第41話 けらけらおんな⑥

 見てくれは女性。

 しかしながら、漂う姿は悪鬼のそれに間違いない。

 クレイは距離を詰めつつあった。

 もう少しで、切っ先はアヤカシを捕らえる。

 逸る気持ちを押さえながら、クレイは踏み込む。


 けらけらけらけらけらけら


 この世界に降り立ったときから聞こえる耳障りな哄笑。

 一日と経ってはいないといえ、うんざりと聞かされてきた。

 だがそれももうすぐ終わる。

 この一太刀で決めてやる。

 そう心に決め、クレイは剣を構えた。

 高層を占める光の層は、確かな足場となって場を支配していた。

 アヤカシはそこに踏み入れるのを良しとはしないのか、自分だけは相変わらず紐の上に立っている。

 それがアヤカシと、クレイの速度の差を生んだ。

 そして、あれほど行く手を阻んできた腕の数々も、視界には入らない。

 アヤカシとクレイ、そして取り巻く蝶だけである。

 アヤカシの眼孔は相変わらず虚ろで、何者も映してはいない。

 だが、ピクリとその身体が動いたような気がした。


「させるか!」


 気合い一閃。

 遂にクレイの持つサルタトルが煌めいた。

 白刃は堂に入った軌道を描き、アヤカシを薙いだ。

 手応え有り。

 しっかりとした感触を腕全体に感じると、思わず笑みがこぼれそうになるが、クレイは慢心せず再び中段に構えた。

 常人なら確実に仕留められる一撃。だが、相手はアヤカシである。

 切っ先を向けたまま、クレイは様子を窺った。


 ぐらり


 アヤカシの身体が揺らいだ。

 仰け反り、両手を広げ、奴が呻く。

 そのまま体勢を崩し、落下していく。

 そして、光の層へと身体を叩きつけた。

 そのまま、身動きもしない。

 呆気ない。

 そう、呆気なさ過ぎるのだ。

 クレイは構えを解こうとはしなかった。


 じわり


 絨毯に墨を零すがごとく光に黒が混じっていく。

 アヤカシが倒れた場所から、黒ずんで染まっていく。


 けらけらけらけらけらけら


 横になりながらもアヤカシは哄笑を止めなかった。

 すでに、その身は半身に切り裂かれているというのに。

 その分かたれた身から、血では無く黒い汁が広がっていた。

 それは周りを、自分色に染めるかのようにだ。

 黒く変質した光層はたわみ沈んでいく。

 水気を含んだタオルみたいに、アーチを描いて下がっていく。

 腐蝕。いや、浸蝕なのか。

 黒ずんだ箇所は水飴のようになってしまい、以前のような固さは感じられない。

 黒が広がるにつれ溶融も深まり、やがてそれは穿孔を空けていく。

 下層へと、ぽたりぽたりと黒染みが落ちると、それはやはり、同じように拡がっていく。

 やがて、支えきれなくなったのか、アヤカシ自身も落ちていった。


 下層へと落ちた黒染みは、カップに注がれたコーヒーのような黒円を点々と広げていた。。

 その円は周りを染め上げながら、ゆるゆると縁を大きくしていくのだ。

 風も無いのに水面が揺らぎ、波紋が中心より拡がった。

 波紋が縁へとぶつかると波飛沫があがり、それは下へと戻るまえに腕と化す。

 クレイと、ハンナと、他の生物を引きずり込もうとしたあの腕だ。

 アレは朱に染まっていたが、今度は黒く染まっている。

 やることは変わらないのか。

 波に揺られる海藻のごとく指を動かし、せわしなく動いている。


「皆さん、下がりましょう」


 ハンナは周りにそう促した。

 彼女から見ればあれは魔力の塊に見えていた。

 クレイが斬った半身からは、大層な魔力は感じない。

 強大な魔。

 それが落下してきたのを肌にビリビリと感じていたのだった。

 魔女には分かるのだ。

 姿が変わろうと問題はない。

 渦巻く魔力は、殻を脱ぎ捨ててまた望む姿を取ろうとしているのだ。

 黒く拡がっていく真円。

 あれこそがアヤカシなのだ。


「嬢ちゃん、下がったほうがいいのかい?」

「ええ、そうですね。状況が変わりました」


 アヤカシに近づこうと提案した館主であったが、目の前の展開はさすがに予想外である。

 自分たちは何か出来たのか?

 そう尋ねたかったが、まずは危険か否かを知りたかった。

 そして件の魔女様は、状況が変わったと言うではないか。

 ならばやることは決まっている。


「聞いたかいあんた達、一旦下がるよ。黒星つけたいなら別だがね」


 いまだ状況を掴めずにいる遊女たちに、館主は声をかける。

 その声で我を戻し、女郎達は足早に下がった。


「演奏は止めないでください」

「承知したよ」


 不測の事態に指がこわばる。だが、ここまでやってきたのは自分たちだ。

 己より幼い存在が、戦っているのだ。

 ならば自分たちも、それなりの気概をみせなければ。

 大きく息を吸って、吐く。すると緊張が幾分やわらいだ気がした。

 その自由になった腕で、有らん限りに館主は弦をつま弾いた。

 声を荒げるなどといった無粋はしない。

 必要以上の囀りは妨げになると思ったからだ。

 この少女と少年が何をやっているのか、館主には未だ見当はつかない。

 だが、あの悪鬼を倒そうと、何かやっていることは理解した。

 ならば自分たちに出来ることは?

 狼狽えて逃げ出すことか?

 悲鳴をあげて戸惑うことか?


 否。

 断じて否。


 人から蔑まれる賤職なれど、自尊心は人並みに持っている。

 ましてや大人が子供を見捨てるなどとは、忘八の徒と嘲られるのも当然であろう。

 館主がそのようにつま弾く音色は、語らずとも他者の心中に同じ気持ちを抱かせた。

 こぞって同じように、館主と同じ韻を踏む。

 韻と韻が手を取り合い、優雅に踊る。

 その音が響き渡れば、ふわりと楽団が浮いた。


 あっと声が出そうになる。

 だが楽士たちは、その出そうになる力を腕に込め演奏を続けた。

 ハンナを中心に広がっていた光の半円は、空へと浮かんで大きな球となり、一同を地から離れさせていた。。

 シャボン玉のようにゆらゆらと浮かびあがる光の膜は、服の生地よりずっと薄い。

 重さに耐えかねて破裂してしまわないかという儚さであるが、踵に受ける感触は確かだった。

 この現象を生みだしたのは言わずとも分かる、魔女ハンナだ。

 この事態に合わせて変化させたのだろう。

 私が守ります。

 そう言った彼女の言葉は嘘では無い。

 こうやって、自分たちを守ろうと居場所を空へと移動させている。

 下を見れば、そこは地獄であった。


 もはや街は、沼地に沈んでいた。

 広がっていった黒円は大きく、ここからでは全容が見渡せない程である。

 これが海というものなのだろう。

 ハンナはそう思った。

 彼女は山あいで育ったため、実際は見たことはない。

 本で読んだ心象からそう感じただけであった。

 魔女の大釜で読んだ軌跡。

 海原へと船出する者たち。あの話。

 それを胸中に思い返しながらハンナは下を見た。


 辺り一面の建物は支える大地が失われ、ズブズブと沈んでいく。

 波飛沫のように腕がうねりをあげ、その頭を掴むように叩きつけ、引きずりこんでいく。

 この光景が海だというのなら、海なのであろう。

 黒く濃く、底も見えないほどに染まった黒い海原。

 海面に浮かぶ物はもう何も見えない。

 それらは腕が全て引き摺りこんでしまった。

 何も無くなったからか。波は穏やかであった。


 ハンナ達を包み込んだ球は浮かび続け、そのまま上層へと辿り着いた。

 アヤカシを阻んだ光層であったが、ハンナ達を遮ることなどせず、何事も無く突き抜けた。

 突き抜けると球は花開き、上層の空気を吸わせてくれた。


「ハンナ!」


 顔を出したハンナの元へ、クレイが走ってくる。

 そして近場までやってくると背を向け、剣を構えた。

 視線は下。あの広大な海である。


「ええと、一応尋ねるけどアヤカシはまだ祓えてないよね」

「うん」


 疑問符に力強い返答。

 クレイの代わりに館主がため息をついた。


「やれやれ、すっかり下は様変わりだね。お嬢ちゃんアレはなんだい?」


 アレとは勿論、下の海原のことであろう。

 全員が下の様子を見守る中、ハンナは口を開いた。


「アヤカシです」


 けらけらけらけらけらけら


 海原に、大きな渦が巻く。

 その中心から、奴の哄笑がはっきりと伝わってきた。

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