第23話 逢魔が時

 男が機嫌良く道を歩いてい。

 気分が良いのは酒だけのせいではない。女遊びをしてきた帰りなのだ。

 泊まってとせがむ女の手を袖から剥がし、娼館を出てきたのだ。

 正直、長居したい気分はあった。

 だが豪遊出来るほど男の稼ぎはない。

 ほどほどに愉しまなければ、生活もままならない。

 たまに入れあげて身を持ち崩す輩もいるが、自分はそうではないと男は思っていた。

 火照った身体には流れる風は心地よい。

 フラフラと千鳥足で男は路地を曲がった。


「あん?」


 いくつか歩いたところで、男はようやく違和感に気づく。

 いつもの帰り道。見慣れた路地と建物。

 そのはずなのだが、今日は違う。

 違うのだ。

 道の幅。左右に並ぶ雑多な建物。その建物に据え付けられた窓々。

 同じ景色なのだが今日は違う。


「道を間違えたか?」


 大通りから小路へと曲がった時は、いつもの曲がり角だったはず。

 そう思い、一旦大通りへと戻ることにした。

 戻って見渡すと、男は更に不安になった。

 通りに立ち並ぶ数々は、街の外観に溶け込んでいる。

 それ自体に違和感は無い。

 だが幾度と無く歩き慣れた男の目に、該当する覚えのないものばかり。

 路地をひとつ間違えたとか、そんなものではない。

 全く同じ造りをした別の場所へと飛ばされたような、そんな違和感を覚えた。


「ど、どうなってんだ?」


 男は小走りに急いだ。はやくこの場所から逃げ出したかった。

 見慣れた、安っぽい長屋の、自分の部屋へと戻りたかった。

 だがいくら駆けようとも、記憶と一致する場所は見つからない。

 不安が、増大する。

 いつの間にか、酔いはすっかり醒めていた。


 走り続けるうちに男は更にきづく。

 人がいないのだ。

 夜のうちなら、人の気配がしないのはわかる。

 だが陽は沈みかけたとて、すれ違う人の一人や二人がいそうなはずなのに、その姿は無い。

 そう、まだ明るいはずなのだ。


 上を見上げて男は声にならない叫びをあげた。

 赤い。

 夕陽の紅ではなく、血を空へと染みこませたような朱。

 それが爛々と照らされ、街全体を赤く染めていた。

 男が夕焼けと勘違いしていたのは真っ赤な空であった。


 ♪cry cry 昏い昏い 暗い夜道に私独り

 ♪でも私信じてるの きっと貴方が見つけてくれるって


 声。

 否。

 それは歌だった。

 ささやくようにか細く、しかし問いかけるように強く胸に響くようなその声は、男の耳にはっきりと聞こえた。

 いったいどこから?

 左右を見れど、振り返れど、辺りを見回しても、姿は見えず。

 この異色の世界で、問い歌うモノは何者か。


 人ではない。

 男はそう確信した。

 誰かがいるという安堵では無く、誰かに見つかってしまったという恐れ。

 不安と恐れが増大し、止まっていた男の足を再び駆けさせた。


「何なんだよ……いったい何なんだよぉ!」


 路地をいくら曲がろうとも、通りをいくら過ぎようとも、歌は耳から離れることはない。

 か細く聞こえちぎれそうだが、途切れることはない。

 男は意を決し、建物の戸を叩いた。


「おい、誰かいるんだろ! 開けてくれ!」


 しかし返事が返ってくることはない。

 どれもこれも、戸口を叩こうと蹴ろうと、罵声を浴びせようとも、決して開かれることはない。

 否。

 そもそも人が居なければ、開けようもないのだ。


 焦燥が恐怖を助長し、涙目になりながら、男はまた駆けだした。

 男に追いすがるように、声が耳から離れはしない。

 変わらない街。空。歌。

 疲労だけが刻一刻と積み重なっていく。


 ♪night night 二人の夜 甘い囁きしばしの時間

 ♪ねえあなた覚えてる それから私虜なの


 声は建物に反響し、どこからやってくるのかは掴めなかった。

 だがそれは、最初の時より大きくなっているのがわかる。

 声の主は、確実に近づいているのだ。


 男は体力には自信があるほうだった。声の主はおそらく女であると思われた。

 なのに、振り切れない。離れられない。

 どこまで走っても声は聞こえてくる。

 男の息があがり、走るのが辛くなり、立ち止まってしまう。

 苦しくて顔を上げた男は息を呑んだ。


 頭上。

 建物から建物。壁から壁。何かが張り巡らされている。

 それは紐のようにも見えたが、ここからでは遠くよくわからなかった。

 幾重にも張り巡らされたそれは、風も無いのにゆらゆらと揺れている。

 揺れているのは、誰かががそれを伝ってきているから。

 足先より細い糸の道を、恐がることもなく軽やかに朗らかに。

 跳ねるようにと、男の方へとやってくるから。

 男は逃げることも忘れ見上げ、ソイツを見た。

 着ているものはボロボロだがドレスとわかる。

 小刻みに揺れ動くせいで、身体のあちこちがちらほらと覗く。

 露わになる肌から、追いかけてくるモノは女とわかった。


 長く黒々と、ぐるんぐるんと振り乱される髪は、まるで束ねられた鞭のようでもあった。

 両目は何処を向いているかも判断出来ず、左右違う方を向いている。

 赤い舌は歌うたびに踊り、涎と唾をまき散らす。

 かろうじてしがみつく布地はもはや衣服の役目を果たしておらず、裸身を惜しげもなく晒している。

 白蝋のような肌は、街を照らす朱色を受けて、赤みを増していた。

 つま先だちで足の指先で挟みながら、紐を辿ってやってくるその様は軽業師の如く軽快であった。

 今では無く、祭りの時であったのなら、きっと快哉をあげていたに違いない。

 男の口から出たのは悲鳴であった。


 男は一目散に駆けだした。

 あれは軽業師ではない。ましてや女でもない。

 人の形をしたナニモノかだ。

 気力を奮い立たせ、ひたすら走って逃げようとする。


 走る。走る。男が走る。

 街中をひたすらと走る。

 何処へ行こうか、何処に隠れようか、そんな考えは浮かんで消える。

 街並みは確かにこの街なのに、全く覚えのない通りばかりだ。

 だから逃げる算段は皆目見当がつかないのである。

 あの声から離れたいだけだ。


 ♪風がふいて私を撫でる 冷たい手で袖にして

 ♪やっぱり貴方が必要なのよ ねえ聞いて 私ここに居るわ


 声は遠ざかる様子は無い。

 それどころか段々と近づいてくるだろう。

 振り返り、うえを見上げればその姿がきっとわかるに違いない。

 男にそれをする勇気はなかった。

 ただ、ただ、ひたすらに、この場から逃げ出したかった。


 ♪ここよ ここよ 私はここにいるわ

 ♪風に思いをのせたなら 貴方の元へと届くかしら

 ♪wind wind 風よ運べ 私をのせて彼のもとへ

 ♪kind kind 貴方は今 どこにいる

 ♪幾つもの優しさ 思い出して 胸に灯すの

 ♪だから私独りでも寂しくない

 ♪だって貴方がいるからね


 男の思いも空しく、声は近づき頭上へと。

 男の元へと迫って来る。

 だんだんと、顎が上がってくる。

 上を見たいわけでは無い。疲れてきたのだ。

 男は走っているつもりだった。

 だが悲しいかな。勢いはすでになく、競歩以下の歩みしかない。

 子供でさえ今の速さならば男に追いつけるかもしれない。

 ましてやそれが人外のモノなら。


「うぉっ!?」


 足をとられ倒れる男。

 見れば己の両足に絡みついているではないか。

 それは紐であった。

 高所より伸びてきたそれが男の足に絡みつき、逃げを封じたのであった。


「うわわわわっ」


 逆さまになったまま引っ張り上げられる男。

 こうなっては身動きが取れない。

 もがき苦しむ、上下反転した男の視界に、奴が一歩、また一歩と近づいてくる。


 ♪ねえ貴方私を抱きしめて 私がここにいることを感じさせて

 ♪私がいる意味 ここにいる意味 きっと貴方なら理解させてくれるから

 ♪ねえお願い 愛してるって言ってくれたでしょ

 ♪ねえお願い ねえ覚えてる 私貴方の虜なの


「た、助け……」


 男の懇願。

 それは不快な音によって潰された。

 ベキリベキリと折れる音。水分を含んだ音。

 それらがまとまって、やがて地面へと叩きつけられた。


 べちぁ。


 少し前まで男だった物には一瞥もせず、ソレはフラフラと紐をたぐりながら何処へと去っていく。

 恋をうたう、女性の声を従えて。

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