第20話 中断
一行が海に出て暫く。
岸が遙か遠く、その向こうの景色に山が見え、どこが陸なのか辛うじてわかる頃。
網元が何かを嗅ぎつけるように鼻をならした。
「来やしたぜ」
その呟きに誘われるように、辺りの景色が薄れ始める。
霧だ。
晴れた日にもかかわらずまとわりつくように現れたそれは、たちまち舟の一団を包み込んだ。
周囲から怯えの声が漏れ始める。
「てめえら、本番だ! 気合いいれるぞ!」
恐怖に身体が支配される前に、網元の叱責が性根をたたき直す。
そして従士が気合いを入れるように太鼓を叩いた。
出航する舟のそれぞれには太鼓が運ばれている。
三人一組となって進む舟には、従士と同じように太鼓を叩く役割がいた。
太鼓を叩く者、櫂を漕ぐ者、手ぶらな者。
従士の音頭に会わせて、それぞれの叩き手もバチを取る。
叩くことで恐怖を払拭させるように、一心不乱に叩く。
それに鼓舞され、漕ぎ手は舟同士がぶつからぬように距離を取り始める。
他の二人を邪魔せぬように、もう一人は穂先に松明を灯し始めた。
霧の中、かろうじて判別出来る灯は、頭上でうっすらと滲む陽の強さとさして変わらぬ。
だがその滲みは、確かにそこに仲間がいるという証でもあった。
その点々より音頭が響く、確かにここにいるという証を、叩きつけている。
ここは海上。大海原では人など全くの無力である。
だが、自分たちはここにいる。
アヤカシと対峙するためにここにいる。
「そいや、そいや、そいや」
「ソイヤ、ソイヤ、ソイヤ!」
不安の色が滲みひろがる視界のなか、払拭しようと男衆の叫びがこだまする。
ぶるり、と身体が震えた。
今は昼である。昼のはずである。
だが、視界の霧は濃くなっていく。
空に墨をこぼしたように、色は灰へと滲んでいく。
昏く昏く変わっていく景色に誘われるように、体に感じる温度は下がり始めていく。
まるで夜へと変わったかのように。
暗くなってくる霧中での舳先の灯は、その大きさ以上の心強さを乗員に与えてくれる。
周りから打ち鳴らされる太鼓と蛮声は、確かにここにいるという確信を与えてくれた。
もし自分一人であったのなら。
何の明かりも無く霧へと投げ出されたのなら。
それはとても心細く、生きた心地がしなかったであろう。
魔女が杖を掲げれば、それに釣りさげられた鈴の数々がシャリンシャリンと響き渡る。
その音は、霧の垣根を分けるように清らかであった。
鈴の音が染みこんだ霧は、少し薄らいだように感じられた。
その霧の中に、更に大きな影が浮かび始め近づいてくるではないか。
人々に、緊張が走った。
・
・
・
「ふう」
ハンナは読み進めていた本を閉じた。
読み進めたいという欲は、何かを食べたいという欲に負けようとしていた。
読書を中断して卓にむかうと食事はとうに冷めている。
クレイの姿は部屋には見当たらない。
そういえば出かけると言っていたようなことを思い返した。
「ちょっと悪いことしたかな」
冷めたスープは塩気がより強く感じられる。
ハンナの素っ気なさをたしなめるような濃い味であった。
今、彼は何をしているのであろうか。
よくよく考えてみれば、クレイと一緒に出かけたほうが良かったのかもしれない。
「帰ってきたら謝らないとね」
もくもくと、よく噛んで皿と器を空にすると、ハンナは部屋を出て表へとむかった。
食器を返すためだ。
通路に出てみればひんやりとした空気が肌に触る。
その空気と静けさは誰もいないかと錯覚するかのようだ。
感覚遮断の魔法がかかっているのだろう。
戸口に立ち中の様子を伺おうとしても、音は一切聞こえないに違いない。
これも旅人に対する配慮なのであろう。
「おや、こんどはお嬢ちゃんかい」
ここに入った時に対応してくれた老婆は、何事かをしていた作業を止めた。
ハンナが持っている盆を見て目を細める。
「そのまま部屋に置いてても良かったのに」
「いえ、そういう訳にはいきません。泊めさせてもらってますし」
ハンナの言葉に老婆は大きく笑う。
「あんたの連れも同じ事を言ってたよ」
「クレイもですか?」
「ああ、そうだね。出かけてくると言ってたよ」
「どこに行ったか、そういうのはわかります?」
老婆は首を振った。どこに行ったかまでは知らないらしい。
ハンナはどうしようかと首を捻る。
自分はこの街をよく知らない。クレイを捜そうとしても行き先がわからなければどうしようもない。
一人で出かけても迷子になる可能性が高い。
クレイと一緒に出かけていれば良かったか。
ハンナの考えることを察したのであろう。
老婆は優しく微笑んで語りかけてくる。
「そう悩まんでもいいさ。あの子もこの街はよう知らん。そんなに細かい処までは行けないさ」
そのうちに返ってくるだろうと、茶を勧めてくる。
それを受け取り、椅子に座りながらハンナは外を眺めた。
陽は高いが幾分傾きかけている。
いくらクレイでも、夜になってもうろつくような真似はしないはずだ。
ならすれ違いにならないよう、ここで待っているべきであろう。
「そうですね、そうします」
ハンナは頷き返して茶を飲んだ。
温かい。食事をすませた腹に優しい。
その温かさに、ハンナは食事を後回しにして冷ましたことを思いだし、少し罪悪感を覚えた。
「ごめんなさい」
その罪の意識が、口から謝罪の言葉を引き出した。
「何を謝ることがあるんだい?」
「食事を食べるのを後にしたことを。料理を冷ましてしまったので」
「なんだい、そんなことかい」
居心地悪くハンナがそう説明すると、老婆は笑う。
「別に手つかずに残したわけじゃないんだろ? あんたはこうやって残さず食べて持ってきた、それでいいじゃないか」
気にするな、と老婆は手元を動かし始める。
中断していた作業を再開するためだ。
しばらくそれを眺めていたハンナだったが、やがて興味が出てきた。
「何をなさってるんですか?」
老婆は筆を持っていた。
もう片方の手に持っているのはカードだろうか。
何も書かれていない無地のカードに、筆を走らせ何事かを描いていた。
簡素ではあるが、それが人であることはわかる。
三角帽子を被り、腕を前に出し、そこから炎が飛んでいる。
そんなイラストだ。
「頼まれものだよ」
そういって老婆はハンナに一枚カードを差し出した。
それにもイラストが描かれている。
見れば老婆の手元にはカードの山があった。まるでトランプのようでもある。
「面白いことを考える娘がいてね」
手を休めないで老婆は口を動かす。
ハンナも口を挟まずにその作業を黙って見ていた。
「魔道書は使い辛いから、魔法をカードでやりたいらしいよ」
「そんなことが出来るんですか?」
「まあ、可能だね。私としては本のほうがやりやすいと思うけどね」
一枚書き終わり、老婆はそれを脇に置いてまた書き始めた。
山の束は無地のほうがまだまだ多い。
作業はだいぶかかりそうだった。
ハンナは会ったことも無い、その人物に興味が出た。
書を使って魔法を行使したことはあるが、カードを使って魔法を唱えたことは一度足りともない。
いったいどのようにしてやるのであろうか。
出来れば、目の前で見せてもらいたい。
「その方は今どちらに?」
老婆がハンナのほうを見て、人差し指を口にあてる。
内緒だよ、というのであろうか。
筆を置くと茶に手を伸ばし、ひと休みをしはじめる。
「その娘さんも旅の途中でね。今はゆっくりお休みさ。だから婆が御駄賃貰ってやっているのさ」
小遣い稼ぎを邪魔しないでくれよ、と目で訴えかける。
そう釘を刺されれば、ハンナもあれこれと詮索することは躊躇われる。
ハンナは眉をしかめた。
そちらの休憩を邪魔したくはないが、どういう人物かは凄く気になるのである。
気になることを気になるままでは、何も通らなくなるのである。
「まあ慌てなさんな。その娘さんと嬢ちゃんもいつか旅の先で交わることもあるだろうさ。その時に教えて貰えばいいさね」
そう言って、ハンナのカップに替わりの茶をつぎ足した。
それにハンナは口をつける。
「そうですね、そうします」
「そうしたほうが良い。中々賢い嬢ちゃんだ」
「はい、それはもう良いです。それとは別に教えて欲しいのですが」
ハンナはカードの件を尋ねることは止めた。
代わりに他のあれこれを尋ねることにしたのである。
老婆は笑って、優しくそれに答えてくれた。
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