あの日、さよならをくれた君へ
くみた柑
第1話
なんとなく、彼とはいつまでも、このままの関係でいられると思っていた。
どうしてそう思えたんだろう。
今日と同じ明日が訪れる保証なんて何もないのに。
彼と過ごす毎日に特別なものなんてなかったけれど、いつしか彼がいる日常の風景は、私にとって必要不可欠で大切なものになっていた。
彼女でも、ましてや友達でもない。
私達の関係を一言で表すなら……そう、ただの、
ある日突然、なんの前触れもなく、彼から初めて連絡が来た。
スマホの画面を二度見した。いや、二度見どころじゃなく、何度も確認した。どれだけ見直しても、画面に表示されているのは、間違えようもない彼の名前で。
最初は誰かの
でも、本当に彼だったら待たせちゃいけないと、慌てて気持ちを切り替えて。何が起こっているのかわからないまま、胸をドキドキさせて待ち合わせ場所に向かった。
そこで待っていたのは、間違いなく、彼だった。
彼の姿を見つけた瞬間、心臓が爆発しちゃうんじゃないかってくらいに、激しく鳴り出した。
うっかり、何かが始まる予感がしてしまった。
「ごっ、ごめん、遅くなっちゃって」
緊張で声がひっくり返ってしまって、赤い顔が、一層赤らんだ。
「いやこっちこそ、急に呼び出してごめんな」
彼は、いつも通りの、弾けるような笑顔でそう言った。
その笑顔の裏に隠されたものに気づくことは、この時の私にはできなかった。
ただ、平凡な毎日がここから変わる気がして、勝手に浮かれて、期待してしまっていた。
そんな無邪気な笑顔で、急に私を呼び出した彼が告げた言葉は――「さよなら」だった。
彼が待ち合わせ場所に指定したのは、丘の上にある小さな公園。
私達の住む街の一角が見渡せる。そこから眺める沈みゆく夕日がとても美しいことを、私達は小さい頃から知っている。
彼の背中で輝く夕日が、街全体をオレンジ色に染め、紫、そして深い青へと移り変わっていく。まるで私たちの関係も、その空の色のように、刻一刻と変わっていく気がした。
「ここから見る夕日も、今日で見納めだな」
彼が呟いた瞬間、その声は微かに震えた。
私は、胸の奥から溢れ出す得体の知れない不安を言葉にしたかったけれど、それらはすべて喉のあたりでつっかえて、結局そのまま彼の横顔を見つめることしかできなかった。
彼が最後に呟いたその言葉は――まるで明日、彼がこの世界から消えてしまうんじゃないかと思わせた。
昔、私達はよく、この公園で遊んだ。
まだ、私が彼と話すことに緊張なんてしていなかった頃。
私の方が彼よりも背が高くて、駆け足も早かった頃。
彼はよく、一つ年上の男の子と遊んでいて、私もその中に混ぜてもらっていた。
木登りをしたり、砂場でトンネルを作って水を流し、泥だらけになったこともあった。
今でも思い出せる、手のひらに感じたざらざらした樹皮の感触や、水に濡れた砂の特有の匂い。そんな小さな記憶さえも懐かしくて愛おしい。
あの頃の私達には、友達とか、恋愛とか、人間関係とか、そんな難しいことは一切なくて、ただ、目の前にある遊具で、木で、草で、花で、砂で、全力で遊んで、泥だらけになって笑っていた。
私たちはただ無邪気に、遊びという世界だけで繋がっていた。
小学校は2クラスしかない小規模校で、クラス替えも2年に一度しかない。彼とは3年生の時から、ずっと同じクラスだった。
人数が少なかったから、みんなが広く、浅く、友達みたいな雰囲気で、同学年の子の顔と名前は全て知っていたし、そういえば、新しい友達づくりというものを、小学校でしたことがなかった。
中学になると、一気に校舎が広くなり、7クラスに増えた。1クラスあたりの人数も増え、大規模校だった中学校に、私は気後れしてしまった。初めて出会う人たちばかりで、心細くてたまらなかった。
1年生のクラス分けで、私は運悪く、同じ小学校からの生徒が4人しかいないクラスになってしまった。けれどその少ない数の中に彼がいたことは、私にとって大きな救いだった。
大規模小学校から来た子たちは、もうすでに気心が知れた仲間と楽しそうに話していて、私はなかなかその輪の中に入る勇気が持てなかった。タイミングを逃すたびに、私はクラスの中で居場所を失っていく気がした。あっという間に、女子たちの間にはいくつかのグループができ上がっていて、私はそのどれにも属することができなかった。
クラス委員になった女の子に、連絡に便利だからと、クラスのSNSグループに誘われ参加したけれど、毎日そこで大量に流れていく会話には入れず、時々同意のスタンプを押すのが精一杯だった。
クラスのSNSを通じて、何人かの女子からはフレンド申請が来た。
けれど、どの子も「よろしくね」のあとの会話は続かなかった。
そんな日々の中で、数週間遅れて、彼からフレンド申請がぽつりと来た。彼の名前が表示されているその画面を何度も見つめ、彼との繋がりが、私にとってどれだけ大切かを実感した。特に会話をするわけではなかったけれど、「繋がっている」という事実だけで、私は少しだけ救われた気がした。
中学の制服に身を包んだ瞬間、小学校までの、誰とでも仲良く話せた私は、どこにもいなくなっていた。
女子ともろくに話すことができない私は、男子との会話などできるはずもなく、ただ、遠くから彼を見つめるだけの存在になった。
小学校の頃はあんなに楽しく話せていたのに、ただ制服を着ているというだけで、彼はとてもとても遠い存在のように思えた。
彼は持ち前の明るさとルックスで、誰とでもすぐに仲良くなっていたし、教室の女子だけでなく、他のクラスの、知らない女子からもよく声をかけられていた。私がクラスの片隅で静かにしている間も、彼は教室の真ん中でいつも笑っていた。
時々女子に呼び出されては告白をされていたようで、「私も告白してみようかな」「あの子も振られたみたいだよ」なんて噂をしている会話が、よく聞こえてきた。
昔から仲が良かった、一つ年上の男子がいるクラスによく遊びにいくからか、先輩からも告白されることは少なくなかった。
とてもモテるのに、特定の女子と付き合う気配がない彼に、女子たちが
彼は、誰のものにもならない。私の手の届かない場所にいるけれど、彼はずっと誰にも縛られず、自由なんだと思っていた。
彼のことを好きになったのは、いつからだろう。
明確に、彼を意識したのは、中学1年の2学期頃だった。
その頃の私は、嫌な夢をよく見ていた。
上履きを隠されたり、体操服を汚されたり、スマホのメッセージを通じて酷い言葉を投げつけられる夢。
夢の中で感じた痛みや悲しみは、まるで現実のように私を蝕んでいった。
実際には、誰からもそんなことをされたことは、一度だってない。SNSのチャット画面を何度確認しても、そこには空白しかなく、誹謗中傷なんて書き込まれていなかった。でも、誰からもメッセージが来ないという事実が、私がクラスで孤立していることを突きつけてくるようで辛かった。
クラスメートの笑い声が聞こえ、私に向けられたものだと思い振り返ると、誰も私を見ていない。その瞬間、夢の中で言われた陰口が蘇り、私の胸の中で感情がざわつく。現実と妄想が混じり合って、私を追い詰めていた。
どうしてこんな酷い妄想に囚われてしまうんだろう。ただ、自分から声をかける勇気がないだけなのに。
教室で誰かと目が合うたびに、私を貶める声が聞こえる気がして、心が擦り切れていった。
私は、自分は病気なんじゃないかと思うようになった。誰も何も言っていないのに、耳元で囁かれるような声が消えない。
そんな嫌な妄想に囚われていた頃、彼と視線が合う瞬間が増えた。それは、私が彼を見つめているからなのかもしれないけれど。
彼は私と目が合うたびに「おはよう」「元気?」と必ず一声かけてくれる。そのたった一言が、私にとってどれほど大きな支えになっていたか、きっと誰も知らない。
彼が同じクラスにいてくれたから、悪夢のような妄想と戦い、孤立して居場所のない教室に、毎日通うことができたのだと思う。
彼が私の存在を認めてくれている。それだけで私は、少しだけ強くなれた気がした。
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