第43話 けらけらおんな⑧
♪ああ見てるかしら貴方 どう貴方
♪私が見えるかしら 貴方の私が見えるかしら
♪やっとここまで来た やっと遭うことが出来て
アヤカシの両腕が左右へと広がる。
それは弧を描き、伸びて伸びて再び両の指先が触れあった。
両腕で作られた大円。駆けるクレイはその円の中に囲われる。
がっちりと掌が組み合わさると、それは一気に収縮した。
♪ねえ抱きしめて 感じさせて 離さないで
♪離れていた分を取り戻させて 貴方が取り返して
♪私に貴方を感じさせて ねえ貴方
首つり台の縄のように、その狭まる腕がクレイへと迫る。
このままでは囚われの身となるであろう。
だがクレイに焦りはない。
ハンナの歌が、少年に行動を取らせるのだ。
人生山あり谷あり苦楽あり♪ されどこの道選んだ道♪
平らなばかりは歩むも退屈♪ 笑ってそれを跨ごうか♪
山をのぼらば景色を楽しみ♪ 谷をわたらば橋を造る♪
河に阻まりゃ釣りをする♪ 魚籠が溜まるまでひと休み♪
平らなばかりではこうはいかぬ♪ ああ楽しきかな我が道♪
歌に合わせてクレイが剣を踊らせた。
剣孔が空気を震わせ、変化を起こす。
踊る剣の軌跡は、クレイの周りに柵を作った。
少年の回りを囲む防柵をだ。その柵に足をかけ、クレイは飛ぶ。
刹那、縮まる腕輪が柵を締め上げた。
小気味よい破砕音。よほどの威力だったのだろう。
粉々になった柵の破片が周囲に飛び散った。
そしてその中にクレイの姿も見えた。
飛び散る破片を足がかりに、更に高く、空高くへと。
アヤカシの眼が、その姿を捕らえた。両の掌は、胸の前におさまっている。
天に向かって祈りを捧げる乙女のように。
片膝をついてその場へと跪いた。
まさか本当に祈りを?
否。
アヤカシがそのような殊勝な行為をおこなうはずはない。
♪貴方と私手を取り合う それはきっと夢心地
♪舞い上がって空へ上っていきそうよ ねえ貴方 そこが天国ってところなのかしら
アヤカシが跪きながら声をあげる。
その声は天を掴むがごとく、クレイの耳にも届いた。
風も無いのに、アヤカシの服がたなびいた。
左右へと大きく振れ、引き裂かれるように揺れ動く。
これが異形の念か。白き衣装は変化し羽根を生みだした。
背中に映えし四枚の羽根。それもまた純白にまたたいていた。
アヤカシがすくりと立ち上がれば、羽根のそれぞれも力強く羽ばたく。
次の動き。それをクレイは容易に想像することができた。
轟。
吹き飛ばすような圧。それを地面に叩きつけアヤカシは飛ぶ。
クレイの元へと、高く速く飛ぶ。
もはや天に下がる蜘蛛の糸なぞ必要はない。
己の羽根で、どこまでも飛べるのだ。
ただ自分を目がけて、奴がやってくる。
羽根を広げ、両手を広げ、笑みを浮かべてやってくる。
羽根の生えた白き服のたおやかな娘。
なんとも清らかな。
だが相手は人などではない。アヤカシであった。
それをクレイもわかっているからこそ、手を取り合わずに剣を向ける。
唐竹割りに振り下ろされた剣は、果たして両の腕に阻まれた。
生娘のような肌の美しさ。それは玉鋼のような硬さを秘めていた。
両腕を交差しただけの、捨て身の防御。
ただそれだけなのに、剣撃は容易くはね返されたのだった。
攻撃を弾かれ、クレイの身体が大きく体勢を崩す。
そこへアヤカシの腕が、カマキリの鎌のように獲物に向かって伸びてきた。
それにクレイは蹴りを入れ、その反動でアヤカシとの距離を伸ばす。
すると今度は、足首に手が伸びてくるではないか。
クレイは、独楽のように身体を急速に回転させた。
掴もうと来る指先、その手の甲に身が触れる。
廻るクレイの身体はその攻撃を受け流し、坂道を転がり落ちるが如く手の甲、手首、肘、と伝っていった。
肩まで届くとした矢先、アヤカシの腕が波打った。
弓射るが如く。
今度はクレイが飛ばされ、距離を大きく空けられてしまうのだった。
回転する力に方向を加え、クレイは無事着地に成功する。
息を整え、前を見据える。
クレイの視線を真っ向から受け止め、アヤカシが立ち上がった。
けらけらけらけらけらけら
上弦月のようにアヤカシが口の端を歪めて微笑んだ。
その眼を、クレイは正面から睨み返した。
だが。
眼と目が触れあう瞬間、敵と対峙してるというのに、アヤカシだというのに、クレイの思考は一瞬停止した。
先ほどまでの攻勢とはまるで場違いの感情が、己の身に湧き上がってくる。
美しい。
それを起点として、アヤカシ……いや『彼女』に対して好意的な思いがフツフツと浮かびあがってくるではないか。
彼女、ああそうだった。彼女。彼女。あれは僕の彼女だった。
何故思い違いをしていたのだろう。何をやっているのだろう。
構えていた剣の切っ先が、次第に下がっていく。
中段に構えていたはずの剣が、下段かと見紛うくらいに下がった。
両の手が、片手となり、剣を捨てようと力が緩む。
「クレイ!」
その時、誰かの声が、悲痛な叫びが、クレイの元へと奔った。
誰だ? 呼ぶのは誰だ?
振り返り、目に入ったのは少女の顔。必死な形相をする少女の姿であった。
……誰だ?
混濁する思考は、その少女が誰だか思いだせはしない。
だが、何となく、大事な存在だという気はする。
大事。そう、大事だ。
いや待て、大事なのは彼女ではなかったか。
ぐるぐると思考がループする。考えがまとまらない。
ふと考えれば、先ほどまで自分は何をしていたのか、それさえも失念していた。
「クレイ!」
早鐘のように再度、少女が声をかけてくる。
クレイ。懐かしき響き。
そういえば自分は誰であったろうか。クレイという名であったろうか。
己が誰か、そう思い起こすが、彼女の大事な人であることしかわからない。
そう、自分は大事な人なのだ。彼女の、大事な人なのだ。
脱力する身体。もうこのまま何もかも任せてしまいそうな、そんな気持ちに沈みそうになる。
「クレイ! しっかりして!」
懐かしい声。自分はそれを聞かねばならない、そんな気持ちになる。
それは何故か? 何故だろう。
混濁する思考の澱みに、少女の顔が見え隠れする。
何故だ?
思考の中で、少女の姿は輝き、膨らみ、汚泥を押し流す。
霧が晴れ、頭がすっきりする。
そうだ……少女。少女はハンナだ。ハンナは魔女。
彼女は魔女。大事な彼女。そして自分は……
「……従士だ!」
クレイの意識が覚醒する。そして迫り来る脅威をすぐに感じとり、その気配を避けようと身体が動く。
自分がいた場所を、アヤカシの腕が交差していった。
抱擁というよりは万力で締めつけるような凶悪さ。
茫洋としていれば、あの抱き締めによって自分は殺されていたであろう。
「ごめん、ハンナ。助かったよ」
九死に一生。
その感謝の言葉を背中越しに彼女へと伝えると、嬉しさがこもった言葉が返ってくる。
「良かった。気がついたのね」
「なんかボウッとしてたみたいだった」
「ごめんなさい。私もうっかりしてたわ」
ハンナがクレイに謝ってくる。
アヤカシの中には精神を揺さぶってくるものもいるそうだ。
先ほどのクレイは、それに影響されてのことらしい。
「でも、ここに来たときは何ともなかったよ?」
「おそらくあのせいね」
ハンナはアヤカシを指さした。
「白くなったことと何か関係が?」
「世俗に塗れ、何も見えてない状態から、両目でしっかりと見据えられるようになっているわ」
「へえ、そういうこと」
確かに今のアヤカシには両目が備わっている。
しかし、それだけで変わるものなのであろうか。
「恋は盲目というけど、しっかりと見えるものなんだねえ」
館主が感心した体で横槍を入れてくる。
「お嬢ちゃん、恋い焦がれる娘を見るのは初めてかい」
「恋、ですか?」
ハンナはアヤカシを見た。
その視線の先は自分たちではない。クレイの方を射貫いていた。
「そう、意中の人を見つけたような燃える瞳さね。アンタ、アタシらを守ってくれるんだろう?」
「ええ」
「じゃあその意気であの坊やも守っておやり。じゃないと泥棒猫に取られるさね」
館主はカラカラと笑ってハンナの背を叩いた。
意外と肝が据わっている。これが少女と大人の差なのであろうか。
ハンナは改めてアヤカシを見た。館主に言われた言葉が何故か引っかかる。
クレイにも少し引っかかりを感じている。
このモヤモヤが何なのか整理したいところではあるが、状況は待っててはくれなさそうであった。
「はい、守ってみせます」
そう言ってハンナは、力強く杖を握りしめた。
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