第29話 異界
足下が無くなる浮遊感。そして落ちていく感覚。
固い地面を靴底で確かめながら、ようやくクレイは立ち上がった。
まだ意識はハッキリとはしていない。
頭を振った視界に赤みが差し込んだ。
「これは……」
今は夜だったはずだ。
しかし見上げる空は赤く染まっていた。
夕焼けより更に赤く、真っ赤に染まっている。まるで血を滲ませたかのように。
息を吸って吐く。空気で肺が動くのがわかる。
大丈夫、生きている。
突然の場面転換に頭がついてこれなくなるが、己を確立させようと頭を働かせる。
「…※△……□×?」
声がする。聞いたことがある声だった。
知っているはずなのにわからない。
喋っているが、それをうまく聞き取れない。
言語ではなく、音の羅列にしか聞こえないのだ。
混乱する頭は、まだぼんやりとしているようだった。
「※△ぶ……大丈□×、クレイ?」
クレイ。それは何だったろう。
よく知った鳴声だ。
……否。
名前だ。そう、名前。
それが自分の名前、呼びかけられていることに気づき、クレイはようやく覚醒した。
「ああ、何とかね。ハンナ」
顔を横にやればハンナの姿がわかった。
不安そうな表情でこちらを覗いている。
大丈夫なことをしめすために身体を動かしアピールしてみせると、ようやく納得して貰えた。
「ごめんなさい。無理矢理侵入すると感覚に齟齬が起こるの」
「まあ緊急の場合は仕方ないよ」
辺りを見回せば衛兵もいた。
自分と同じように虚ろではあったが、何度か声をかけることで自我を取り戻した。
「すいません、ぼんやりしていました」
「僕もですよ」
落ち着いたところで周囲を確認すれば、そこはやはり街の景色。
だが、全てに置いて赤かった。
夕陽は見えずとも空は赤く染まり、その赤光が街全体を染めている。
赤、赤、赤。
血に染まったかのように一色に染まりきった景色は、ずっと見ているとおかしくなりそうだ。
濃淡しかわからない朱の世界で、杖が持つ弱光は温かみを感じさせてくれる。
「ここは……街ですか?」
衛兵は声を漏らした。
居並ぶ街並みは、普段歩いている見慣れた景色と同じだ。
だが、この空気は先ほどいた場所とは全く別物であると確信できる。
「街ですよ。アヤカシが生みだした異世界」
ハンナは歩き出す。
それにつられてクレイと衛兵も歩き出す。
やがて耳に、ささやきが聞こえてくる。
街の路地を進めばそれは大きくなり、はっきりと聞こえてくるのだ。
歌だ。これは歌だ。甲高い、叫ぶような歌声。
歌っているのは女と判別出来た。
それが街のどこからか聞こえてくるのだ。
「うわああああーーーっ!」
そして男の悲鳴も。
ハンナと、それを追いかける二人の足が速くなる。
行き先は当然悲鳴があがった方向だ。
そこへ進むにつれ、歌声は更に高らかに響いてくる。
♪たとえ貴方が必要としなくても 私はきっとなってみせるわ
♪だから振り向いて欲しい それが私には必要だから
けらけらと笑うように歌うそれは、幻聴でも何でもなくはっきりと聞こえてくる。
建物に反響し、最初はでどころが分からなかったが、今や場所はハッキリとしている。
上だ。
上空。
建物と建物。壁から壁。屋根から屋根へと。
編み込まれた紐のようなものがあちこちに張り巡らしており、その上を人影が踊るように進んでいた。
赤いボロに身を包み、髪を振り乱しながら歌う異形。
女の姿をしたアヤカシであった。
女の行く先を見れば、逃げようとする人の姿が見えた。
男だ。振り返らずとも必死な形相なのが予想できる。
彼はどれほど走っていたのであろう。
子供の歩幅であるハンナとクレイでも、徐々に差を詰めることが出来た。
衛兵は一歩、前へと抜きん出ている。
「魔女殿! 私はあの者を確保します! お二人は頭上の怪しげな者を!」
一見してどちらが敵か判断した衛兵は、そう言い残して更に歩調を強めた。
ハンナの横へ、クレイが並ぶ。
「ハンナ、僕はどうすればいい?」
「一緒に止めましょう」
「でも、あんな高いところまでどうやって? 空を飛べたりするのかい?」
上を見上げれば建物は二階建て三階建て。
その高層を縦横無尽に紐が張られている。
階段から屋根伝いに上ったとしても、追いつくのには苦労しそうだ。
女はフラフラと、落ちないのが不思議なくらい揺れながら歩いている。
仮に自分があそこまで行けたとしても、足場を気にして進めなさそうだ。
「私が道を創るわ」
ハンナの杖に光球がするすると集まり旋回する。
その様子を見てクレイは頷いた。
正直何をするかはわからない。だが嘘を言うような娘ではない。
昔から幼なじみとつき合ってきた少年は、すぐに首を縦に振った。
「ありがとう、僕はどうすればいい?」
「いつものように。私の歌に、身を任せて」
「わかったよ」
クレイが剣を持ち替えた。そしてサルタトルをあらたに抜く。
借りてきた剣は業物だが、それでもアヤカシ相手には劣る。
生物には生物の、アヤカシにはアヤカシへの対処があるのだ。
感触を確かめるように腕を振るえば、愛剣はひゅんひゅんと音を立ててそれに応える。
朱に染まるこの空気を浄化するかのように、サルタトルは清涼な音を立てた。
その音はクレイが集中するのに、充分な効果を生み出す。
たん たたん たたたんたん
軽やかにステップを踏み、少年が舞う。
観客無きアヤカシの街で少年が舞う。
だがそれでも、クレイは孤独ではない。彼の背をハンナが見守っている。
共に歩んできた少女が、杖を掲げて祈りを捧げている。
少年の心に恐れは無い。
後方から来る歌がクレイを鼓舞し、風となって上空へと舞う。
クレイの身体は、それに導かれるように自然と動き出すのだ。
ここはいずこぞ知らぬ街♪ 出会う人も知らぬ顔♪
あれは誰ぞか何者か♪ ちょいと気になる行ってみよ♪
たん、と軽くステップを踏んだクレイの足。
それは大胆な跳躍を生みだし、羽毛のようにクレイの身体を押し上げた。
バネのように高く、放り上げられるように高く、跳ぶ。
緩やかな線を描きながら、クレイは建物の屋根へと着地した。
ここまで文字通りのひとっ飛びである。
軽い。
羽根のように軽い。
自分の身体から重さが消えたかのようであった。
足に力を入れると、足先で屋根を小突いただけでクレイの身体は再び浮き上がった。
走るというより飛ぶ。
奴が糸路を真っ直ぐと進むのに対し、屋根をジグザグに蹴りながらクレイは後を追った。
一歩踏み込むたびに容易く距離をせばめていく。アヤカシの背がグングンと近づいてくる。
いける。
クレイが大きく足を踏み込むと、その跳躍は虹のようなアーチを描いてアヤカシの頭上を抜き、追い越すことに成功した。
たん
糸へと軽やかに着地するクレイ。
両の足底は糸に僅かしか振れてないが、強固な大地で足を踏み固めたかのようにしっかりとした感触が伝わる。
おそらくこれも魔法の影響なのだろう。これならば、足下を気にせずにすむ。
前後に脚を開いて構え、アヤカシと向き直った。
そして初めて、クレイはアヤカシを正面から見たのだった。
両目から血を流してけたけたと笑う女性。
第一印象はそれであった。
目は赤く濁り、どこを向いているのかわからない。
しかし前へと立ちはだかったら、こちらへと顔を向けたから何かしらの感覚はあるのだろう。
そしてボロボロの衣服。
それは服というよりは辛うじて服に引っかかっている布きれというのが正しい。
ささくれ、水分も無く、荒れに荒れた肌。
身体のあちこちには青黒くアザになった斑点が浮かぶ。
異形。まさしく異形。
ただの人であれば腰がひけたであろう。
だが違う。
自分は従士である。
今ここに立っているのは、ハンナの、魔女のおかげである。
その確信が、クレイの胸に勇気の灯を灯す。
たん たたん たん たたん
クレイがステップを踏む。紐の上でも地面と変わらずに。
跳躍で紐がたわむ。
つま先で韻を踏みながら軽やかに跳ねるクレイに、恐れの心はない。
彼の心に、高所で戦っているという恐れは無い。
なぜならクレイは、従士だからである。
「いくぞ!」
己を鼓舞するが如く気炎を吐くクレイ。
地上からそれを後押しするように、ハンナの歌声が上がってくるのだった。
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