第44話 けらけらおんな⑨
見渡す限りの海。黒い海。
そして上にはうっすらと伸びる光の層。
場所を変え、姿を変え、アヤカシと一行はその上層で対峙していた。
ハンナとクレイと女館主、三人に動揺は無い。
だが、ほかの遊女達は先ほどよりも近くなったアヤカシに対し、怯えの色を浮かべていた。
「慌てるんじゃないよ皆」
決壊しそうなその恐怖を、館主が押しとどめてくれた。
「アタシらは嬢ちゃんが守ってくれると言っただろう?」
「でも姐さん……」
「びびってたら奴にとって喰われるよ。そうなりたくなかったらしっかりおし!」
楽器を弾く手を止め狼狽する皆の衆を叱咤しながら、館主は周りよりあえて一歩進み、曲を奏でた。
楽器の演奏。これはハンナに頼まれたことである。
なぜ弾かなければならないのか。それは学の無い自分にとってはわからないことだ。
第一、ここまでどう来たのかも分からない。
だが、現にこうやって訳分からない奴と相対している。
それは魔女の言った通りである。
ならば、願い出たことをやらないのではあれば、良くない結果に終わるのではないか。
館主の勘はそう告げていた。
そうならば、この一団が手を止めるのは、こちらに取って不利になるのであろう。
少なくとも演奏は、魔女が守るだけの価値はあるに違いない。
正直、何が何だかわからず、自分も怖い。
だが、ここで恐れてしまえば、娘達は恐慌を来たすであろう。
それだけは避けたい。
だから館主は精一杯つま弾く。自分を、楽曲をアピールするために。
そしてそれに応え、ハンナも大きく声を上げるのだ。
立ち止まるは停滞じゃない♪ 振りかえるは後ろ向きじゃ無い♪
ただひと休みしていただけ♪ どこに行こうか考えていただけ♪
たとえ道が無かろうと♪ 進めばそれが道になる♪
誰彼に決められるわけがない♪ 自分の道は自分で選ぶから♪
ハンナと館主の、力強い行動。
それに奮え遊女達も演奏を再開する。
全て海に沈み地平線となった大地に、それは染みいるかのようであった。
何もない空間に、歌と音楽は高らかに響く。
それが耳障りなのか、アヤカシは歩を詰めてきた。
そうはさせじ。
クレイが単身、身をさらしてアヤカシの道を阻む。
剣を水平に、もう片方の腕を垂直に。
その構えはこの世界、水平線と天を指しているような構えであった。
けらけらけらけらけらけら
アヤカシは嗤う。それは何に対してだろうか。
唸り声のかわりにアヤカシも口ずさむ。
四つん這いの花嫁は、焦点をクレイに定めながら朗々と歌う。
♪やっと見つけた私の居場所 貴方が見つけてくれた居場所
♪ようやく出会ったのよ もう離さないわ
♪籠の中の鳥は ようやく羽ばたける ♪貴方の手によって解放されるから
♪ねえだから 私を見て 語って 抱きしめて
♪私がここにいる意味 ずっと ずっとずっと感じさせて
アヤカシの肌が更に瑞々しく潤う。衣装が更に白く透き通る。
その美しさは、見る者を吸い込むような魔性の魅力があった。
それに引き寄せられまいと、楽団は目を閉じながら演奏に没頭する。
館主も同じく目を閉じ没頭する。
だがハンナとクレイ、二人はまっすぐに目の前を見つめていた。
現実から逃げ出さないかのように。
回り回りながら、クレイがアヤカシの前に身を翻す。
自らを生け贄とするためか。
否。
少年の目に絶望は無い。
立ち向かう勇気がそこにあった。
両腕を大きく掲げ、ハンナが声をあげる。
降伏を示すためか。
否。
少女の目に諦めは無い。
乗り越えようとする希望がそこにあった。
歌と剣。
二つの意志が、アヤカシに立ち向かおうとしていた。
君がどこにいるか それはまだわからない♪
ただここにはいないと なんとなく感じている♪
風よ吹け 居場所を指してくれ♪ 大地よ花よ 道を創ってくれ♪
たぶん自分は一人じゃない♪ たぶん先には何かある♪
今はまだわからないけど 確実に一歩 また一歩♪
それが 自分の進む道 生きる道♪
半円より強風が生みだされ辺りへと散る。
アヤカシにとっては向かい風。クレイにとっては追い風。
「はぁっ!」
一足飛びに間合いをつめ、クレイが剣撃を浴びせた。
アヤカシは避けるそぶりも見せない。
一撃を受け、地面へと倒れ落ちた。
他愛なし。
その呆気なさに逆にクレイは警戒し距離を取る。
正しい。少年は正しい。
斬られたアヤカシの下から、また血糊が広がるのが目に見えたから。
それは他と混じり合い、溶け落ち、下へと落ちていく。
あの黒い海原の底へと。
そしてアヤカシは再び立ち上がる。攻撃などなかったように。
斬撃など無く、生地の破れも無く、何もなかったように立ち上がる。
けらけらけらけらけらけら
斬られて無傷の者などこの世には無し。
まさに異形。自分が世界だと言わんがばかりだ。
全てアレに飲まれ、世界は変わってしまうのか。
このアヤカシの世界でハンナとクレイはもがく。
館主と遊女たちもまた、足掻く。
目を閉じても耳に忍び寄ってくるアヤカシの哄笑。
それは手足を萎えさせるには充分な恐怖を持っていた。
だが彼女達は目を開かず演奏に集中していた。
それは何故か。
目を開けたからと言って何か変わるはずも無く、怯えて状況が悪化するだけである。
ならばいっそのこと、見なければ良い。
見ずにただひたすら、演奏に集中すればいい。
人は遊女と自分たちを笑う。
だが自分たちにも意地はある。
他人から興味を奪うために、芸事を習った。
その手習い事は、人様の前で披露するには充分な腕前のはずだ。
その証拠に、見よ。こうやって目を瞑っても手の動きは滞ることは無い。
弦をつま弾く指先が、外れることはない。
演奏に支障をきたすことは、起こってはいない。
なればこそ、逆に目を開けてアヤカシを見てしまうのは、演奏に障りがあるのだ。
だから、彼女達は目を開こうとはしなかった。
その集中する姿から発せられる音の数々には、演者たちの必死の想いが込められていた。
それらは重ね合い、うねりとなってこの異形の世界に新たな理を産むのだ。
澄んだ音色はハンナを鼓舞する。クレイを奮わせる。
そして魔女と従士に、新たな力を授けるのだ。
クレイが腕を回す。
音を立てて唸りをあげる剣に触れ、大気が震え変わっていく。
遊女達が流す曲に合わせて、大気がうねりを伴い変わっていく。
変わっていく。
色を変え、質を変え、大気が変わっていく。
剣孔に絡まる大気の渦は、まるで糸巻きに絡まる多色の糸のようであった。
剣を回す度、それは多方に伸び、細く長く散っていく。
それは複雑に混じり、交差し、空を覆っていく。
サルタトルから多方に伸びた糸が、ピンと張る。
ぐい、と引いてみれば、それはバネのような張力を生み、クレイを空へと放り上げた。
クレイが糸を巻き取るように剣を動かし、着地したそのさきは、糸の向こうであった。
糸が幾重にも交わる彩りの網。空の向こう側であった。
細く薄く伸びた網は、トランポリンのように弾む。
たぁん たぁん たぁん
緩く、一定のリズムを取りながらクレイは下を向いた。
廻る。廻る廻る。
下界を見下ろしつクレイが舞う。
その剣の軌跡が産む光のうねりは、螺旋となって下界に降り注ぐ。
大海原へと、底の方へまでと届き、穿つ。
海面に照射された光の輪。
まるで海面に浮かぶ月、いや日輪の姿であった。
海面はふつふつと泡立ち、黒から乳白色、そして透き通るような青へと変わっていく。
それはまるで、この世界で失われた空の青さを思わせるような、澄んだ青であった。
その青に、点々と濃い点が見え始める。
やがてそれは大きくなり、姿がはっきりとし始めた。
蝶である。
蝶が海底より浮かびあがり、空を目指そうとしているのだ。
柔らかな羽根は水の抵抗をものともせず、一身に空へと羽ばたいていく。
色鮮やかな蝶の群れは、一匹たりとも同じ色はしていない。
群れが天昇するさまは、虹の柱が創られていくかのような錯覚であった。
その群れ、その艶やかさ。その勢い。
その波の中に白き異形は包まれ、昇っていく。
クレイがいる光の層へと。
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