第22話 帰路
「ここが何処かって?」
いたずらげに笑うその女性は、クレイより一回り年上と思えた。
近づく女性からは香が強く、鼻をくすぐった。
それによくよく見れば、綺麗である。
それは、異性の目を惹く化粧のおかげなのだが、少年の目にその瑕疵を見破れるはずもない。
女がふわりと袖を動かせば、香りが更に強くなる。
おそらく衣服にも香水を染みこませているのだろう。
肌から漂う香りと衣服の香り。
その二つ、或いはまだ多いのか。
見えない麝香の腕は、鼻をむずむずとさせるクレイの首根っこに絡み、引き摺りこもうとする。
知らず知らずのうちに、女との距離は狭まっていた。
手を伸ばせば互いに頬へと触れる距離。
クレイの目は、微笑む女性の面へと吸い込まれていた。
綺麗だ。
それしかクレイには言いようがない。
「……はい。あの、えっと。場所を教えて欲しくって」
舌がうまく回らない。
なんだか胸もドキドキと早鐘を打っている。
もう少し年齢を重ねれば、クレイはこの気持ちに耐えることが出来たろう。
女性への好意。年上の憧れ。
その芽生えがまだ幼き少年の心中に花開き、動悸を激しくしているのであった。
「ここは坊やの来るような場所じゃあないわよ」
「え?」
「もう少し大きくなって来てからいらっしゃい」
「どういうことですか?」
女は事も無げに言う。意味が分からずクレイは首を傾げた。
その様子から、とぼけているわけではなく本当に知らないのねと、女に溜息をつかれた。
「ここは男と女が愛しあう場所よ。坊やにはまだ早いわ」
「愛し合う、ですか……」
愛し合う、の言葉をクレイは頭の中で反芻させる。
愛し合うということはつまり、そういうことだ。
具体的にどうするかはわからないが、何となく意味がわかってくる。
それを口にするのはもどかしく、ぼそぼそと声を紡ぎ出す。
「あの……俺、お風呂屋さんがここにあるって……」
「そりゃああるわよ。客も自分も汗をかくからね」
微笑みを浮かべたまま女が近づいてくる。
蛇に睨まれた蛙のようにクレイは動けない。
両手を後ろに回され、抱きすくめられてももじもじとしているだけだ。
「可愛いわね坊や。値段は負けてあげられないけど、一緒に湯につかってはあげるわよ?」
「あわ、あわ、あわ……」
絡みつく麝香を振りほどき、クレイは力を振り絞って拘束をほどいた。
少年の双掌打は、その手に柔らかい衝撃をまだ残している。
その感触を拳で握りつぶし、クレイは来た道を引き返した。
「す、すいませんでしたーーーーっ!」
脱兎の如く遁走するクレイ。
残った女は、その後ろ姿を悪戯な目で追いかけていたのだった。
・
・
・
幾つもの路地を曲がり、クレイは両膝に手をのせて呼吸をくり返した。
追いかけてはこないとは思うが後ろを振り返る。女性の姿は無い。
安堵し、大きく息を吸った。
別に逃げる必要などなかったのだが、あの場に留まるのは気が引けた。
それにしても。
風呂というのは隠語だったのだろうか。
だとすれば教えてくれた男は大きなお世話である。
「村にはいないタイプだったな……」
思い返して顔が熱くなる。
自分より年上の大人とは会話したことは勿論あるが、あんな風に手玉に取られそうな女性に面と向かうのは初めてである。
どうも調子が狂う。
ストゥンが言っていた『ケーコクノビジョ』とはあんなのを指すのだろうか。
息が整うにつれ、身体の汗ばみがやはり気になってくる。
先ほど全力で走ってきたから尚更だ。
かといって、このまま探し続ける気分はもうしない。
残念だが今日はここまでにして、引き上げるのが無難だろう。
徒労に終わった街の散歩。その疲れが肩にのしかかってくるのを感じる。
部屋に戻ったらすぐに横になりたい気分であるが、汗のままでは寝たくはない。
「帰ったらタオルで拭こうかな」
そう愚痴りながら帰路につくクレイの鼻を、良い匂いがくすぐった。
先ほどの、男を誘うような甘い香りとは全然違う。
腹と舌に訴えかけるこの匂い。
顔をむければ、露天が何かしらを焼いていた。
動き廻ればやはり腹が減る。それに手ぶらで帰るのはやはり、なんというか負けた気分がする。
ポケットに手を入れれば、小銭の感触が手先に伝わった。
無駄使いはいけない。それは良く知っている。
しかし空腹には勝てぬ。
自分に言い訳をしながら、クレイの脚は迂回し、露天のほうへと導かれていったのだった。
・
・
・
「ただいま」
部屋でくつろいでいたハンナはクレイの声がしたので顔を上げた。
その鼻先に、食欲をそそる匂いが突きつけられる。
「おかえり、何か買ってきたの?」
「ああ、帰りに美味そうだから買ってきた」
クレイに手渡されたパンを、ハンナは受け取る。
切れ目の入ったパンに焼けた肉がはさんであった。
まだ出来て間もないのだろう。温かみが手の中で感じられた。
「食べたら夕食が食べられなくなるわよ」
「じゃあ、僕にくれるかい?」
「あら、せっかく買ってきてくれた物を突っ返したりなんかしないわよ」
ハンナは食べようとするが、何かを思い出したようで、ベッドから立ち上がった。
「そうだ、飲み物取ってくるわね」
そう言うとクレイと入れ違いに部屋を出て、しばらくすると飲み物を持ってきてやってくる。
「それは?」
「お茶よ。飲み物があったほうがいいでしょ」
「どこから持ってきたんだよ、それ」
「管理人さんにお願いしてね。貰ってきたの」
「管理人さんて、あのお婆さん?」
「そうよ。クレイがいない間、お話ししていたの」
どうやら彼女は、自分がいないうちにここの人と随分仲良くなったらしい。
ありがたく受け取って、クレイはパンを頬張った。
「クレイはどこに行ってたの?」
「僕は……風呂屋を捜していたよ。無駄足だったけどね」
「ああ、旅続きだったからね」
まさか娼館に出くわしたとは説明しづらい。
目的だけをハンナに打ち明けたが、納得して貰えたようだった。
「私も風呂入ろうかな」
本に没頭していた時は気にならなかったが、今になって気になってきた。
クレイが入るというのなら、自分も一緒に行くのもいいだろう。
「そうした方がいいよ。疲れが取れないし」
「そうね、じゃあそうしましょうか。場所はわかるの?」
「いや全然。衛兵にでも聞こうと思っている」
二人はこの街並みを良く知らない。
ぶらぶらと散歩するならともかく、目的があるなら人に聞くのが手っ取り早いだろう。
「行く前に管理人さんに聞いて見たら?」
「じつはもう地図はもらってある」
クレイは貰った見取り図を差し出した。
ハンナはそれをしげしげと眺めてみる。
だいたいの街の造りがわかる俯瞰図ではあるが、文字の類は何も書かれていない。
知ってる人だと方角と場所で当たりをつけれそうだが、一見には難しそうである。
「おそらく、ここが魔女の大釜ね」
「そうだよ」
印のある場所を指さされ、クレイは頷く。
じゃあここは? ともう一つの印を問われた。
「そこは衛兵の詰所さ。わからなくなったら尋ねろってさ」
なるほどとハンナは頷いた。
確かに、街を巡回している衛兵ならば、色々と知っていそうだった。
少なくとも、街に来たばかりの自分たちよりは詳しいに違いない。
「お風呂屋さんの場所は?」
「知らない」
「当てずっぽうで出かけたの?」
呆れた、と溜息をつくハンナ。知らない街をよくもうろつけるものだ。
無謀というか勇気というか。
その行動力は、少年故の純粋さなのだろうか。
「じゃあ、明日詰所によって、風呂屋に印つけて貰いましょうよ」
「ああ、それ良い考えだね」
パンと飲み物を平らげ、二人はベッドに腰掛けながら話し続けている。
明日はどうしようかというお話しだ。
陽はかげり、夜の帳が下りようとしている。
だが二人の口は、夕食が運ばれてくるまで閉じることはなかったのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます