第20話:炎狼王
その雄叫びは、心の芯を揺るがすほどの迫力だった。
ロコは震えるという生理的な現象さえも起こせないほど、身体が強ばった。
それはポーラもカカムスも同じで、まるで凍ったかのように身体が固まっている。
唯一、サモスだけは震えながらも剣と盾を構えなおす。
だが、動けるようには思えない。
「早く逃げろ!」
「し、しかし――」
「馬鹿者!」
サモスの反論をコルマンが一喝する。
「今の威嚇だけで十分わかっただろう! おまえたちに魔王の相手は無理だ!」
その通りだ。
人の身長の3倍ぐらいの高さにある、大きな牙を覗かせる顔を見ているだけで身の毛がよだつ。
ロコは、まともにその姿を見ることができない。
しかし、コルマンはその魔王の顔を睨んで、牽制することを一瞬たりともやめていない。
そして魔王の方も、コルマンをかなり警戒していることがわかる。
(これが本当の……)
キャンプ場のワークショップで、さんざん魔王と戦った。
しかも、十二魔王の中でも三強に数えられる魔王相手にである。
最初は怖かったが、そのうち「魔王だから」と恐れることはなくなった。
だからもう、魔王と対峙しても恐れることはないと思っていた。
だが、違った。
ティーアは、まったく本気など出していなかったのだ。
たぶんティーアから感じた迫力は、彼女にとって指1本分ぐらいの気合しか入っていなかったのだろう。
しかし、目の前の【炎狼王】と呼ばれる魔王【フーエル・リール】は、むき出しの殺意をこちらに向けてきている。
まだ若い、十二魔王の中でも弱めの魔王だと聞いていたが、それでもその力は他の魔物と段違いである。
魔王の横には、羊のような角が生えた狼たちが横並びになっている。
その子分の数は、10や20ではすまない。
さらに周囲を囲むようにいる狼の魔物達も含めれば、200ぐらいはいるのではないだろうか。
全盛期の伝説的救世主ならばまだわからぬが、今のコルマンは救世主として引退を自ら決めたぐらいの老体だ。
これだけの数の魔物と魔王を相手にして、体力も精神力も保つわけがない。
(無理……死ぬ……)
確かに自分たちが生き残るなら、コルマンが魔王の相手をしている間に、後方から強引に包囲網を突破するしかないだろう。
子分ぐらいならば、ロコたちでも斃せることは実証済みだ。
数によっては難しいが、少なくとも勝機はそこにしか見いだせない。
「サモス様……」
ロコはサモスに伺いを立てる。
ロコは死にたくなかった。
まだまだやりたいこともある。
いつかは恋愛して家族をもち、父と母を国の中心である王都へ呼んで一緒に暮らしたい。
そう思っていた。
だから、逃げたかった。
いや、ここは逃げるべきだ。
でも、違う答えを求める自分もいる。
正義とか使命とかを大事にする自分。
しかしそれは弱々しく、その答えを口にすることもできないでいる。
そんな弱い自分が、逃げたいと強く思う自分を責めるのだ。
「サモス様、どうしますか!?」
だから、ロコはその責めから逃げるために、責任をサモスに押しつけたのだ。
聖人級であるサモスが「逃げる」と言えば、それに従うのは仕方がないことなのだ。
自分が逃げたくて逃げるわけではない。
自分が悪いわけではない。
これは命令だから……。
「やっぱり公爵は、オレたちに盾になれとは言わないんですね」
「当たり前だ。おまえたちでは盾にさえならん。それにサモス、おまえはこれから伸びる! いずれ救世主に届くかもしれぬ。この老体がその礎になるなら、それこそがエルミカーナのためになろう! これがわたしの救世主としての最後の責任!」
「…………」
コルマンの言葉は、ロコに刺さる。
だが、まだ弱い自分を奮い立たせることはできない。
「責任か……。わかりました。正面の小物をオレたちが斃します!」
ロコは、サモスの言葉に驚きながらもその姿を見た。
彼の身体に震えどころか、怯えも見えなくなっている。
「馬鹿者! おまえたちは逃げろと――」
「今からなら、正面の敵を叩いて包囲網の外にでた方が確実だ! 公爵と魔王との戦いで隙もつきやすいし、魔王の裏側をとれれば勝機もある!」
力強く言い放つと、サモスがロコたちに視線を向ける。
「おまえたち、いいな。魔王の攻撃に注意しながら、正面の小物だけを斃す!」
「で、でも……」
「そして包囲網から抜けたら、森を抜けておまえたちはそのまま逃げろ! 早くしないと森が燃えて逃げ道もなくなるぞ!」
「――えっ!?」
驚くロコたちに、サモスが柔らかく笑った。
こんなサモスの顔は初めて見る。
「オレは権威ある聖人級だ。なら、公爵も言ったとおり責任もあるってことだ。おまえたちが逃げる時間稼ぎに、なるべく小物はオレが始末し追跡を阻む! もれた小物は自分たちでなんとかして逃げろ!」
その雄々しく告げる姿は、荒々しく身勝手なふるまいばかりしていた数日前のサモスではなかった。
まさに英雄と、救世者と呼ぶにふさわしい立ち姿をしている。
「ふっ。やはりサモス、おぬしは生きのびるべきだ。そのためにわたしも全力を尽くそう!」
コルマンが剣を頭上にあげた。
「応じよ、マスターブレード! マスターシールド!」
コルマンのもつ剣の刃が、虹色の光に包まれる。
さらに左手の甲のあたりから、同じように虹色の光が広がり楕円形の盾を象った。
それはロコとて聞いたことがある、コルマン公爵家に伝わるという神の武具【マスターシリーズ】。
「神術【王剣の従士】!」
そして、コルマンの力の真骨頂。
彼の持つ虹色の剣と盾が、彼の周囲の空中に6セット現れる。
魔王が前足を振りあげ、その鋭い爪でコルマンを薙ぎはらおうとする。
だが、宙に浮いた3セットの剣と盾がそれに反応。
盾は爪を受けとめ、剣はその腕を刃で受けとめた。
しかし、その刃で腕を斬り落とすことはできない。
厚い毛皮を切り裂いたぐらいだ。
そのままコルマンは、宙に浮く刃で腕を切り裂こうとするが魔王の動きも速い。
さっと身を退き、少し後ろに下がる。
だが、そこに残りの3セットの剣と盾が襲いかかる。
その動きはまるで自らの意志でもあるかのように、魔物に襲いかかる。
魔王側も黙ってやられているわけではない。
コルマンに狼の魔物が襲いかかる。
サモスが反応して、その狼たちを斬り伏せる。
もちろん、ポーラもカカムスもワンテンポ遅れながらも対応した。
ロコも慌てながらも、全員に神術【守りの風璧】を使って敵の攻撃を通りにくくする。
魔王の身体にまとう炎が引火し、森の一部が燃え盛っている。
コルマンが魔王と戦っているのだから当然の結果だ。
これでは森全体が火の海になるのも時間の問題である。
「ちっ! 森の東側から回れ! あっちなら木々も少ないはずだ! うまくすれば炎にまぎれて逃げやすいはず!」
確かに狼たちの追跡も、この火と煙を上手く使えば振りきることができるかもしれない。
だが、それは同時に自分たちの逃走の妨げにもなっている。
あまりに炎が広がれば、逃げることさえままならない。
見れば、魔王は口から火焔の息吹を吐きだしている。
宙に浮く6枚の盾と手にする盾でコルマンはその息吹を押しとどめているが、延焼は広がるばかりだ。
「背後の狼たちがもう合流するぞ!」
カカムスの声と同時に狼の群れが畑の向こうから現れた。
用心深く包囲網はかなり大きくとっていたことが、こちらとしては幸いしたが、もう時間切れというわけだ。
「一気に焼き尽くす! 公爵、こっちに!」
「うむ!」
ロコも仲間達もサモスが何をやるかすぐにわかった。
彼の最大の神術である範囲攻撃をやるつもりだ。
確かにアレならば、周囲を取り囲む狼たちを一網打尽にできる可能性がある。
「神術【
全員が一箇所に集まった瞬間、サモスは術を行使した。
周囲に炎の柱が立ちあがり、それが巨大な炎の壁に変わる。
襲いかかろうとしていた狼の群れをその炎の壁が呑みこむ。
それは今まで見た中で、最大の火力と範囲を誇った。
響く狼たちの断末魔。
巻きこんだ森の木々も燃えさかる炎を上げる前に炭と化す。
「まじかよ……」
ポーラがこぼす。
子分である狼の魔物は、半分ほど減らすことができただろう。
しかし、やはり問題は魔王だ。
魔王はダメージを受けるどころか、身体にまとった炎がむしろ勢いを増していたのだ。
魔王の舌なめずりしたあとの口角がクイッとあがる。
その顔は、炎を取りこんで歓喜しているかのようだ。
「くっ……」
サモスが力が抜けたように片膝をつく。
たぶん神術で神氣をほとんど出し切ったのだろう。
気を失う寸前に見える。
「サモス様! 今、神氣を――」
「――いらねぇ!」
ロコが差しだそうとした手をサモスが払う。
ロコは相手に触れることで自分の中にある神氣を分け与える神術をもっている。
それを使うことをサモスは拒絶したのだ。
「オレはいいからおまえたちは逃げろ!」
「逃げません! 少なくともあなたをおいてはいけません!」
もうその時には、ロコの心も決まっていた。
先ほどまで弱々しかった自分が、雄々しく心を支えてくれている。
「私はサモス様担当の巫女姫です。あなたをサポートするのが役目。見捨てることなどできません!」
恐怖はまだあった。
しかし、サモスとコルマンからもらった勇気が優っていた。
自分が成すべきことを最後まで成し遂げるだけだ。
「あたしも残るよ。逃げるよりその方が生き残れそうだしね!」
「オレもだ。今さら見捨てることはできん!」
自分たちを取り囲みつつある生き残った狼たちを牽制しながら、ポーラとカカムスが力強く言い放った。
全員の心が決まった。
ロコはサモスを回復する。
ポーラとカカムスは襲いかかる狼を打ち斃す。
それでも手が足らない分は、コルマンの剣と盾が2組、そちらの援護に回った。
そのせいで、コルマンは魔王に押され始める。
剣と盾の6従士は、そろって魔王の力と均衡していた。
しかし、その均衡が崩れてコルマンが押され始めてしまう。
彼は魔王に踏み潰されそうになったり、吹き飛ばされたりしながらもなんとかその場に留まっている。
「――公爵!」
そして、ついにコルマンの動きが止まった。
剣を地面に突き刺して杖代わりにし、なんとか膝をつかずにいるが、そろそろ体力的にも限界が近いようだった。
ポーラもカカムスも、サモスもロコもすでに多数の狼たちに傷つけられている。
限界は近い。
魔王【フーエル・リール】が前脚を伸ばし、後ろ脚をかるく曲げる。
そして、魔氣による炎が全身を包む。
離れていても伝わってくるほどの高熱。
たぶん、あの身体に弓矢を打ちこんでも刺さる前に燃え尽きてしまうのではないだろうか。
「突っこんでくるぞ! 避けろ!」
コルマンはすべての盾を前方に並べる。
しかし、あの巨体を使った全力の体当たりを止めることはできないだろう。
だからと言って、コルマンはもう跳び避ける体力もない。
「くそっ! ロコ、オレに風壁をかけろ!」
神氣がある程度まで回復したサモスが、剣先を魔物に向ける。
「無茶です! 突っこむ気ですか!?」
「脚を狙えば勢いを殺すことぐらい! 早く!」
サモスもそれが無茶だということは百も承知のことだろう。
たぶん、ここでみんな死ぬ。
それでも最後まで、少しの可能性でもつかみ取ろうとしている。
〈人間、獲物にしては粘った〉
魔王からの【交心術】が頭に届く。
〈だが、おまえたちは獲物。もうあきらめて狩られるがいい〉
それは実質、死の宣告だった。
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