17・未来に至る道(1)

 帰還したマーシスを待っていたのは仕事だった。

 まだ冬半ばという故郷の、時ならぬ戦勝の祝宴もあるにはあったが、翌日には仕事に入った――というか、入らざるを得なかったのだ。

 宰相のヨウグを代理として国内のあれこれをまかせてはいたが、代理では片づかないものも多くある。たまっていた仕事を片付けているところに次の仕事がくるという具合で、戦場より忙しい。

 通常の仕事の他に終戦処理が加わり、水害を受けた地域の立て直しもある。ヨウグのこめかみがひくついていてもなんの不思議もない。

「クレイグの資金があって助かりました。水害を受けた地域も冬を越せる保障ができましたから」

 王宮の執務室。数か月の留守のあいだで、ヨウグの白髪が増えた。それだけ苦労をかけたのだと少し申し訳なくなる。

「帰還兵の中でも、特に希望のない竜人兵はこちらに住むということですが」

「ああ。五十人ほどだが」

 復興を手伝ってもらいながら土地の者と近くなれば、定住しやすくなる。すでに知った者や親しい者がいる場合は当然そのそばで暮らせるようにした。

 帰還したのは竜人兵だけではない。マーシスが率いて出た兵も、〈盟王〉の命で徴兵されていた男たちも戻ってきている。今までとは違うのだと、この冬はどこか明るい雰囲気が漂っているのも自然なことだった。

 そんな諸事に忙殺された冬が終わり、ナクルにも遅めの春がくる。

 フィリギアの青い花が咲くころ。戦争の準備ついでに各国に根回ししてくると言ったノンディが、覚えのある紋章つきの親書とともに帰還した。

「お久しゅうございます、陛下」

「ノンディ。お前にはなんといっていいのかわからないが――とにかく良い仕事ぶりだった」

 師を迎えた執務室で、マーシスは破顔する。彼の根回しがなければ、直轄軍もあれほど容易く崩せはしなかっただろう。

「御言葉ありがたく。陛下の御活躍、老臣も鼻が高うございます」

 それからノンディは見覚えのある紋章のついた書簡をさしだした。

「クレイグの紋章だが……これは?」

「あちらでジャライル王とお会いした際、必ず陛下にお渡しするようにと渡されたものです」

 いぶかしみながらマーシスは封を切る。かの王の装束ほど書簡は派手ではなかった。

 おそらくはジャライル王の直筆だ。戦中の諸事の礼に続く文を読み、マーシスは眉をひそめる。

「大使館の設置は前から言っていたことだが……」

「ジャライル王が、なにか」

「大使の一家が、妻と娘がそちらに行くのでよろしく、と」

 わざわざそれだけのためにこんな書面は仰々しすぎる。あの御仁のやることだ、絶対になにか文面以外のものがあると続きを読み、納得がいった。

「大使が娘を連れてくるということは」

 ノンディがうなずく。

 フェイデル・アルソン大使の娘が〝留学〟を兼ねてこちらに来るという。大使の身辺はすでに調査が終わっていて、特に怪しくないのは確かだ。その血筋も覚えている。

「まず間違いございませんな。陛下の王妃候補を送りこんできましたぞ」

 新大使フェイデル自身は実直な地方貴族の出だ。だがその妻はジャライルの従妹で、クレイグ王家の血を引いている。

「どうしたものかな、これは」

 王妃――自分の妻といっても実感がない。それどころではなかったのだ、ずっと。

「こちらとしては断る理由はありませぬし、陛下が気に入られるのならよろしいかと」

 反対ではないが、積極的に賛成もしないというところか。

 ノンディがこうなら、ヨウグも同意見とみていいだろう。

「丸投げするつもりだな?」

「丸投げとは言葉が悪い。老臣としては陛下には少しでも落ち着く、和やかな家庭を持ってほしいと願っております。ですが陛下の意にそわぬ婚姻など論外で」

 と言いつつもヨウグもノンディもしれっと裏で嫁候補を二十人ほど揃えていそうで怖い。亡き友の忘れ形見を不幸になどさせるかと。

「とりあえず会うだけは会って――あとは成り行きか」

 それから後は外交面での相談と打ち合わせが昼まで続き、一人で遅い昼食をとっていたときに「暇つぶし」と称して練兵に行っていたサーフィルがやってきた。

「ノンディは帰ったな?」

 開口一番がこれである。練兵の割に汗一つかいていないのはいつものこと。口やかましい爺さんの帰還を察知して逃げていたのだ。

「ああ。そっちは」

「竜人兵が半分以下になったからな。普通というところか」

 マーシスはパンの上に少し多めにチーズをのせてかじる。もともと贅沢に興味がないほうだったが、戦場に行って以来さらにその傾向が強くなった。ソレイルが「戦場でもないのにこれだけなのですか?」と驚くほどに。そのソレイルはヨウグについて実務の見学をしているはずだ。

「いかん、ノンディに大事なことを言うのを忘れていた」

「なにかあったか?」

「ソレイルをノンディに引き取ってもらえないかと。あれには家族がいないから」

 机に腰かけサーフィルは少し考えこんでいる。

「ソレイルは問題ないだろうが、ノンディはどうだろう。あの宰相の子だと気にしないか?」

「そこは大丈夫だろう。ノンディは年にかかわらず頭のいい人間が好きだから、ソレイル自身のことは気に入る」

 長いつきあいだ、おのずと好みはわかる。カナレイアの宰相ドウエル・ピノの子である、という一点以外はノンディが喜んで鍛えたがる要素しかない。

 こちらの皿が空になってから、やや声を落としてサーフィルが訊いていた。

「お前の家族のことはヨウグたちに言ってないのか?」 

「ああ」

 家族の墓に――その大半には骸もない――花を供え、全部終わったと報告したことは二人にも告げたが。

 彼らが家族について訊いてくることはなかったが、マーシスも特に語ってはいない。マーシスが話題にしないというあたりで、あの二人ならおよそのことは察するだろう。

 ひょっとしたら、マーシスが出兵するずっと前から勘づいていた可能性もある。特に他国とのやりとりが多いノンディは。 

 お前がそう言うなら、俺がどうこうするものじゃないな、とサーフィルはのんびりとあくびをした。


 ノンディからソレイルを引き取りたいという話があったのは、その日の夕刻である。

 稀代の外交官に後継ができたのだ、これほど喜ばしいことはないと、先王の友人たちと現王とその竜は揃って、いつもより少しだけ豪華な夕食をともにした。



 ※



 クレイグの民というと、どうしてもジャライルのような派手な外見を想像してしまうが、初めてのクレイグの大使は派手さのかけらもない男だった。色味が落ち着いた正装だというのもあるだろうが、たたずまいがどこか古樹のようでもある。

 直接国交を結んで初めての大使として、マーシスはクレイグの大使とその家族を王宮に招いていた。

 一応、私的な招待という扱いではあるが、相手の国の格からほぼ扱いは公的なものに近い。招いた部屋も南宮で一番よい部屋である。招待者であるマーシスのむかいには、大使とその夫人、令嬢が席についていた。

「名高き王にお会いでき、また陛下の国と母国とのつながりを深められること、名誉の極みでございます」

 五十路に入るかという年だろう彼が発したのはきっちりとした礼式を守った上での、非の見つからないナクル語だった。

 フェイデル・アルソン大使は作り物ではない笑顔でこの場にあり、夫人もこの会合を楽しんでいるように見える。

「ジャライル王にはなにかと力になっていただいた。遠方ではあるが、こうして新たなつながりを続けていけるのはわたしにとっても喜ばしい」

 簡単な――あくまで外交の場としては――昼食を終え、あとは和やかに話をするだけという段階までくると、三者はかなりくつろいでいた。

 大使のフェイデルに対し、その妻のパリトーラはいかにもクレイグ人らしいというかジャライルの血縁というか、華のある女性だった。場を壊さないぎりぎりまで華やかなドレスに似合いの美貌の主である。

「こちらにはとても美しい湖があると聞いて楽しみにしておりましたの」

 語る声も涼やかで心地よい。こちらもナクル語は完璧だ。

「ここから近いというとアルバ湖ですね。あのあたりはわたしも年に一度はむかいますが、とても居心地のいいところです。季節ごとの渡り鳥の多いところですので、鳥が好きな夫人ならきっと気に入られるかと」

 まあ、とぱっと顔を明るくした夫人の横に、動きを止めたまま必死でこちらから目をそらしている女性がいる。

 年はマーシスより少し若い十八と聞いている。母よりもかなり地味なドレスなのは誰の趣味によるものか。明るい髪の色といい目の色といい顔立ちといい、外見は母親そっくりなのに印象はまるで違う。夫が古木なら妻は大輪の花、娘はその横のつぼみといったところだ。

「この酒は甘すぎましたか? よければ新しいのを持ってこさせますが」

「け、結構です!」

 あわててこちらをむいて言ってから、彼女は自分の言葉が最適解でないと気づいたらしい。

 耳まで赤くしてから、エルミア・アルソンは「お酒が得意でないだけなので……」としぼりだしたような声で言った。

 ジャライルが送りこんできたにしては大人しすぎるともいえるが、この場合はそれが狙いだったのだろう。あの王には派手なのよりはこちらだと。

 ――ジャライル王め。

 相変わらずの憎めない曲者ぶりに内心苦笑しながら従者を呼び、エルミアのための水を持ってこさせる。

 果汁入りの水を飲んだエルミアがほっと息をついた。

「こういう場はあまり出ておられなかった?」

「はい。クレイグ王宮での宴なら二度ほどあるのですが……あちらはもっと人がいたので」

 彼女の隣でパリトーラがたしなめるような目をむけている。

 比較は軽々しく行うものではない。相手を下げることにつながるからだ。マーシスはそれに気づかないふりをする。

「クレイグの宴はさぞ華やかでしょう。ジャライル陛下のいでたちから想像するだけでも、夏の花祭りのようだ」

 大勢がいるところでなら一人ぼんやり立っていても目立たないでいられた――というところだろう。以前はそんな〝逃げ〟もできたが、こういった少人数ではそうもいかない。

 女性二人に代わり、主客のフェイデルがにこやかに言う。

「陛下のおっしゃる通り、我が国では宴は職人たちの戦の場というくらいです。誰がどんな生地をまとい、どんな意匠をまとうか。それで半年は噂がもちます」

「見てみたくはあるが怖い戦場だ」

「陛下なら王が一番の匠たちを連れてきますよ。それに負ける陛下でもありますまい。……生地といえばこちらにはヌーオンという名産があるとお聞きしていますが」

 ヌーオンは高地に生きる山羊の毛で作る生地だ。質は間違いなく最高だが、その山羊は野生種に近く小柄で寿命も短く育てにくいことから、ナクルの生地の中でももっとも希少なものである。

「ほぼ外に出していないものを御存知とはさすがです。クレイグなら正しい目利きもできましょう。今度お届けいたしますので、是非ジャライル陛下にも」

「それは嬉しい」

 白い酒が入ったゴブレットをかかげ、マーシスは微笑む。隣にサーフィルはいない。残る竜人兵の武装について相談したいというオーシャに呼ばれている。――きっとこれはヨウグあたりの入れ知恵だろう。 

 まだエルミアはうつむいている。

「エルミア嬢。よろしければ気分転換に中庭を散策されてはいかがでしょう。今は一番花のよい自慢の季節です」

 二つの宮殿のあいだの中庭は初代の王から続く花の庭だ。庭師が丹精こめて育てた花がちょうど盛りをむかえている。

「あの、よいのでしょうか」

「もちろん。遠方より訪れてくださった方に見ていただけるなら、庭師たちも喜びます」

 女官がエルミアの椅子を引く。

 マーシスは立ちあがるエルミアでなく、その両親のほうに目線を送る。二人とも無言だったが、特に夫人のほうは「然り」とでも言いそうな強いまなざしが返ってきた。

 女官がエルミアを中庭へと案内する。二人が部屋を出ていってから、マーシスは大使夫妻のほうをむく。

「到着して間もないというのに、御家族揃って貴重な時間をいただきました」

「こちらこそ、一大使には過分なもてなしでございます」

 儀礼的である。筋書きのできあがった舞台のようといってもいい。

「名残惜しいことですが、そろそろお暇せねばなりますまい」

「なにかあればいつでも王宮に申し出てください。両国の友好のため、できうる限りを尽くしますので」

 ナクルにとってクレイグは大事な味方だ。最重要国の一つともいえる。

「エルミア嬢は後ほどお送りいたします」

 そちらの意図にのったぞ、というマーシスの声に、大使は一瞬微妙な顔をしたが――一人娘の男親としては複雑なのだろう――その横の夫人は「よろしくお願いいたします」と優雅に微笑んできた。さすがに王族の血を引いているだけあって、こういう場にも慣れている。

 女官たちにつきそわれ、大使夫婦が部屋を出た。二人を見送り、マーシスも部屋を出る。

 少し歩いて中庭に立てば、花の香りがただよってきた。香りの主、早咲きの薔薇が白いかたまりになっている。

 その前にエルミアが立っていた。他にもいろいろな花が咲いていたが、白が好きなのかあるいは香りに惹かれたのか。

「薔薇がお好きですか」

 不意の声にわかりやすいほどびくついてから、エルミアはこちらを見た。

「はい……それと、珍しい形だなと思って」

 この薔薇は丸く咲いた花の下に、四枚ほど大きな花弁が広がっている。姉が好きだった花だと聞いた。

「確かに珍しいでしょう。三十年前にここでできた品種です」

「そうでしたか、どうりで」

 うなずいて彼女は花のほうをむいた。

「……陛下のお話を聞いたときは、いったいどんな方なのだろうと思っていました」

 彼女の声からするに、嫌われてはおらず好意も見え隠れしているが、まだ自らの立場をうまくとらえききれていないという様子だ。

「ナクルの外ではさぞ尾鰭がついていたことでしょう」

 〈盟主〉、〈竜を従えし王〉、それに〝竜使い〟。新たに聞いたところでは〈焼滅の王〉。どんな呼び名がついたところで驚くものではなく、たいていの場合それは誤りではなかった。

「いろんな名とお話を聞きましたが――とてもそのような方には見えなくて」

「偽物ではありませんよ。一応これが本物です」

 花を見ていたエルミアが顔を上げる。

「――陛下は、私たちの王の」

「ジャライル王の素敵なたくらみについてなら、察しがついているとだけ」

 王妃候補として送りこまれたことを彼女は知っている。そして自分も。

 舞台にあがった役者が役になりきり全うしなければならないように、ともに自身ではなくその上にかぶせられた役を演じているようだった。

 自分ほど彼女は己の〝役〟になりきれていない。与えられた〝役〟に戸惑いを隠せず、覚悟にも至っていないのがわかる。

 物心ついたころから王という〝役〟を演じてきた自分とは環境も考えも異なって当たり前だ。

「ジャライル陛下は戦争の最中から、わたしにむいた相手はいないかと考えておられたそうです。なのでこちらとしては驚くものではありませんが――」

 言われたほうは突然のこと、人生のかかったことだ。数か月で落ち着くものではないだろう。

「エルミア嬢の好きなようになされるとよろしいかと」

「好きに、ですか」

「ええ」

 貴女が断ったとしてもあの御仁なら第二第三くらいの候補は考えていそうだから、とはさすがに言えない。

 それから彼女は花を見て黙ってしまった。

 今日はこのまま人をつけて送っていかせるかとあたりを見回す。南宮に立つ従者の一人と目が合った。彼がうなずいたところで、「マーシス!」と一際大きな声がした。エルミアが驚いて声のするほうを見る。

 声の主が誰かなど考えるまでもない。この王宮で自分を呼び捨てにする者などサーフィル以外にいるものか。

 腰の高さまである生垣を軽々と跳びこえ、他の者がいることなどかまわず、美貌の若者はまっすぐマーシスの横まできて耳元でささやいた。

「オーシャから聞いたが、ゴーチェが来るらしいぞ。この前生まれた竜がだいぶ落ち着いたからと」

「――そうか」

 どうやらオーシャは失敗したようだ。ふと見れば先ほどの従者の姿が消えている。報告に行ったのだろう。

「ところでサーフィル。今は来客中だ」

 マーシスに言われて、ようやくサーフィルはエルミアの存在に思い当たったらしい。人がいることはわかっていても、この竜からするとたいていの人間は〝敵ではない有象無象〟でしかないために、しばしばこういうことがある。

 相手を一瞥したサーフィルは彼女の前で膝をつき、軽く頭を下げ、そっと相手の手をとった。

「御無礼お許しを。ナクル王が竜、サーフィルと申します。以後お見知りおきを」

 エルミアを見上げてから手を離し一礼すると、サーフィルは「じゃあ戻るな!」と言って走り去った。

 その方向を呆然とエルミアが見つめている。

「……陛下、今の御方は」

「サーフィル・オンドゥート。〈竜王子〉という呼ばれ方のほうが通りがよくなっていますね。……ああいう闊達な気性ゆえ驚かれたかと思いますが」

〈竜王子〉のことは国王より世に広まっているらしいが、その〝素〟はあまり正しく伝わっていない。


 ――しかし、久しぶりだな。

 サーフィルが去ったほうを見つめるエルミアの顔は、よく王宮でも見られるものだった。サーフィルの横で、自分が何度も見てきたものだ――。


 人が、恋に落ちた瞬間の顔は。



 ※



 夕方前、マーシスはオーシャのもとを訪ねた。

 オーシャは近衛騎士の筆頭、事実上の将軍として、王宮内に個室を持つようになっている。

 部屋の外に従者を控えさせ、マーシスは意外に整頓が行き届いた部屋に入った。そこにサーフィルの姿はない。予想通りだ。

「どうしたんです、陛下」

「サーフィルからゴーチェがこちらに来ると聞いて。いつになるのかと」

「竜の状態次第ですが、明日か明後日ぐらいかと」

 マーシスはオーシャが置いた椅子に座る。王が座ったのを見てからオーシャもむかいの自席に座りなおした。

「陛下のほうはどうでした?」

 マーシスは「駄目だろうな」と短く答える。

 オーシャは宰相たちと仲がよい。王妃候補のことも当然聞いているし、宰相たちの〝作戦〟にも協力しているはずだ。

「相手に問題が?」

「相手の問題ともいえるし、こちらの問題ともいえるな……」

「大使が来たときに遠目に姿を見ましたが、それほど悪い感じはしないお嬢さんでしたが。――あ、母君ならやめとけって進言させていただきますよ」

「わたしも、あちらは少し苦手だ」

 オーシャらしい軽い口調にほっとしつつ、マーシスは膝の上で指を組む。

「エルミア嬢は素敵な女性だが――たぶん難しいだろう」

 自分が王妃にと望めば、彼女や自分の周囲はすぐにでも準備を始めるだろうが――ただ一つの点で決定的にまずかった。

「彼女はサーフィルに惚れている。夫の友人に恋する王妃というのはな」

 ああ、とオーシャが苦笑する。彼もよく恋に落ちた女性の顔を見ているはずだった。サーフィルのそばで。

「宰相殿に言われて引きとめていましたが、駄目でしたか」

「まあ遅かれ早かれそうなっていただろうが」

 今ごろサーフィルはヨウグとノンディにしぼられているところだろう。消えた従者は宰相家縁の者だ。彼から宰相に報告があがっているはずである。

「陛下も充分容姿は上なんですがね……あれがなぁ」

「サーフィルならわたしより上だろう」

 オーシャがいかんとも言い難い顔をしてため息をつく。 

「……今日の件はもう仕方ないとして、陛下としてはどうなんです」

「どう、とは」

 オーシャの従卒が茶をもってきた。従卒が部屋を出たのを確かめてから、オーシャがやや声を落として言う。

「王妃とまではいかなくとも、気になった相手とかはいないんです?」

「正直、そんな余裕がなかったというところだが」

 でしょうね、とオーシャがうなずく。

 オーシャとは自分が王になる前からのつきあいだ。マーシスがどんな日々をすごしてきたか、家族のように知っている。

「じゃあもう少し基準を下げますか。結婚とか交際とか抜きにして、『素敵だな』と思うような女性ならどうです」

 マーシスは少し考える。今までに会った人々の顔を思い浮かべれば、答えは簡単に出た。

「それならゴーチェと、メイア女王とセイレーネ殿下かな」

 それを聞いたオーシャといえば。

 顔をしかめている。

「どうした」 

「……陛下の趣味がわかりやすくて」

「そうか?」

 三者を並べても、年齢も雰囲気もまるで違うが。

 すっと真顔になったオーシャが一言つぶやいた。


「胸の大きな年上」


「な――」

 かっと耳のあたりが熱くなった。無自覚のものをつきつけられた気がしてマーシスは口ごもったが。

「違……わないな。確かにそうだ」

「まあそれは冗談として」

「冗談だったのか?」

「三人とも、他人の外見より中身を重んじるような、なにより本人の心が強い人ばかりだ。そういう意味でもまあ、わかりやすいなと」

 ただまあ、本当に王妃には無理ですね、とオーシャは笑って茶を飲んだ。世捨て人のような〈竜の友〉に、他国の王と王妃である。

「今になって思えば、戦場に出ているあいだに、こっそりクレイグの綺麗どころあたりと遊んでもらっていてもよかったですね。……まあサーフィルが離さなかったか、あのころは」

「……そうだな」

 わずかに優秀な近衛の口元が動いた。王は失策を悟る。

 他の人間なら気づかないだろうが、相手がオーシャだったのがまずかった。微妙な間の差異もこの男なら勘付く。

「……陛下?」

「まあその、なんだ。いろいろあったからな」

 顔をそらしたマーシスにオーシャが詰め寄ってくる。こうなると王と臣下というより兄弟分のようだ。

「聞いてませんよ、それ」

「……言ってないからな」

「よくサーフィルをまけましたね」

「そういうこともある」

「どうせなら連れて帰ってきたらよかったのに」

「それができる相手じゃない――ああもう、この話はなしだ。忘れてくれ」

 苦しまぎれに茶を飲み、マーシスは額に手をやる。

 オーシャが他言するとは思えないが、自分から明かしたようなものなのが気恥ずかしかった。

「ここだけの話、陛下にも楽しいことがあったならいいといえばいいんですが――あのころの陛下はどちらかというと」

「そうだな、落ち着いていなかったというか、かなり逆上に近い状態だったとは自分でも思う」

「実際どうだったんです?」

「どう、とは」

「背筋がぞくぞくするようないい経験だったのかという話で」

 一緒にいても気持ちいいばかりとはかぎりませんからねと、なにやら思わせぶりなことを言ってくる。

 〝頼れる気さくな兄貴分〟としては、この〝弟分〟が心配なのだろう。軽々しく遊びに連れだすわけにもいかないし、そばで見守りたまに相談にのるくらいしかできない立場としては。

 マーシスは記憶をたどる。

 〝背中がぞくぞくするような〟。そんなことが昔あった気がした。視界が狭まり自分ごと消えるような、そんな体験が。

「……ベッドに押し倒されて、舌を入れられたときか。このまま死んでもいいと思ったことなら」

 何故かオーシャが〝よしきた!〟という顔になった。

「それで?」

「それだけだ。実際に窒息して死ぬかと思った」

「念のためお聞きしますが、その相手って」

「サーフィルだが」

 さっきの顔はどこへやら。がっくりとうなだれたオーシャが頭をかかえている。

「言っておくが、その一回だけだぞ? サーフィルとはその、本当に寝ただけだから」

「でしょうがね……」

 あの加減知らずめ、とつぶやいた声は聞こえなかったことにした。

オーシャは頭を上げたが、あと三日で兵糧が尽きると最前線で言われたような重い顔だ。 

「ちなみにそれ、いつの話です」

「あれが出征する直前だから、十五くらいか。これはその前にわたしがサーフィルを怒らせたせいだから、サーフィルは悪くないぞ」

 あれは好意からではなく怒り由来だったし、純粋に相手の息を止めるためにしたようなものだから、色恋とはほど遠い。

「オーシャ?」

「いや、やっぱりあの竜にきちんといろいろ教えておかないと駄目だったなと反省しているところで」

 野放しにしすぎたと言いながらオーシャは耳の後ろをかく。

「――そもそも陛下は王妃についてどう考えてるんです」

 王妃とはなにか。王の伴侶で次の王を産める者。王とともに国の長となれるだけのものを持つ者。

「健康で、物事の判断がきっちりとできる人であればいいとは思うが」

 オーシャは考えこんでいる。自分の答えはそれほどおかしなものだっただろうか。

「……うん、今回と似たようなことがこれからも起きるでしょうね、サーフィルを手放さないかぎり」

 一瞬、思考が真っ白になった。なにを言っているのかと。

「サーフィルを、手放す?」

 目を丸くしたマーシスをオーシャがまじまじと見る。

「……考えもしてなかったって顔ですね」

「まあ、そうだ」

 サーフィルはずっと自分のそばにいると疑いもしていなかった。いなくなるという考えがまずなかった。

 自分とサーフィルは寿命が違う。自分が彼をおいていくことはまだしもとして。

「そうする理由がわたしにはない」

「そうでしょう。……ただの王の腹心、無二の友なら妻を娶って互いに家庭をもって落ち着く図も浮かびますが、サーフィルの場合は無理ですね。あれが陛下をおいて人間の女に惚れるというのがまず想像つかない」

「そうだな、わたしも無理だ」

「サーフィルは陛下から離れない。そんなサーフィルが陛下を〝譲る〟ことができる女性を探して王妃にする――となると、やっぱりかなりの難関ですよ」

 本気で王妃を探すのならば、やはりサーフィルが壁になりますね、とオーシャは重ねて言った。



 ※



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