第3話 フライハイワード
飛び出してきた何か、それは分厚い書物であった。
本が空を飛んでいる。
バッサバッサと器用に両表紙を羽ばたかせ、鳥のように飛んでいる。
左右に開いたその大きさは、ハンナとクレイが顔をくっつけたくらいの幅である。
「これはこれは! 皆様方お揃いではございませんか! いやはや契約してすぐに仄暗い底へと押し込められるとはなんたる仕打ち。
しかし私めの忠節は変わりありませぬぞ。このフライハイワード、主様のために我が身を惜しまず仕える所存。ささ、何なりと御用命を」
そして口もついてないのに喋りだし、聞いてもないのに自己紹介してくるではないか。
空飛ぶ本と言うだけでも珍しいのに騒々しいとはいかなる存在か。
ポカンと空を見上げるクレイにむかってハンナが、罰が悪そうに口を開いた。
「ごめんね。あの子生まれたばかりだからはしゃいじゃって」
「あの子? あの本が? アイツいったいなんなのさ」
視線を本からハンナへ、そしてまた本へと戻すクレイ。
生まれたとは何だろうか。そしてこれはよもや魔女の仕業なのであろうか。
「私の魔道書。昔の言葉で言うなら使い魔ってところかな?」
魔道書。
それは魔術師には無くてはならない存在である。
そこには様々な知識が記され、蓄えられる。
魔女の魔道書は命を吹き込まれ、文字通りの生き字引と化すのだという。
最初は只の無知の書物だが、旅の軌跡で得た経験や知識を記し上げて頁を積み重ね、立派な魔道書へと成るのだそうだ。
「アイツ、とてもそんな風に見えないぞ。魔道書というよりはしゃいでいる犬だぞ」
「刻みこまれた物が何もないからね。白々しいのは仕方がないよ」
成程。白い頁でいっぱいなら中身は無さそうだ。
これから旅を続ければ言も重くなっていくはず。
今だフライハイワードが喋り止む様子は無い。
言葉が雨のように降ってくる。その語彙と情熱はどこからやってくるのだろうか。
二人旅だと思っていたが、騒々しいお供が増えてしまったようだ。
「いつまで喋っているのですか。本日の主役は貴方ですか?」
いつまでもそれが続くかと思われたが、フレイの声を聞くと奴は黙った。
どうやら生みの親であるハンナ、その師匠筋のフレイの言葉には逆らえないらしい。
御意、とフワフワと木の葉のように落ちてきて、ハンナの胸元へとすっぽりと収まる。
閉じた状態で何も喋らないフライハイワードは、そうしていると完全にただの本だ。
ようやく静かになったところで、フレイはハンナとクレイのもとへと歩を進めた。
「ハンナや」
「はい、御祖母様」
フレイに声をかけられハンナはこたえる。
その眼差しは祖母を見る孫ではなく、師に受け答えする弟子の目であった。
「まだまだ教えたりませんが、それは貴女の旅でおぎなえると思っています。あなたは出来る子。きっとうまくやっていけるでしょう」
ですが、とフレイはつけ加える。
「それでも世界は広いものです。知らない事柄にきっと遭遇することでしょう、その時は従士と力を合わせ乗り越えるのですよ」
「はい、御祖母様」
一字一句をかみ締めながらハンナは頷いた。
フレイは続けてクレイを見た。
「クレイや」
「はい」
呼ばれてクレイは彼女を見上げた。
穏やかな老婆ではあるが、そこには凜とした威厳が感じられた。
ストゥンと同じようだ、とクレイは思った。
「ハンナの従士に名乗りをあげてくれて嬉しく思っています。魔女を魔女たらしめるのには従士の存在が不可欠。貴方であるなら私も安心です。ハンナを、守ってくださいな」
フレイの顔が刻まれた皺をなぞるように微笑みを作った。
フレイは、ストゥンと同じく旅をしていたのだ。
自分たちはそれの弟子。未熟者同士の旅になることだろう。
おそらく、二人と違って容易くとはいかないに違いない。
だけどクレイは、しっかりとフレイを見据え、言葉強く返した。
「はい、ボクがハンナを守ります」
その言葉にフレイは頷く。そして二人をかかえこむように抱き寄せた。
互いに頭をあわせ抱擁を交わす三人。
長い、長い長い抱擁。
それはやがて糸がほどけるように分かたれた。
「これ以上はよしておきしょう。私が別れたくなくなります」
寂しげな、フレイの笑顔。ハンナの顔も少し涙目であった。
しめやかな空気を混ぜっ返すように、ゲルダの晴れやかな声が響いた。
「なんか湿っぽくなっていますけどね、嫌になったら帰ってきていいんだよ?」
軽快に笑う彼女からは別れを惜しんでいる雰囲気は感じられない。
「駄目だって思ったらね、戻ってきていいんだよハンナ」
この明るい振る舞いは彼女なりの気遣いなのだろう。
あまり気負わないようにと、娘に対する思いやりなのだ。
「まあ、遠方で所帯持つことになったら手紙の一つでもくれれば嬉しいかな」
「お母さん!」
ゲルダの言葉にハンナは顔を赤くした。
「身重になったら伝えてきな。アンタがどこにいようとすっ飛んでいくさね」
「だからお母さんって!」
先ほどよりももっと語気を強くしてハンナが眉を逆立てる。
そこに先ほどの緊張は幾ばくも見えなかった。
親子喧嘩は犬も食わない。
彼女達の口論に加わろうとはせず、ストゥンはフレイに話しかける。
「まあ、いつも通りだな」
「全く、誰に似たのやら」
「お前の娘さんってことは知ってるがな」
フレイは首を振る。否定はしないらしい。
「まあ多少はハンナにもあの元気さがあれば良いと思ってますよ」
そういって目を細めながら娘と孫を見やった。
そしてクレイへと視線を移す。
まじまじと見られてクレイは緊張した。
「……なにか?」
「いえ、何も。あの子の従士があなたで良かったと、そう思いましてね」
そう言ってクスクスと笑った。
古の魔女に褒められ、クレイはこそばゆい気持ちになる。
「婦人方、議論はそこまででよろしいですかな。うちの倅が出発をどうしたら良いかと思い悩んでおりますゆえ」
ストゥンの助け船。仲裁を受けてゲルダとハンナの矛が収まる。
口論が収まると、二人の視線がクレイへと集中した。
その視線を受け止め、クレイはハンナへと手を伸ばす。
「従士として魔女を支えていくと誓うよ。だから一緒に旅に行こうか」
「ええ、もちろん。あなたとだったらどこへとでも」
ハンナは手を握り返してくれた。
まだ半人前の魔女と従士。
しかして二人の冒険はこれから始まるのだ。
さあ行こうかと背を向けようとしたが、ゲルダがその足を止めさせた。
「ちょい待ちな、お二人さん」
「お母さん、まだあるの?」
振り返るハンナにゲルダは言った。
「私らだけでなく村の連中にも挨拶していきな」
「でも」
クレイは空を見上げた。
朝早く起きたのは陽の高いうちから歩を進めたかったからである。
村の人数はそう多くはないが、一件一件回っては昼近くになってしまう。
「別に今生の別れじゃないんだろ? じゃあ出発が多少遅れたっていいさね」
クレイとハンナは顔を見あわせた。
「どうしよう?」
「旅の行き先は魔女が決めると聞いたよ。僕はそれを支えるだけさ」
クレイの意見を聞きたかったが、そう言われては困ってしまう。
さてどうするか。ハンナは考える。
一日くらい遅れても、これからの長旅に比べたら誤差のようなものだ。
それに、村の人々に黙って去るのも確かにあまりいい気はしない。
二人はこの村で暮らしてきたし、今の今まで付き合いはあったからだ。
「クレイ、村のみんなに挨拶していきましょうよ」
「ハンナが言うなら僕は従うよ」
互いに納得する二人。
今日の出発は止めて明日に予定を変更することにした。
「じゃあゲルダさん。これから皆に挨拶に行ってきます」
「そうしたほうがいいさ。この日のためにみんな色々と準備してきたからね」
「準備?」
準備とはいったい何だろうか。
またお互い顔を見あわせる二人であったが、その答えが分かるのは今日の夜のことであった。
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