第2話 錆びた歯車みたいな生活 後編

(相変わらずうるさいよなぁ)



 会社の中から、プレス機や切削機械の稼働音が漏れ出ている。周囲は工業団地で、多種多様な工場が建ち並んでいるのだが、その中でも一際大きな音を響かせている。


 都市から少し離れた立地にある、歯車を製造する中規模工場。そこが男の勤める会社だ。



(周りからは活気のある工場だと見えてるのかな)



 そんな愚にもつかないことを考えながら、守衛さんにお辞儀して、玄関をくぐる。


 最初の向かうのは職場ではない。作業服に着替えるためにロッカー室へ向かう。


 道中、他の職場の先輩とすれ違って「よっ」と声を掛けられた。



「お、スーツ姿は珍しいな。外出か?」

「あ、はい。例のトラブルのせいで――」

「あぁー。お前も大変だな」



 軽く言葉を交わしたら、すぐに別れる。少し長いが、挨拶みたいなものだ。


 ロッカー室に入って、ほとんど無意識に自分のロッカーの前まで移動する。



二枝ふたえだはじめ



 男――ハジメは自分の名札が掛けられたロッカーを開けて、クシャクシャに丸められた作業服を取り出す。作業服に染み込んだ切削油特有の不自然な臭いを感じながら、着替え始める。



(なんか少し得した気分になる)



 普段はむさくるしい男がひしめき合っているロッカー室だが、今はハジメ一人だけだ。プールを独り占めしたような解放感が味わえて、自然と口がニヤけてしまう。


 しかしすぐに少年のような心は消え去って、汚い悪知恵を思いつく。



(ずっとここにいれば、サボっててもバレないんじゃないか?)



 ハッと気づいて、ブンブンと頭を振ることで邪念を振り払う。



「よし、頑張らないとなぁ」



 さっさと作業服に着替え終えた後、バタン、とロッカーを勢いよく閉めて、気合を入れ直す。


 ロッカー室を後にして、自分の職場へと向かう。重くて冷たいドアノブを回して、中に入る。



「只今戻りましたー」



 ハジメが挨拶をしても、誰も反応しない。モニターに向かい合ったり、電話を受けているだけで、同僚に全く関心を示していない。



(これがこの職場の雰囲気なんだけど、なんだかなぁ)



 仕事はつらいし、真面目にこなすものだ。それがハジメの上司の口癖だ。その考え方は職場中に伝播していて、常にピリピリとした空気が漂っている。

 そのせいで、会社の中でも最も冷たい部署だと言われている。



(笑わないし、ずっと切羽詰まってる。真面目って、それでいいのか?)



 なんだか釈然としない気持ちを抱えながらも、ホワイトボードの『外出中』の文字を消して、自分の席に座る。


 すると早速、隣の席から声が掛かってくる。



「お疲れ様です。先輩」



 いきなり中世的な顔がのぞき込んできて、ハジメは思わず上体を反らしてしまう。



「どうしたんですか?」

「いや、何でもないよ。疲れただけ」



 不思議そうな顔を向けられて、ハジメは訝し気な視線で返す。



(本当、アイドルにいそうな見た目だ。どっちでも・・・・・



 リスのように愛嬌溢れる目元に、大きな瞳。まつ毛は長くて、肌は白すぎることなく健康的な色だ。


 髪型はボーイッシュなショートだ。赤茶色の毛がクセ毛でくるくるカールしていて、愛くるしい雰囲気を醸し出している。


 そんなテレビから飛び出してきたような顔をずっと見ていると、照れ恥ずかしい気分になって、自然と視線が下に向いてしまう。


 すると、平坦な胸部につけられたネームプレートが目に入る。


 『村木むらきりつ』と書かれている。

 まだ一年半しか使っていないピカピカの新品だ。


 服装は会社指定の作業服だが、上は女性用のシャツ、下は男性用のズボンをそれぞれ着ている。「これがボクには一番合ってるんです」とは本人の言葉だ。

 実際、周囲のおばさんおじさんには評判がよくて、規定外の服装を黙認されている。


 一応女性であるが、女性として扱いすぎると怒り出すという難儀な性格をしている。


 体格は華奢で、身長は小柄だ。

 だけど不健康で痩せているというわけではなく、骨格から細いという印象だ。


 後輩――リツは人好きのする笑みを浮かべながら、話を広げ始める。



「いやぁ、災難でしたね。まさか営業の人が交通事故に遭うなんて……」

「そのせいで一人で行く羽目になったけど、流石に責められないしなぁ」



 ハジメの勤める会社は、金属の歯車製造を専門とするBtoB(ビジネストゥビジネス)の会社である。


 その中で、ハジメは設計兼雑用をしている。設計と言っても、製品そのものの設計ではなく、治具やプレス型などの設計をしている。


 他には外注メーカーとの調整や取引相手からの技術的な問い合わせに対応などをしている。


 そして、都合のいい存在として、様々な雑用も押し付けられることもある。今回の外出もその一つだ。


 不良品を納品してしまって、お客様に謝罪・説明・調整のために駆り出されたのだ。



(まあ、ここまではよくある話だ。営業の人は事情に詳しくないし、現場の人を使うと直近の納期に影響するし)



 更なる事件は、今朝に起きた。


 同行するはずだった営業が交通事故に遭ったのだ。幸い命に別状はなかったが、到底出社させるわけにはいかない。急遽代理の人間を決めるべく小さな会議がひらかれた。


 そして、上司のいきなりの「こいつなら一人でも大丈夫ですよ」発言である。

 周囲の人たちには反対する理由なんて微塵もなくて、会議は一瞬で終了した。

 上司の皺ひとつないハゲ頭はテカテカ光る中、ハジメは頬をヒクヒク引きつらせることしかできなかったのだ。



「何とかなったから良かったけどさ。不運な事故に遭ったことで温情をもらえた」

「よく信じてくれましたね。当日に事故に遭った、なんて話」


 

 ハジメは少し弾んだ声で答える。



「ちょうど事故現場を目撃していたらしい。被害者までは知らなかったみたいだけど」

「それは……すごい偶然がありますね」

「運がいいんだか、悪いんだか……」



 実際に事実を口に出してみると、凄く損した気分になって、だらんと項垂うなだれた。


 でもすぐに上司からの鋭い視線を感じて、背筋を伸ばす。



「さて、仕事仕事っと」



 わざとらしく呟きながら、真剣な仕事モードに切り替えて、リツに向き直る。



「お願いしてたやつ、ちゃんとやっておいてくれた?」

「どうですか。今度こそは自信がありますよ」



 リツが自信満々に胸を張りながら渡す図面を受け取る。


 その図面を見た瞬間、思わず「はぁ」とため息が漏れる。


  

(明らかに入社一年半の時のオレより出来がいいよなぁ)



 ハジメは特段覚えがいい方ではなかった。何事も覚えるのに時間がかかるし、ケアレスミスだって多い。それでも着実に知識を得て、失敗を一個一個減らしていって、やっと一人前になり、後輩の教育も任されるようになった。


 それに対して、リツは呑み込みがよくて、ミスも非常に少ない。ハジメが凡人だとすると、リツは天才や秀才と言えるだろう。


 しかも見た目がよくて、愛嬌も持ち合わせている。現場との交渉は、ハジメよりもリツが話を通し方が円滑に進むことだってある。



(オレが勝っているのは、勤続年数ぐらいかな)



 思わず、図面を持つ手に力が入ってしまう。でも――

 

 

(まあ、楽できるからいいけど)



 ハジメは後輩に嫉妬するだけのプライドを持ち合わせていなかった。温厚と言えば聞こえは無いが、向上心が全くない自堕落者とも言える。


 確認欄にシャチハタ印を押し、リツに図面を戻す。

 


「問題ないから、課長に承認をもらってきて」

「ありがとうございます! 了解らじゃーです」


 

 滞りなく承認印をもらってきたリツが戻ってくると、ちょうどチャイムが鳴った。


 午後の休憩時間だ。


 現場では定時に一斉で15分ほどの休憩をとることになっており、デスクワークの部署もそれにならっている。

 


「先輩、趣味とかないんですか?」



 リツから訊ねられて、ハジメは目線を左上に向けて考える。自分の最近の生活を思い起こしても、趣味と言えるものが思い当たらない。だから――



「強いていうなら、寝ることかな。家ではそれぐらいしかしてないし」と苦し紛れに答えるしかなかった。



 リツはわざとらしくため息をついた後、芝居がかった動作でヤレヤレと肩をすくめた。



「それは無趣味と一緒ですよ」



 後輩にビシャリと言い切られて、ハジメの眉は八の字に曲がった。



「他のことをする暇がないからなぁ。仕事をするための体調管理を考えると」



 家に帰って、飯を食べて、寝る。それだけで仕事以外の時間は終わってしまう。

 休みの日に何かしようとしても、気力が湧かなくて惰眠を貪るだけで精いっぱいだ。



「先輩はこの仕事を嫌いなのに、なんでそんなに打ち込むんですか?」



 今度は迷うことなく答える。



「そりゃ生きるためだ」

「それは本当に生きてるんですかね」



 リツの返しに対して、ハジメはしかしながら袖をまくり上げる。



「脈でも測るか?」

「生物学的な話じゃないですよ。もっと哲学的な話です。後、訊ねる前から腕をまくらないでください。毛むくじゃらすぎて目の毒なんですよ」

「ひどいなぁ」



 ハジメは頬を膨らませながらも、ゴリラのように毛深い腕をしまった。生まれつき毛が多いのだ。



「ボクはこの仕事、なんだかんだで楽しんでますよ」

「それはそれは羨ましいことで」とハジメが皮肉を言うと

「先輩のおかげなんですけどね」とリツがさらりと言い放った。



 目を見開いて後輩の顔を見る。すると、すごくニヤニヤ顔が視界に映る。



(こいつ、からかってるのか……!)


 

 すごくイラッと来て、ハジメの眉はヒクヒクと痙攣けいれんした。



「だったら、早くオレに楽をさせてくれ」

「おっさんを通り越しておじいちゃんみたいですね」

「おい!」



 限界が来て軽く怒鳴ると、リツは愉快そうにコロコロ笑った。

 その顔があまりにも無邪気で、怒りがスーッと引っ込んでしまう。



「それよりも、ですよ。どうですか。新しい趣味としてVTuber鑑賞なんては。知ってますか?」

「んー、まあ、一応は。最近よく見るヤツだよな」

「そうです。その中でもオススメな人がいるんですよ」と言いながらスマホを操作して「リンクを送っておいたので、見てみてください。絶対にですよ」と


(なんか今日は強引だな)



 不思議に思いながらも、リツから送られてきたメッセージを確認する。URLをタップすると、動画サイトに飛んで、アニメ絵のキャラクターが表示される。

 まるで織姫みたいな和風な恰好をしているけど、金髪碧眼で日本人には見えない。瞳の中にはキラキラ光る星がちりばめられている。

 頭には雫の形の髪飾りをつけていて、常に冷や汗をかいているみたいに見える。


 自然とチャンネル名を確認する。



一星ひとつぼし雨魂あめたま……?」

「面白い名前ですよね。愛称は〝メタマちゃん〟です」

「へー。かわいいじゃん」



 ハジメが感嘆すると、リツはここぞとばかりに鼻息を荒くする。



「織姫が転生した美少女アメリカ人が雨の日に誰かに殺された結果、復讐を誓いながら彦星を探しまわっていたところ、日本の文化に染まってしまった、という設定だそうです」

「どんな設定だよ……」

「まあ、VTuberの設定なんてフレーバーみたいなものですよ。実際にきっちり守ってるライバーはほとんどいません」

「身も蓋もないなぁ」


 

 ハジメが呆れていると、リツの口調がヒートアップしていく。



「それもアジってやつですよ。ロールプレイが崩れるまでワンセットです。都合のいい時だけ設定を出してくるのも面白いです」

「へー、ちょっと面白そうかも」 



 話している内に興味が湧いてきて、少し配信を覗いてみようとした瞬間だった。



「おい、お前らさっきからうるさいぞ!」



 上司の怒号が飛んできて、二人は飛び上がった。



「もう休み時間は終わったぞ! それと、二枝は先方との調整内容をさっさと報告しろ! この後の会議で報告するからな!」

「はーい。わかりました」



 間抜けな返事をしながら、年寄りのようなゆったりとした足運びで向かう。



「もっとシャキッと来い! お前は昔からそうだ。嫌なことを後回しにするんじゃない。さっさと報告しろ」

「へい。すいません」

「へい、じゃねえんだよ。お前はいつも……」



 グチグチと言われながらも、報告を済ませて、作業に戻る。


 しばらく集中した後、画面端の時刻を確認すると、16時を過ぎていた。



(この調子なら今日は残業する必要はなさそうだ。そんなに急ぎの仕事は無いし)



 自然とタイピングをする手も軽やかになって、タタタと高速で打ち込んでいく。


 徐々に明るい気分になってきて「週末に久しぶりにラーメンでも食べに行こう」と捕らぬ狸の皮算用を始めた。

 その矢先だった。

 


「大変だ!」



 現場の人が、血相を変えて駆け込んできたのだ。それだけで、事態の深刻さをひしひしと感じられる。

 まだどんな状況かはわからないが、工場全体で対応しないといけない事態なのは想像にかたくない。



(あぁ、楽しいなぁ! 楽しいなぁ……はぁぁ)



 機械油の臭い漂う職場で、ハジメの頭はドロドロの油に浸ったみたいに重くなっていったのだった。


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