街が好き、お父さんもお母さんも好き、それと同じで羊飼いさんの目が好きなの。もちろん、あなたもね。みんな大好きなんだ』




どんなに酷く扱われても、どんなに醜くても、この街は彼女が好きと言った街なのです。その事実だけでもハイタの足を踏みとどまらせるのには十分なものでした。もし少女が街を壊すなんてことにならない限り、ハイタはどんな力を持ってもあの街に手出しすることはないでしょう。


「救いはいらない」


真っ直ぐ強く答えます。隠者は何かの考えを吐き出し、軽く頷きました。


「...それより、おじいさんは」


ハイタが今考えるなかで最大の疑問を口にします。


「ハスター様の御使いといえば分かるだろうか」


予想もしなかった答えに開いた口が塞がりませんでした。ハイタは【はすたあさま】のことをよく知りません。なにせ両親からとてもとても凄い神様としか聞いていなかったのですから。どんな姿をしているのかも、どんな力を持っているのかさえも知り得なかったのです。神様は、想像よりもずっと近いところで見守ってくれていた。その事実にハイタの胸に淡い火が灯りました。けれど、その火はすぐに風に吹かれ消えてしまいます。それも【はすたあさまの御使い】を名乗る者によって。


「じきにこの街は焦土と化す。それも新しく出来た天使の手によりな。...生まれ変わりだと彼らは言っているが。先の提案、よく考えるがよい」


新しい天使とは、きっと少女のことでしょう。悪魔がいよいよ現実味を帯びてハイタに絡みついてきました。額に脂汗が浮かぶなか、羽化の光景が蘇ります。苦しみながら赤い翼を生やす少女も、なにもできなかった非力な自分のことも。


──ハイタにとってあの少女は夜空に浮かぶ満月でした。明るく照らす太陽でした。優しく頬を撫でる春風でした。きっと少女にとってはのハイタはたくさんいるお友達のひとり。だとしても、彼女のためなら彼は両目を潰すことすら厭わなかったのです。...いつの間にか【はすたあさまの御使い】は夜の闇みたいな影になっていました。


「───────」


少年がなにかをぽつりと呟き、皺も皮膚もない真っ黒な手を取った瞬間です。男の背後から無数の手が現れあっという間に少年を包み込んでしまいました。やがて黒い男は白い口で繊月を描きながら、足元の影へと溶けていきます。──囲いには、一匹の事切れた羊だけが横たわっていました。




夜明け前。化け物が街を訪れました。ソレは確かに人の形をしているのですが、背丈は普通の何倍も高いのです。おまけに足は軟体生物のようで、誰がどう見ても人間とは答えない風貌でした。黄色い布を被った化け物は一軒の建物に目を付けると枯れ木のような手で扉を開き、中にある生命の灯火を消しました。次の家も消しました。その次の家も。けして、けして、けして。太陽が全身を見せる頃には、街には人も羊もいなくなってしまいました。


最後にどことも知れぬところから溢れた水に流される街を高台から虚ろな目で見ている化け物に、黒い男が問いかけます。


「気分はどうかな? 大きな羊飼いさん」


化け物が首に提げた青い砂時計が、静かに風に揺れていました。

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