第19話 ある魔女と従士

 書物というのは、それ一つが世界である。

 文を読み進めていけばその世界を歩き、読み終わるころには知識が増えている。

 ハンナは本を読むことが好きだった。

 村の中には文字を読めたって何にもならない、という人もいた。

 実際その人は感覚だけで野良仕事をやり遂げていた。

 それは経験の賜物であろう。

 ハンナには知識がある。だが経験は足りない。

 力も、体力も無い。

 だからこそ祖母は自分に読み書きを、知識を与えてくれたのだろう。


 魔女の大釜で借りられるのは、他の魔女たちの魔道書、その写本である。

 彼女達の経験を辿り、知識として蓄えられるのだ。

 何と素晴らしいことだろう。

 彼女達の旅の一足。

 今、それをハンナは胸を躍らせ読んでいる。

 物語ははアヤカシとの対決へと進んでいた。

 自分には無い出来事。場所。

 それらが自分が体験したかのように感じてくる。

 ハンナは本の世界に夢中となっていた。

 ある魔女と従士の軌跡。

 その物語へと没頭していったのである。

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 魔女と従士が乞われてきた場所は漁村であった。

 そこで村人一同の歓待を受ける。

 魔女を見て安堵する者、不安の色を隠さぬ者、様々である。

 その中から屈強な男が一人、前へと進み出た。

 彼は網元であった。

 この近海に起こる怪異を鎮めるために、解決を願い出たのである。

 海の荒々しさを満身に浴びたその顔はいかにも海の男といった風体であった。

 その厳つい男が、やってきた魔女に対し頭を下げた。

 頭は地へとこすりつけるように、衣服が砂や泥につくのを構わずに、地に頭をこすりつけたのだ。


「ありがとうごぜえます魔女様、村一同を代表して御礼を言わせて頂きやす」


 魔女はそれを受け自分も前へと出でて、そっと網元の肩へと手を触れた。


「過度な歓待痛みいります。されどアヤカシの姿を我はまだ見てはおりませぬ。その礼はこの件が終わった時、是非に受け取りましょう。ささ、顔をお上げください。そして我に窮状をお話しくだされ」


 そう言われ網元は顔を上げた。

 その顔には嬉しさとやはり苦労がにじみ出ていた。

 網元は起き上がると、深々と再度お辞儀をし、魔女と従士を迎え入れた。


「ではお話ししましょう、村の現状を。儂の知ってることをお話しいたしやす」


 そして、二人を自分の屋敷へと案内したのであった。


 網元の話はこうである。この漁村近海にアヤカシが出没しているのだ。

 それは霧を伴って現れ、視界の向こうから我々を誘うのだという。

 アヤカシから逃げようとも視界不良の海原では、舵を取ろうにも行方がわからない。

 ぐるぐるぐると同じ場所を漂わされ、怯えた漁師は恐怖で自分を見失い、アヤカシの元へとむかう始末である。

 アヤカシがどのような時に出没するのか、それは見当がつかなかった。

 ただわかっていることは、出没するときは必ずといっていいほど濃霧となることである。

 そのため以前は多少の天候でも舟を出していた村人は、今では少しの曇り空でも嫌がって舟を出そうともしない。

 網元も無理矢理海へと出して舟を沈められるのは本意ではない。


「儂らは魚を捕って生計を立てておりやす。しかし海に出られぬとあっては、飯の種にもなりやせん」


 苦み走った口から溜息が漏れる。

 網元の後ろで頭を下げている男衆も似たようなものだ。

 生き物であれば仕留めることが出来たかもしれない。

 だがアヤカシの対処を知っている者はこの村には居なかった。

 だから網元は、望みをかけて魔女と従士を呼んだのである。

 客人用の一室。

 そこから眺める外の景色には部屋に入りきれなかった者達が地に座って見守っている。

 おそらくほとんどの村人がここに集まっているのだろう。

 それが魔女に事態の深刻さを思い伺わせた。


「わかりました。やってみましょう」


 静かな、それでいて優しい声。

 それが聞こえた者の胸の内に染みいった。


「ですが我は海のことにおいては不慣れ。アヤカシにつけいれられる隙があります。貴方がたの助力をお願いしたい」


 その言葉に村人は互いに顔を見あわせた。

 知らぬもの、分からぬものに対して人は不安を覚える。

 ましてやそれが命を奪われるかもしれないアヤカシならば尚更だ。

 誰もが口を閉ざすなか、網元は率先して口火を切った。


「ようござんす。望みであれば舟を幾らでもお貸しいたしましょう。漕ぎ手がいなければ儂がやりましょう」

「網元」


 背後からかけられた弱々しい声に、平伏したまま網元はその者にむかって言い放つ。


「この方たちは余所から来なすった。正直ここに義理もなければ義務もねえ。あっしらがどうなろうとこの方たちのあずかり知らぬこと。だがな」


 ずずいと身体を村人たちの方へと向き直り、網元は続ける。


「それでもこの方たちは来てくださった。儂たちの現状を変えようとな。だったら地元の人間が答えないでどうする? 本来ならば儂らがどうにかせんといけん問題だ。たしかにアレは怖い」


 口をつぐんで周りを見る。怯えの色は濃い。

 無理も無い。アヤカシと遭遇した仲間は、それ以来この浜に帰っては来なかった。

 あの霧のむこうに兄弟縁者が囚われてしまった者はこの中に大勢いる。


「おめえら怖いか。だろうな、儂だって怖い。海に生まれたからは海に死ぬのが漁師と思ってきた。あんな奴なんぞ生まれてこのかた見たことねえ」


 服を掴む網元の腕がぶるりと震えた。

 この屈強な男でも、怖いものは怖いのだ。

 男衆を従えて舟を駆る男でも、怖いものは怖いのだ。


「この御方はやってみると仰られた。儂らでさえおっかねえあの海に飛び込むと。そんならなあ、儂だって命張るべきだろうが」


 ダン、と拳が板張りの床に叩きつけられる。

 そして稲妻のような声が辺りに響いた。


「この海は儂らのもんだ。あんな訳わからん奴に我が物顔にされて悔しくねえのかおめえら!」


 拳を叩きつけながら、網元は居並ぶ衆に発破をかける。


「儂はこの御方に命を預ける。儂と一緒の気持ちの奴は一緒に来い。怖えと思う奴は無理に来なくていい。舵取りの邪魔だ」


 言いたいことを言い終えると網元は魔女に深々と頭を下げた。


「そういうわけでよろしくお願えしやす」


 網元は頭を下げたまま動かない。

 居並ぶ村人も一人、また一人と頭を下げる。

 頭を下げ続ける連中に対し、魔女も深々と頭を下げた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 それから数日、村の中は慌ただしかった。

 魔女と一緒に出る者たちは舟にあれこれと積み始めている。

 魔女は網元と一緒になって、あれこれと指示している。

 すでに海に出る日は決められていた。

 その時を想像し、それぞれの胸に思いが去来する。

 勝てるのだろうか。

 魔女と網元のほうを不安そうに見つめる者も当然いる。

 だが賽は投げられた。やるしかない。

 自分の中の恐れを押さえつけ、村人たちは出航の準備を進める。

 村の平穏を取り戻すためにだ。


 そして当日。

 その日は晴れであった。

 三人四人は乗れそうな舟が海岸沿いに所狭しと並んでいる。

 そこへ衣装を改めた魔女が人より抜きん出て進みでた。

 白装束に身を包んだ彼女は、まるで海神の生け贄に捧げるような、そんな儚さを周囲に感じさせた。

 その左右に並ぶ網元と従士は、そんな儚さを吹き飛ばすような厳つさがあった。

 しずしずと魔女と従士が舟に乗り込むと、網元も舟に乗り櫂を漕ぐ。

 同じように男衆たちも続々と舟に乗り、岸から遠ざかっていく。


 一行が目指すのは海。アヤカシとの戦いであった。

 皆、言葉を発したりはしない。

 だんだんと小さくなっていくその姿を、村に残った者達は不安そうに拝んでいた。

 残った者も声にならなかった。

 海は晴れ穏やかで、ただただ静かに波が揺らいでいるだけであった。

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