18・未来に至る道(2)
マーシスが夕食を終え、入浴をすませてもサーフィルは姿を見せず、珍しいこともあると思って北宮の自室に入ると、ベッドの上で青い竜が丸くなっていた。
竜の姿をとっているのも久しぶりだ。膝の上にのせられそうな大きさの竜が、広いベッドの上で小さくなっているのが少しおかしい。すねた子供のようだが、これは本当にすねていじけて丸くなっている。
「ヨウグたちの説教はこたえたか」
ベッドに腰かけ、マーシスは丸くなったままの竜の背を撫でる。宰相と外相の説教二重奏は自分でも避けたい。
「……なんであいつらがあんなに言うのかわからない」
目を閉じたままサーフィルは言う。
「客との話の途中だったのは悪かったと思う。――でもそんなに特別な相手だったら先に言ってくれれば俺も後に話したし」
「そうだな、きちんと謝罪もしたしな」
サーフィルにしてみれば、ゴーチェが来るという吉報をなにより早く伝えたかっただけだろう。多少間は悪かったかもしれないが、吉報を伝えてなにが悪い――というところだ。
今回の失敗は、あえてサーフィルになにも言わなかったことにある。席を外させるのであれば理由から説明すべきだった。
「あそこにいたのが王妃の候補で、彼女がお前に一目惚れしなければ、そこまで説教も長くならなかっただろうがな」
「――そうなのか?」
当人ならぬ当竜はこれだ。他人からむけられる感情に興味がない。これでは惚れたほうも惚れ損というべきだが、この竜の世を忍ばぬ姿は出来がよすぎた。
「それであいつら怒ってたのか? 誰に惚れてようが王妃になれるもんじゃないのか」
ようやくサーフィルは目を開ける。
「そうと割り切れるものならいいが、こればかりはその人次第だから。……でも彼女は無理だろう」
表情を見れば一目瞭然だ。強烈な恋は理性を奪う。
「そもそも王妃ってなにするんだ」
「王の配偶者だな」
撫でる手を止め、ベッドにあがりながらマーシスは答える。
「次の王を産める人で、王になにかあった場合、王に代わって物事を決められる。そういうものだ」
しゅるりとサーフィルが体をのばす。二度ほど翼を動かしてから、ぱたぱたと歩いてマーシスの横に来た。
「……マーシスが産めばいいんじゃないのか」
「わたしには無理だ」
「なんで?」
ふっと一つの考えが浮かんだ。ひらめきというよりは、納得に近いが「嘘だろ?」という驚きからのものだ。
「……サーフィル。お前、人間が卵で産まれてくるとか思ってないよな?」
「さすがにそれはない。小さな赤ん坊で生まれてくるんだろ」
「そうやって産むのが女性だってことには気づいていたか?」
サーフィルの首が傾く。竜の姿でも表情でわかる。
「女だけでも男だけでも子供は産まれない。――が、子供を産むのは女性だ」
――ということをサーフィルは知らずにいたらしい。「外見が違うだけじゃないのか」とこちらを見て口を開けている。
「ひょっとして男女の違いもあんまりわかってなかったのか」
「仕方ないだろ。竜に雄も雌もないんだから」
今度はマーシスが驚く番だった。こちらはサーフィルは男、というか雄だと思いこんでいた。
「じゃあ竜はどうやって卵を産むんだ」
「増殖期になったらひとりで産むぞ」
「それはそれで……すごいな」
言われてみれば竜は竜だ。〝雄らしい〟とか〝雌らしい〟外見があるかといわれればそんなことはない。雌雄の別のつきにくい動物も世の中にはいるが、それでも雌雄自体はある。雌雄そのものがない動物というのはマーシスも聞いたことがない。
そういえば、とサーフィルが頭を上げた。
「復興の手伝いに行ったとき、働いてる男のところにいつも同じ女が会いに行ってたな。血のにおいが違うから家族じゃないのにと思ってたやつだ。それか」
「夫婦か恋人かわからないが、家族でなければその可能性が高いな」
そうやって人を観察はできているのに、そこから先には考えが進まなかったらしい。前提の知識がなかったがために。
思い返してみれば、サーフィルは人間の夫婦というものをほぼ見たことがないはずだった。一番近いところにいる自分はこうだし、自分の親は故人だ。他に近しいというならオーシャやヨウグ、ノンディだろうが、ヨウグは妻と死別しており残る二人は独身だ。
マーシスもオーシャも、人間には家族というものがあることはサーフィルに教えたが、中身までは詳しく教えていない。実年の割に頭がいいサーフィルに、誰もがいちいち説明せずにきたのだ。
顎をベッドにつけ、サーフィルがつぶやく。
「……お前の子供を産むのは誰でもいいわけじゃないのか」
「国のことや政治のことがわからない女性を、わたしの代理にするわけにはいかないだろう?」
オーシャとも似たような話をした。王妃とは王の妻であり、次の王の母である。
「それに『次の王にはこの人がついている』と、人々が納得できるようなものをもっているほうがいい」
妻の家、外戚はしばしば王の敵になることもあるが、味方につければ頼もしい力にもなる。
「……王妃というのは絶対いないとだめなのか?」
「絶対ということはないが、わたしの場合は他の王族がいないというのが大きいな。伯父上たちとしては『早く世継ぎを!』というところなんだろう」
ぱたぱたとサーフィルの尾が低く左右に動いている。竜の姿で考えごとをしているときによくする動きだ。
「なら、今回の相手とうまくいかなくとも、ヨウグの爺さんはあきらめなさそうだな」
「まあ二三回ではあきらめないだろうな、ヨウグは」
ノンディはともかく、血縁のヨウグはまずあきらめないだろう。妹の忘れ形見に家族を、と政務以上にはりきりかねない。
マーシスはサーフィルの横に寝転ぶ。
嫌だな、と尾を止めサーフィルがつぶやいた。
「なにが嫌なんだ?」
「お前の横に、ずっと俺以外の誰かがいる」
「別に一日中ずっと一緒だとはかぎらないぞ。それぞれも仕事もあるし。父上と母上もそうだった」
「――でもやっぱり気に入らない」
ふっとマーシスの視界が暗くなる。
自分の上にサーフィルがのしかかっていた。竜の姿から人の姿に変わったのだから当然裸だ。
「俺以外がおまえの一番としてお前の横にいる。それは嫌だ」
「――人の姿でのっかるのはやめろと言ったろ」
それでもサーフィルは戻らない。こちらをまっすぐ見つめたまま、予想もできなかったことを言ってきた。
「俺が王妃になるのはだめか」
「――は?」
いきなりなにを言いだすのだ、この竜は。
ひょっとして、さっきから考えていたのがそれなのか。
「立場……はよくわからないが、お前の代理ならもうやった」
「代理といえばそうだろうが、いくらなんでも〈王子〉が妃というのは聞いたことがない」
「――そうか」
ようやく目をそらしたが、サーフィルはあきらめたわけではなかった。
一瞬視界に映るものが揺らいでにじんだ。そのすぐ後に。
「雌のほうが、後継ぎが産めるほうが都合がいいんだな」
続いた声がいつもより高い。首が少し細くなったせいだ。その先の肩も肉が落ちて線が柔らかくなり、ベッドについた手も細くなっている。
そんな両腕のあいだに張りのある豊かな乳房が垂れていた。その陰になっている腰も自分が覚えているよりもずっと細いものになっているはず。
初めて会う相手をことごとく一目惚れさせるような美青年が女になればどうなるか――そのわかりやすい答えが至近距離にある。絶世の美女となって。
「これなら問題ないだろ」
とのたまうサーフィルの髪の色も瞳の色もいつもと変わっていなかったが――マーシスは頭の中が真っ白になっていた。
見えているのがなにかはわかる。わかるが、そこから先に思考が進まない。今なにが起きているのか。
昔似たようなことがあった。あれはサーフィルが最初に竜になったときだ。肌のにおいは変わらないのにこんなに姿が変わるのか、顔つきも一瞬で変わるしどうなっているのか。そもそもいつ女性のこんな姿を見たんだ、そんな機会がこいつにあったのか――。
思考の空白を埋めるよう、一斉にいろんなことが浮かんで押し寄せてくる。自分でもわけがわからない。
はなはだしく混乱したマーシスの口から出た言葉は。
「――出ていけ」
言葉の意味がわからない、というようにきょとんとしているサーフィルにむけ、「聞こえなかったか?」と重ねる。
サーフィルが体を離した。小声で何事かを言っているのはわかったが、なんと言ったのかまでは聞き取れない。
そのまますっとベッドからおりたサーフィルが、扉まで走りだす。せめて竜の姿に戻れ、とマーシスが声をかける間もない。
扉の前でサーフィルは足を止めた。半身を起こしたマーシスのほうへふりかえって言う。
「マーシスなんて大嫌いだ!」
震える声で言うが早いか、サーフィルは出ていった。全裸の美女のまま。
マーシスは長すぎる息を吐いてから、さらに二度ほど深く呼吸する。そうしてようやく頭が回りだしてきた。
――なにやってるんだ。
サーフィルの提案から目の前に思いもかけない美女が現れたことで頭が真っ白になり、ついて出た言葉があれなのは――自分でもわけがわからない。他にも言いようはあっただろうに。
しかもだ。
――あいつ……泣いてたな。
長いつきあいだが、サーフィルが泣くところなど見たことがない。泣くぐらい衝撃を受けて言うのが「大嫌い」なあたりがどっちもどっちというか。
――まるで子供の喧嘩だ。
サーフィルは人の姿こそ成人だが、孵化から十年もたっていない。実年を考えれば子供の喧嘩じみたやりとりがあってもおかしくはない、のだけれども。
この場合はそれに同等で返した自分が悪い。
慣れ親しんだものと違うサーフィルの姿に衝撃を受けている、そんな自分自身が衝撃だった。なにがそんなに衝撃だったのか自分でもわからないくせに、まだなお思考が乱れるくらいには強烈で。
「……なにやってるんだ、本当に……」
思わず出た声にも力がない。
ひどい――いろんな意味でひどい夜だった。
※
朝になってもサーフィルは戻ってこなかった。
いつもより広いベッドで落ち着かないまま起きると、王の従者たちとともに部屋にやって来たソレイルが「なにかございましたか」と不安げに訊いてくる。
「少し寝つきがよくなかっただけだ。いつもと変わったことはあるか?」
聞けば珍しい訪問者が来るという。
「オーシャ様から、〈竜の友〉が来るからと」
「ゴーチェか」
着替えつつ、マーシスは懐かしい顔を思い浮かべる。
「昼前くらいに見えられるということでしたが」
「わかった。来たらいつでもわたしの執務室に案内するよう手配してくれ」
さっと仕度をすませて朝食をとり、南宮の執務室に入って急ぎの案件を片付ける。一番急ぐ案件は、早朝に山脈の向こう側で起きた隣国の崖崩れへの援助だった。位置的にあちらの首都よりナクルの村のが近く、助けを求めた者がいたのだ。
食料と医師を手配し、近衛に入った竜人兵十二人に運搬をになわせることにした。出先で食糧が要らず、膂力は工機代わりになる。現地に人を送ると同時に隣国の王に送る親書を書き、署名をしてノンディに渡してもらうようソレイルに託す。
続けてマーシスは復興中の南部の報告書を読む。こちらは順調のようで胸を撫でおろしていると、ノンディのところに行ったソレイルが戻ってきた。
「陛下。御客様です」
どうもソレイルの声がいつもより明るい。ソレイルが連れてきたのは鳶色の髪の〈竜の友〉。
椅子を蹴るような勢いで立ちあがったマーシスにソレイルが驚く。
「久しぶりだ、ゴーチェ」
この十才上の女性と前に会ったのは戦争中、竜の力を借りられないかと相談したときだから――二年ぶりくらいか。
「陛下もお元気そうでなにより」
答えたゴーチェの肩に赤い竜がのっている。のる、というよりは懸命にしがみついている。翼がぴったりと折りたたまれているのは知らない人間ばかりで不安なためか。
「その子が今回の竜か」
「ええ。先月孵りました」
角はなくまだ大きさは小鳥ほどしかない。マーシスの手のひらよりも小さいくらいだ。
ソレイルに茶を頼み、マーシスは談話用の席にゴーチェと座る。ゴーチェが肩から竜をおろした。
「ラン、と言います」
テーブルの上の竜は所在なさげに周囲を見てから、マーシスのほうを見て震えだした。
「……ゴーチェ」
これは少し傷ついた。コグやイルほどでなくとも、竜に脅えられるまでは思っていなかったのだ。
「今までの中でも一番気の弱い竜で」
言いながらゴーチェは竜を見つめているが、手助けをしようとはしていない。
「いい機会だと連れてきたのですが、人はともかく他の竜のにおいがするのは初めてでびっくりしているようですね」
「……サーフィルか」
サーフィルは主以外で一番この部屋に入り浸っているといっても過言ではない。ここ以外でもこの王宮で彼の気配がしない場所というのはそうないだろう。
あれは強い竜ですから、とゴーチェがランの背を軽く押す。
竜はとてとてとマーシスのほうへと歩いてくる。そっと手をさしだしてみると、竜は鼻先を近づけてにおいをかいできた。
「サーフィルと初めて会ったときを思い出すな。あれもこれくらいの大きさだった」
あれはこの竜よりずっと弱っていたが。
においをかいだ竜は安心したのか、のそのそとマーシスの手にのってきた。体の動かしかたがおぼつかなくて、不思議な愛嬌がある。手首のあたりまできて満足したのか、竜は翼をのばしてのびをした。
その様子を見たゴーチェがしみじみと言う。
「……つくづく、王にしておくのが惜しくなる」
「〈竜の友〉になれたでしょうか」
「ええ。それもかなりのものに」
こちらを見るゴーチェの目は優しい。
「……今となってはもう難しいことですが」
「サーフィルですね」
あれが、同種といえサーフィルのそばにいるのを認めるかどうか。
ソレイルが茶を持ってきた。王の腕でくつろぐ小さな竜に目をとめつつもそつなく給仕し、彼は壁際に控える。来客が女性ゆえか、果実の香りをつけた甘い茶だった。
それを一口飲んでから、ゴーチェは切りだす。
「そのサーフィルですが、オーシャの家にいます」
王宮をとびだした竜が昔からの知り合いの家にいる。そのことはなんの不思議もない。怒られたうえに怒られたと愚痴を言いに行くのも自然なことだ。
だがゴーチェがそれを知っているということは、だ。
「二人がいるところに押しかけたんだな」
いたたまれない、とはこういうことをいうのだろう。傑作でしたとゴーチェは喉を鳴らすように笑っているが。
「昨日からオーシャの家に泊まっていて。夕食を終えていい感じになって、竜も寝たしさあこれから本気で口説くかと身がまえたときに、泣き濡れた全裸の美女に抱きつかれて固まる近衛兵というのは――いや、実に傑作でした」
空いた片手を額にやり、マーシスはうなだれる。
「それは……なんというかすまない……」
「わたしは一年分くらい笑ったのでかまいませんが」
きっと久しぶりに会った相手にうかれていただろうにその仕打ち。オーシャの相手がこれを笑いとばせるゴーチェだからよかったともいえるが、普通なら怒って出ていかれる場だ。なにより今回、オーシャにはまったく非がないのがよけいにいたたまれない。
「……オーシャに贈るなら、休暇と酒とどちらがいいだろう」
「両方だとわたしの楽しみが増えます」
「……ならそうする」
これでも贈りすぎということはないだろう。それくらいひどい話だ。
「それから『マーシスに嫌われた』とわあわあ泣くので、二人で話を聞いて、泣き疲れたサーフィルが寝たのが夜明け前で」
つまり二人はほぼ徹夜で竜の話を聞いていたことになる。
「……本当に、うちの竜が申し訳ない」
「オーシャからも話を聞いて、だいたいの筋は理解しました。思っていた以上にサーフィルは人のことをわかっていなかったことも。人間は急激に姿が変わるものではないし、雌雄が変じることもないのだから、驚くのも当然だと言ったらすねていましたが」
「すねてましたか」
「ええ」
ゴーチェはうなずき、ゆっくりと茶を飲む。
「サーフィルがあの姿になったのは、わたしの王妃になるためで……あれは後継ぎがいるなら自分が産むと言っていたが、竜はそんなに早く卵を産めるのだろうか?」
正面の苦笑から、答えが「いいえ」寄りなのはわかった。
「竜の増殖――つがいになることなく卵を産むのでこう呼んでいますが……これが始まるのはだいたい百才以降ですね。個体差はありますが」
「では、やはりサーフィルは」
「卵を産むなどまだ早い。――のですが、あれは陛下のからむこととなるとこちらの想像を超えることをするので」
「人の戦争になどまず加わるはずがないものな」
それもありますが、とゴーチェはマーシスの腕にひっついたままの竜を見た。
「生まれもった姿を変えてまで人間の中にいること自体が、まずありえないことなので」
竜は人の多いところにはまず姿を現さない。人と竜は生き方が違い、一緒にいたところでさほど益がないのをわかっているのだろう。竜として、サーフィルはあまりに異端だ。
「陛下。昔、竜は人の心を食べると言ったことは」
「ああ、覚えている」
忘れるはずがない。ゴーチェの、竜について語る言葉を。
「そのことをふまえると、サーフィルがここで暮らして生きているのは信じられないことなのです。王都の、王宮という人の欲の消えぬところ、さらには戦場にいるなど、〈竜の友〉の常識からは考えられない」
「サーフィルになにかあると?」
ゴーチェは首を横に振る。
「あれは大丈夫です。健やかすぎるほど健康ですよ」
「ならいいのだが」
サーフィルが不調を訴えたことはない。元が竜だから頑丈なのだろうと漠然と考えていたが。
「これだけ人の中にいれば、もっと荒んだ竜になってもおかしくない。実際、あれが孵化したときはひどかった。あれほど劇的なものでなくとも徐々に衰弱し荒むことはありえたけれど、わたしは大丈夫だと思った。そばに陛下がおられるなら、この竜はきっと大丈夫だと」
そう言ってゴーチェは腰の袋からなにかを取りだし、強く握りしめた。
「〈竜の友〉の素質の一つが、人の中においても竜を癒せるものであること。その簡単な識別法がこれなのですが」
手を、という声にマーシスは右手を出す。
その手のひらに緑色の薄い板状のものがのせられた。自分の見たことのない色だったが、輝きからして竜の鱗だ。
「……ずいぶんと冷たいが」
それを聞いたゴーチェの目尻が下がる。
外はそれほど冷えていないし、第一直前までゴーチェが握りしめていたものだ。それが氷とまではいかずとも、湧き出たばかりの泉の水のように冷たい。
「これで、人の体温ではないものを感じ取れる者。竜を荒ませることなく、人の中にあってその澱みを流し、癒し、竜を健やかに保てる者。――それが〈竜の友〉になれる者です」
マーシスは緑の鱗をゴーチェに返す。鱗はすぐに腰の袋にしまわれた。
「陛下は竜にとって最高の泉。多少の相性はものともしないほどに魅力的なものです。サーフィルはけして陛下を手放したりしないでしょう。あれにとっては人の世で生きる理由であり命綱のようなものですから」
命綱、とくり返したマーシスを、左腕にいる竜が〝どうしたの?〟とでもいうような顔で見上げてきた。
その頭を指先で撫でてやる。竜は嬉しそうに尾を振り喉を鳴らした。
「サーフィルは瀕死の状態で産まれました。死を選ばなかった理由が陛下なら、あれは生涯陛下から離れず、陛下を裏切ることはない。そんな竜です」
すとんと竜はテーブルにおりた。それからマーシスの手のほうへ頭をくたりとおいて寝そべっている。とてもくつろいでいるようだ。
この竜に比べれば、サーフィルは異端を通りこして狂気の域なのだろう。人間と会うために生きのびることを選び、少しでもそばにいるために人の形をとる。おそらくは、マーシスの命が尽きるまで変わらず。
「陛下はどうなさいますか」
マーシスは顔を上げる。
「わたしが?」
はい、とゴーチェがうなずく。
「サーフィルが自分から陛下のもとを離れることはないでしょうが、〝陛下が望むのであれば〟話は別です。あの竜は陛下の望みを叶えないことはない」
わかりやすく天秤にのせてみましょうか、とゴーチェの表情が柔らかくなる。
「まだ見ぬ王妃か、サーフィルか。どちらかしかとれないとしたら、陛下はどうなさるおつもりか」
彼女から、昔似たようなことを問われたのを思い出した。
自分の心はどこにあるのか、望むものはなんなのか、と。
――嘘ではなくとも、心の底から迷いなく『行かずともよい』とおおせですか?
「……昔から、ゴーチェはまっすぐ切りこんでくる人だった」
「そういう性分なので」
ぱたぱたとなにかが動く音がした。ランが尻尾を左右に動かしている音だ。
前を見れば、ゴーチェの背後にある壁、そこにかかった幸福そうな家族の肖像画が目に入った。先王とその家族の、ただ一人をのぞいて故人となった家族の絵が。
不要と言ってもきっとヨウグはあきらめないだろう。それにどんな形にせよ後継は要る。しっかりした地位の腹心も。
マーシスも必要性を感じ、理解はしていた。ではそれは偽りない自分の望みといえるものだったか。他者にしっかりと、自分の意志として告げられるものだったか。
理と心情と、考えつくすべてを天秤にのせ、考えた。
自分が捨てられないものは、手にしたいものはなにか。
ゴーチェがにかりと笑う。
「道は、見えましたか」
「おそらくは」
そっと竜の頭を腕からどけて、マーシスは座りなおす。赤い竜がかけより、マーシスの膝の上におりた、というか落ちた。
「陛下が本当に望む道であるなら、手助けは惜しみませんよ」
「その言葉だけでも励みになります」
マーシスは膝の上の竜をすくうように手にとり、できるだけゴーチェに寄せてテーブルにのせる。
「わたしは自分の国にも愛着のない〈竜の友〉なので、新しい王妃が立つかなどどうでもいいのでね」
彼女は竜の味方だ。〈竜の友〉が竜の側につくことほど自然なことがあるだろうか。
「サーフィルはまだオーシャのところだろうか」
「おそらくはまだ。相当すねていたので」
まあそうだろう。あれは悪いことをしたつもりはまったくないのだ。
「あれに、話があるのでわたしのところに来るように伝えてもらえますか。――できればいつもの恰好で」
「わかりました」
ゴーチェが赤い竜に手をのばす。ぎこちなく腕をのぼってきた竜を肩にのせ、ゴーチェは立ちあがった。
「王都にはいつまで?」
「十日ほど滞在するつもりです。オーシャの休暇次第ですが」
マーシスも立ち、まだこちらを見ているランにむけて、あやすように軽く指を動かす。
「なら長めの休みがとれるように調整しておく」
その事務経験と能力に甘えて、彼には近衛兵の枠を越えた仕事をまかせていたのは事実だ。十日ほど休んだとしても誰も異論は唱えてこないだろう。
歩くゴーチェの少し前をいき、マーシスは扉を開ける。
すぐそばで鳶色の目がこちらを見上げていた。
自分が彼女の背丈を抜いたのはいつごろだったろう。最初は彼女の胸に届くかというくらいだったのに。
「昔も今も、ゴーチェには助けられてばかりだ」
「こちらこそ。――手のかかる竜だが、よろしく頼む」
そうして彼女は竜とともに去っていった。
自分の机に戻り、マーシスは紙とペンを取りだす。
「……今の方が〈竜の友〉ですか」
初めて見ました、とソレイルが茶を片付けている。
「わたしの恩人だ。サーフィルの〈竜の友〉でもある」
思いついた文を書いては横線で消し、次の文を書いて同じように消す。三十行ほどそうしてから、マーシスは手を止めた。
父――先王とその家族の肖像画を見ながら、息をつく。
いつのまにか兄よりも自分は年上になっていた。
両親が望んでいたような〝先〟を、自分は歩めているだろうか。この国を自分の代で滅ぼすようなことはせずにすんだと思うが、十になったばかりの子の手を握り、「すまない」と頭を下げていた父がどんな未来を夢見ていたかもわからない。
「――ソレイル」
「はい」
「オーシャのところに行って、至急休暇をとるように言っていたと伝えてもらえるか? 日数は何日でもいいと」
「かしこまりました」
器を下げ、一礼して出ていく少年を見てから、マーシスは天井を見上げた。
※
昼食後の少し落ち着いたころあいに、クレイグの大使から書面が届いた。
昨日の御礼を直接申し上げるべきところだが、娘の体調が思わしくなく、王宮にはむかえないという旨、謝罪の言葉が丁寧な文章で綴られている。
〝不調〟――大使は状況を把握しただろう。ジャライル王のもとにも状況を知らせる文書が送られているはずである。
とはいえそんな内情や裏の目的を文書で記すものではない。表向きには今回の会談はただの招待、着任の挨拶なのだから。
令嬢を案じる返信と見舞いの品を大使のもとまで届けさせ、マーシスは相手を待つ。
しばらくしてサーフィルが執務室にやってきた。ゴーチェに言っておいたのがよかったのか、いつもの、自分と同年代の男性の姿だ。当然のように人を介さず、ふらりとやってきて扉を開けて勝手に入ってくる、彼以外にないやり方である。
ゴーチェが座っていた椅子に座ると、サーフィルはすんすんと鼻を鳴らした。
「竜のにおいがするな」
「ゴーチェが来ていた。小さいのを連れて」
あの赤いのか、とサーフィルは納得したらしい。
それでもまだ苛立っているというか、落ち着かないのを隠しているのはわかる。
マーシスは机から立ち、昼前から書いていたものの清書版を手に、サーフィルのむかいに座った。
「サーフィル。昨日は悪かった」
こちらをむくことなく、横をむいたサーフィルが応じる。
「……人間には性別があって、それが突然変わったら誰だって驚く。そんなことしたらわけがわからなくなった相手になんと言われてもおかしくない」
「そう怒られたのか」
「ものすごく怒られた」
間が悪かった、ともいえる。悪すぎたとも。
「オーシャも驚いたろうな」
「すごく驚いた。びっくりした」
オーシャの驚きぶりにサーフィルもびっくりした、ということらしい。
それでようやく「人間誰でも知ってる相手の性別が変わると驚くものだ」と腑に落ちたと。
「……それでも、昨日はわたしも言いすぎた。そのうえで聞きたい」
やっとサーフィルがこちらをむいた。
「まだ、わたしのもとにいてくれるか?」
どんな姿でも変わらない青い目。初めて見たときから綺麗だと思った青が、まっすぐこちらを見ている。
「――お前がいていいというのなら」
その声を受けて、マーシスは書面をテーブルに置く。
「わたしは、王位を捨てられない」
それは今の自分にとって死ねというのに等しい。
自分が受け継いだもの、もらったもの、それをこの国に自分は返せていない。
なによりも、幼い自分がたてた誓いに背くような真似はできなかった。たとえ誰一人知らないような誓いだとしても。
「それが、わたしにできる最大のものだ」
書面を手に取り、一読したサーフィルの眉間に皺ができる。予想通りだ。絶対にサーフィルはいい顔をしない、そんな文面なのだから。
「新しくわたしに準じる者として副王の座を設ける」
サーフィルに見せたのはその草案だ。
膝の上で指を組み、マーシスは続ける。
「――お前の外見で王妃というのは無理があるし、かといって枠組みを守るためにとうになじんだものを変えるというのも違うように思えてならなかった。もちろん、これもお前が承諾してくれるなら、だが」
副王を設ける。王に次ぐ権限を持ち、不在の折には代理となれる者として。
サーフィルが顔をしかめたのは次の項目だろう。
――〈副王とその子は王位継承権を持つ〉。
「俺は、お前の後継にはならないと言ったぞ」
「わかっている」
戦場で、マーシスが前線に出ることよりも自分を勝手に後継とみなされたことにこの竜は怒っていた。あれだけ見事に王の代理をこなしておきながら。
この竜はマーシスが死んだ後のことには興味がないのだ。少なくとも今は。
「王妃の〝代わり〟に副王をおく。そうするならこの項目はどうしても削れなかった。王であるわたしの代理ができ、その後継を産む者とするなら」
サーフィルは黙って書面をにらんでいる。
「無論、どこかから養子をとるというのもありだ。けれどこの副王というのは、わたしが王妃をもたないという証明のようなもの。〝そこ〟から次代が生まれるとわかりやすく示すためのものといってもいい」
ただの竜、ただの友としてそばにおくなら、今のままでも別段問題はない。王の隣、そこに立つ〝唯一〟の者として、例外の別格として示すためにこの新たな位はある。
竜を人の玉座になど不遜極まりないことだが――〝竜使い〟には今更だ。
「竜の増殖期は百才前後だという。お前が百才になるまで人間のわたしが生きていられるとは思えない。いつかお前が産む子を後継にするにしても、その子がいつ産まれるかわからない以上、この項目ははずせないんだ。次代が成長してからなら、自分の継承権を放棄するなりしてくれてかまわない」
サーフィルが書面をテーブルに置く。
「……これを受けたら、俺はどうなる?」
「どうならなくてもいい」
サーフィルの目が動く。
「今まで通り好きにしてくれたら」
そう、これは彼を自由にするための、そして自分のそばにいてもらうためのもの。
「お前からすれば、ばかばかしいと思うだろうが」
「――そうか」
サーフィルは書面の下部に指を置き、するすると動かした。
長い指が紙から離れる。
「お前な……」
紙上に残るものを見たマーシスは――それ以上なにも言えなくなった。
「承諾だ」
余白だった場所に流れるような字でサーフィルの名が記されている。その字は赤黒い。自分の爪で中指の先を切りつけて、出た血をインク代わりにしたのだ。
「マーシスが俺といるために考えたことというなら、俺に異論はない」
こちらへとむけられた書面を受け取り、マーシスは肺が空になるような息を吐く。
――この竜は、本当に自分に甘い。
「副王になるなら、多少は儀式とかも出ないとだめか」
「できるだけ出なくていいようにはするが、全部とはいかないのはあきらめてくれ」
「……仕事なら仕方ないか」
サーフィルは背を後ろにそらし、壁にかかる肖像画を見る。
「あっちの人らも、みんなディートが不幸になるのなんて望まないだろうし」
今の言葉は、裏返せば「俺がいればお前は幸せだろ」と言っているのだが――そうだからどうしようもない。
なにも手放せないくせに、誰よりこの竜を手放したくないのは自分なのだ。
「ただ、どうしてもやらないといけない仕事はある」
「なんだ?」
マーシスは丸めた書面を軽くかかげてみせる。
「ヨウグとノンディの説得」
げ、と体を戻したサーフィルが間の抜けた声を出した。
「俺、昨日さんざん怒られたとこだぞ……」
「だな。――とはいえ、あの二人を抜きにしてこれが通ると思うか?」
「……無理」
この提案がどういう意図をもったものかわからない二人ではない。親友の忘れ形見がとんでもないことを言いだしたと連携してくるはずだ。半日一日で片がつくとも思えない。むこうも本気でかかってくるだろう。ある意味決戦だ。
「わたしもいるから少しはましに……なるかは怪しいな。むしろわたしがいることであの二人は燃えそうだ」
むしろ主目標になるのは自分のほうだろう。説得するなら竜より人だと。
書面を持ってマーシスが立つと、サーフィルも少しだるそうに立ちあがった。
「初仕事が手強すぎるだろ……」
ナクルの〈竜王子〉、万夫不当の騎士とまで言われた若者が苦笑いしている。
二人並んで執務室の入口まできて、マーシスはふっと昔のことを思い出した。
この竜と二人きりだったときのこと。
今までにただ一度だけ、自分が国への誓いを完全に忘れて別のことを願ったときのことを。
――ああ、やっぱり綺麗だ。サフィは。
「なあ、サフィ」
ん、とサーフィルがこちらをむく。
「もう一つ頼みがあると言ったら、お前は怒るか?」
「怒りはしないが、内容によるな」
うなずくサーフィルにむけ、マーシスは言う。
「わたしが死ぬときは、お前が食べてくれ」
言った通り、サーフィルは怒りはしなかった。怒る代わりに困惑している。
「……俺は別にもの食わなくとも生きていけるぞ」
「知ってる。――昔、そう思ったことを思い出したんだ。お前に食べられて死ぬなら幸せだろうなと」
「……なんてこと考えてるんだ、ディートは。――いつのことだ、それ」
「怒ったお前に殺されかけたとき」
あれか、とサーフィルがつぶやく。五年ばかり前、竜の姿で舌をつっこんだときのことを思い出したらしい。俺が原因か、と言う声はばつの悪そうなものだった。
「……だったら仕方ないか。なんとか努力はするが、その代わりお前も長生きしろよ。せめて俺が後を継がないでいい年まで生きてくれ」
「それは後継ぎ次第だな」
「……そっちも俺か……」
扉に手をかけ、マーシスは笑う。
「でも、お前がわたしの望みを叶えなかったことなんてないだろう?」
扉を開け、王と竜は部屋を出た。
これからずっとそうするように、二人並んで。
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