第42話 けらけらおんな⑦
海。黒い海。
血を更に濃くすればこのような色になるのであろうか。
異界の街はその面影を失い、黒一色に染まっていた。
石畳の床も建物も物見の塔も、全て水面に没している。
そんな大海原からアヤカシの声が、見下ろすハンナ一行のもとへまで響いてくる。
けらけらけらけらけらけら
金物を擦り合わせたような不快な音。
それは奥をくすぐるようで、すぐに耳を押さえたくなるものだった。
だが、そんな不協和音とは別に、朗らかで、楽しげで、場違いな歌声が、這い上ってくるのであった。
♪ねえ見て捕まえて 貴方の眼差し熱視線
♪天にも昇る気持ち 嘘じゃ無いわ だって貴方が来てくれたから
波飛沫。ではない。
水面を蠢く波は、トビウオのように跳ねる腕の群れである。
それが多くざわめくせいで、風が立った波のように見えるのだ。
天を掴もうと伸びるのは、何かを掴むせいなのか。
それとも別の何かを欲しているからだろうか。
ぐるぐる、ぐるぐると蠢くその様は、同じ場所を輪になって廻る。
それは水面を動かし、渦と化していた。
哄笑と歌声は、その中心から聞こえてくるのだ。
周りの水面より窪んで、一層闇を濃くしながら。
♪焦がれ焦がれて 何も見えない ♪恋は盲目と言うけれど
♪貴方が側にいるのはわかるわ感じるわ
♪ねえ貴方、そこにいるんでしょう?
♪私に感じさせて 受け止めてあげる
けらけらけらけらけらけら
渦の中心から、天を突くように腕が伸びた。
それは他の腕達とはひときわ違い大きかった。
巨木のように伸びるそれは、ハンナ達がいる上層まで届かんと、すくすく伸びてくる。
手首から肘まで、メリメリと音と立てて裂けると、それは新たな腕と化した。
枝木が腕で構成された大木。それが海より出でて天を破らんと欲している。
葉の代わりに長爪がギチギチと音を立て、鈍い光を放っていた。
ハンナは見た。大海原が異形を生みだしていくさまを。
アレは本体では無い。
こちらの足下を小突いてくる大木から視線を移し、幹の方へと目をやった。
するとそこには繭のようなものがへばりついていた。
糸ではなく腕がそこかしこにしがみつき、木が伸びてくるにしたがって同じように上がってくる。
ハンナは確信した。あれが本体なのだと。
アヤカシの元となる塊なのだと。
人の形を脱ぎ捨て周りを取りこみ、更に凝縮されようとしているのだと。
あれが羽化すればどのような異形となるのか。
それは皆目見当はつかない。
わからないのがアヤカシなのだから。
ハンナはクレイの方を見た。
クレイが着ているのは婚礼衣装。ハンナが選んで着せた物である。
彼は自分を信じ、不慣れな衣装のまま戦ってくれていた。
ありがたいことである。
実のところ、先の戦いで衣装は役には立っていない。
クレイが悪い訳ではない。ハンナの予想が外れたせいである。
娼館に棲まうアヤカシの生態に予想を立て、準備してきたハンナであったが、それは呆気なく外れてしまっていた。
館主たちのフォローもあって、不利な状況にはならないでいる。
気丈なと褒められたが、実のところハンナはぶっつけ本番である。
多くの本を読んできた。それについて色々考察を深めてきた。
しかし現実は厳しいことばかりである。思った通りにはならない。
このアヤカシとの戦いも、思うようには実のところいってはいない。
だがそれは投げ出す理由にはならない。
魔女の重責。
つまづく度に、その重さがのし掛かる。
狼狽している暇などないのだ。
周りで、演奏を続けている者がいる。
それはなぜか?
私だ。自分が演奏を続けてくださいと頼んだからだ。
では逃げてくださいといえば、この人たちは助かるのか?
否。
危地に招いたのは自分。なればこそその責は己にある。
アヤカシを払うは自分。なればこそ、その対処は己にある。
魔女の重責。
それに押しつぶされるヤワなハンナではなかった。
責任感が身体を動かし、杖を動かし、口を動かす。
繭にヒビが入るのと、詠唱が始まるのは、ほぼ同時であった。
この道我が道 気ままに通る♪ 進むも曲がるも自分次第♪
たとえ路が無かろうと 足を動かしゃ道が出来る♪
一歩進んで足跡ひとつ♪ 二歩進んで足跡ふたつ♪
足跡束ねて道が出来る♪ これが我が道進む道♪
たん たたん たたたん たん
たん たたん たたたん たん
詠唱が始まればクレイも動く。
上層に広がる光の地。それは下方の衝撃を受けて揺らぎはじめていた。
足下が揺れ、立ってはいられない程であるが、クレイはあえて爪先で立つことにより揺らぎに耐えていた。
光層に細かい疵が出来始める。
それはヒビとなり、裂け目となって、上層と下層の境目をこじ開けた。
ばさり
何者かが、その割れ目を突き破って上へと侵入してきた。
その突進は、上空に張られた光線によって阻まれた。
光は縦と横、縦横に張られてまるで網。侵入者を捕らえる投網のようであった。
光網を出したのは、誰であろうハンナである。
先ほどはアヤカシが空を支配していた。今度はハンナが制空権を得た。
不心得者を捕らえ、行動を制限しようとしていた。
だが、網が十重二十重に絡まるより先に、侵入者はからくも脱出に成功した。
その者は羽尾を広げ、光層へと着地する。
ハンナとクレイと館主達。それ以外は誰彼か。
決まっている。それはアヤカシであった。
けらけらけらけらけらけら
哄笑はそのままに装いを様変わりさせ、アヤカシは光層へと立っている。
乱れに乱れていた髪は整えられ、艶やかさが増していた。
潤いに満ちて輝き、染み一つ無い球のような肌。
それは、アヤカシの肌とは思えない生気に満ち溢れているではないか。
一番違うのは、衣であった。
ボロと見紛うような服ではない。
真っ新な、白い服。
罪も無く疑いも無く、潔白を証明するかのような、そんな服であった。
見る者が見れば気づいたであろう。
その衣服に施されている装飾は、クレイが着ているものと対になっているということに。
そう。
アヤカシが着飾り身につけているものは、花嫁衣装だったのだ。
けらけらけらけらけらけら
美麗な総身から吐き出される不快な哄笑は、やはりアヤカシであった。
紅をあしらい、白粉で取り繕っても、その狂気は隠せずにいた。
以前は窪んでいた眼孔に、潤いに満ちた瞳が嵌め込まれている。
その眼は爛々と赤く輝き、狂気に震えている。
裂けていた口も今は繋がり、手弱女の様を為していた。
その目と口で誘えば、異性は容易く転ぶであろう。
その口を袖で隠し、目を細めてアヤカシは嗤うのだ。
けらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけら
哄笑は舞い上がり響いて、ここにいる者達の耳を逆撫でしていった。
その不快感。
それは美貌の役得を抹消するに足る、鼻持ちならない笑いであった。
この声を聞けば、怒気を荒げる者もいるであろう。
だが、魔女の取るべき行動は怒りではない。
空気を震わす哄笑に萎えかけている空気を励ますように、ハンナは声を大にする。
声は歌声となり、それに呼応して女将達が弦を引く。
ハンナが楽団に合わせるのでは無い。
楽団の調べが、ハンナの歌声を押し上げるように続く。
舞えや歌えや独りでも♪ 天にお日様お月様♪
陽気な雰囲気にほだされりゃ 地には草木に虫の声♪
なんぞ悲しきことがある なんぞ寂しきことがある♪
いずれ誰かと交わろう 友よしばらく酌み交わそう♪
たん たたん たたたん たん
たん たたん たたたん たん
歌と調べ、それは高らかな祝福の調べ。
前を向き、真っ直ぐに人生を進む歌曲であった。
それは魔力を伴い、クレイに力を与える。
少年に戦う力を生み出すのだ。
その音が身に響けば、少年の身体は動き出す。
軽やかに、まるで熟練の舞子の如く。
白きクレイが白きアヤカシの元へと踏み出していく。
その所作は見事で、このような場所でなかったら花嫁を迎えに行く婿に見えたことであろう。
だがむかえるクレイが持つ腕は、魔剣サルタトル。
求婚を受け入れる構えでもない。
ここは教会でも会場でもない。アヤカシが生みだした混沌の地だ。
そしてアヤカシは、両手を広げながらクレイを向かえようとしていた。
婿の胸元へと飛びこもうとしている花嫁のようにだ。
けらけらけらけらけらけら
しかしてその表情は、やはり邪悪であった。
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