第2話
2年になって、私は彼とクラスが離れてしまった。
新しいクラスは、どこか柔らかく、温かい雰囲気だった。教室に入るたびに感じていた重苦しさは消え去り、穏やかな空気が私の周りを包み込んでいた。
美術部で仲良くなった子と同じクラスになり、新しいクラスに小学校が一緒だった子たちが多かったことから、私はまた少しずつ、人と会話できるようになった。
嫌な夢を見ることも、妄想も幻聴も、いつの間にかなくなっていた。
クラスが変わっただけで、こんなにも世界は変わるのだろうか?
1年のとき、酷い妄想の中に出てきたクラスメートがいなかったことも、幸いしたのかもしれない。
彼の姿は教室には無くなってしまったけれど、友達と笑い合う時間が増えるたび、私は少しずつ、自分を取り戻している気がしていた。
なぜだかわからないけれど、私は彼に、ずっと守られていたような気がしていた。それは私の勝手な妄想で、錯覚で、ただの恋心だったのだと、今は思う。
でも、彼が同じクラスじゃなかったら、私は今頃、こうして学校に通えていなかったと思う。彼の笑顔と、何気ない言葉には、それほどの力があった。その笑顔はもちろん、私だけに向けられたものではなかったけれど。
クラスが離れても、時々すれ違う彼を目で追ってしまう。そして彼と視線が交わるたびに、彼は必ず手を上げて「よぉ!」と短く挨拶をしてくれる。
私が「おはよう」と笑顔を返すと、彼は穏やかに微笑む。
それだけの関係。それで充分だと自分に言い聞かせていた。それで充分なはずだった。
2年になって、少しだけ自信を取り戻した私は、無謀にも彼に、告白をすることにした。
もちろん、私の告白が成功するなんて思ってもいないし、彼からの答えもわかっている。ただ、彼の存在に私は救われた。この気持ちを、どうしても彼に伝えたくなった。
「あの……すっ好きです!」
緊張して声が裏返ってしまい、鼓動がさらに激しくなる。
彼が「あ」と口を開いた瞬間、私は慌てて言葉を続けた。
「あっでも! 返事はいらないです! ただ、この気持ちを伝えたかっただけだから! このまま、好きでいさせてください! ご迷惑はおかけしません! これまで通りでお願いします!」
自分でも信じられないほどの早口でまくし立て、顔を真っ赤にしながら彼の前から走り去った。
心臓が口から飛び出そうなくらいドキドキしていた。
次に目があったとき、彼はどんな反応をするだろう。
彼と挨拶さえできなくなったらどうしよう――そんな不安が頭をよぎり、夜も眠れなかった。
やっぱり告白なんてしないほうがよかったのかもしれない。
ただ、時々言葉を交わせるだけで充分だったのに。
そんな私の心配をよそに、彼は次の日も変わらず「よぉ!」と無邪気な笑顔で挨拶をしてくれた。
告白され慣れてる彼にとって、私の告白など、その程度のことだったのだ。
私は少し拍子抜けして、少しほっとして、そこからまた少しずつ、小学校の頃までとはいかないけれど、彼とほんの少しの会話を交わすようになった。
彼と同じ高校を受験して、高校一年で彼と同じクラスになれたことは、奇跡だと思った。
高校でも彼は、やっぱり目立つ存在で、早々に女子からの人気を集めていた。私はクラスで気の合う友達ができて、なかなかに良い高校生活をスタートできた。
そんな中で届いた、彼からのメッセージ。
『急でごめん。今から少し会えないかな。小さい頃によく遊んだ、丘の上の公園で待ってる』
長年空白だった彼とのチャット画面に、突然届いた彼からのメッセージ。中学一年の時にきたフレンド申請のあと、「よろしく」「こちらこそ、よろしく」でずっと止まっていた時が、3年越しに動き出した。
けれど、動き始めた時間は、それきり、永遠に止まってしまうことになるなんて、このときは思いもしなかった。
私服だからか、それとも夕暮れ時の公園というシチュエーションのせいかわからないけれど、今日の彼は、いつもと少し雰囲気が違って見えた。微笑んでいるけれど、いつもの無邪気なそれとは違う。どこか遠くを見ているような、とらえどころのないふわりとした笑顔。
「――あの時の返事、いらないって言われたけど、きちんとさせてもらえないかな」
「あの時って……中学の頃に告白した時のことだよね……あっ、あれはもう、気にしないで! 逆に、忘れてほしいし」
彼の顔から微笑みが消えて、夕日に半分照らされたその表情は、とても真剣だった。彼のまっすぐな瞳が、私を見つめる。
「おこがましいかもしれないけど、俺が君に返事をしないままでいたら、君がこの先、前に進めなくなることもあるんじゃないかと思って。……なんてかっこつけてるけど、ただ、俺がけじめをつけたいだけなんだ。気持ちを投げられっぱなしってのも、居心地悪くて――悪いな、こんなことに付き合わせて」
「……なんかそれって、まるでここから消えて、いなくなっちゃいそうなセリフだね」
彼は静かに笑った。
「入学してから三ヶ月経ったけど、最近どう? ちょっと遠い高校だから、俺の他に、同じ中学のヤツ、少ないだろ?」
彼が急に、そんなことを呟いた。
「うん、前の席の子がね、イラストを描く子で。好きな漫画とか、映画とか、趣味も似てて、とても話しやすいんだ」
「そっか、よかった」
私の答えに安心した表情を見せた彼は、穏やかに微笑み、手すりにつかまって夕日を眺めた。
太陽が地平線に溶け込んでいく瞬間、私たちの周りに静寂が広がった。
彼の視線は、地平線の向こうに身を隠す太陽に向かっていた。刻一刻と変わる空の色は、まるで今までの私たちの時間に終わりを告げるようにも、新しい何かが始まる合図のようにも見えた。私も彼の視線の先を追う。
「ここから見る夕日も、今日で見納めだな」
そう彼が呟いた瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。いつもと、どことなく雰囲気が違う彼に戸惑い、まるで大切なものが、この夕日と一緒に消えてしまうかのような、不安と恐怖が押し寄せてくる。
今日の彼を、何らかの形で残しておきたい――そう強く思って、焦り混じりに言葉が飛び出した。
「写真……撮っていいかな。夕日がすごく綺麗だし。あ、別に変な意味はないよ……いや、でも振られたのに写真だなんて、迷惑かな……」
言い訳を重ねる私に、彼は穏やかに微笑んで「いいよ」と頷き、夕日に背を向けた。その微笑みさえも、もう二度と見ることができないのではないかという気持ちが胸を締め付け、私は必死にスマホを取り出した。
夕日を背に微笑む彼を、スマホ越しに見つめる。
美しくて。
儚げで。
今にも消えてしまいそうな彼の姿が、そこにあった。
彼の胸元には、ペンダントが光っていた。彼はふと、そのペンダントにそっと手を伸ばし、指先で優しく触れる。
しずく型の青い小さな宝石は、彼が流した涙のように見えた。
ピアスやペンダントが似合いそうな雰囲気の彼だけれど、これまで一度も、そういったアクセサリーを身につけている姿は見たことがない。女性もののような気がしたし、その青い宝石が、彼の大切な誰かと結びついていることを確信し、胸が少し痛んだ。
彼がいてくれたから、私は今、ここに立っている。
中学の頃、彼の何気ない一言や笑顔にどれほど救われただろう。あの孤独な教室で、彼の存在だけが私を支えていた。
特別な関係になれないことはわかっている。でも、特別じゃなくても、彼はいつものように明るい笑顔を携えて、そこにいるのだと思っていた。
彼がいる日常が、永遠に失われてしまうかもしれないという不安が、私の心をかき乱していた。
そして本当に、
彼はその日を最後に、
この世界から消えてしまった。
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