16・焼滅の王と震怒の竜

 本格的な冬が近づいている。気温はだいぶ低くなり、風も乾いていた。

 期日はきた。天候もよい。

 マーシスは弓矢と剣を帯びただけの軽装で幕舎を出る。どことなく並ぶ兵たちが緊張しているように見えた。

 カナレイアの首都はほぼ無人。ハビ=リョウ付近に滞在しているのは〈新盟〉の軍のみで、大陸の中枢といえた都は外壁の門も閉じられ静まり返っている。各都市につながる街道にも人馬の姿はない。

 対する〈新盟〉の軍勢も静かだった。マーシスの姿を見た兵たちが膝をつく。

 武装したオーシャが前に進み出て頭を下げる。

「すべて予定通り、整っております。陛下」

 顔を上げたオーシャはいつも通りだ。礼儀を守りつつも重すぎもせず、場を乱すほどに軽すぎもせず。

「〈盟王〉は」

「拘束し、一番よく見える場所に」

 他の軍勢はむしろ〈盟王〉を見るために残っているようですが、とオーシャがつけ加えた。だろうな、と軽くマーシスは応じる。自分でも同じことをするはずだ。

 歩を進めた先に竜の姿のサーフィルがいる。体躯はいつもよりずっと大きい。縦だけで馬二頭ぶんはあり、その首の付け根には即席の鞍がついている。

 人の肩にのるどころか、逆に人をのせられるほどの大きな竜が、長い首をぐるりと動かす。マーシスを見て、牙の並ぶ大きな口を開けた。

 オーシャのそばにいたソレイルが硬直している。この大きさのサーフィルを見るのが初めてなら、竜の開口は威嚇か攻撃前の動作にしか見えないだろう。実際は竜の笑顔なのだが。

 近づいて顔を撫でてやると、サーフィルは機嫌よく喉を鳴らす。大きさが変わっても反応は同じだ。

「行くか」

 サーフィルが喉を鳴らし、身を低くした。その身につけた鞍に乗り、マーシスが手綱代わりの輪を手に取れば、ゆらりと竜が体勢を変えた。動作がいつもよりゆっくりで慎重なのは背上にいるマーシスを気づかったのだろう。こちらは大丈夫だという代わりに、竜の首を軽くたたく。裸馬に乗るよりはずっと楽なものだった。

 竜が翼を広げる。

 とん、と爪先で小石を蹴るかのような軽さで地面を蹴ったかと思うと、その体が宙に浮いていた。

 それから一声あげた竜は、翼を動かしもせずに音もなく上昇する。傾きもしていないうえに速い。

 あっというまだった。三度ほど呼吸するあいだに、自分たちは鐘楼以上の高さにいる。

 ――これが竜の視野か。

 初めて見る状景、地の遠さにマーシスは手綱を握りしめた。

 地上の人々が小さく見える。ハビ=リョウの外壁もなんら障害にならない。風は強く足は宙に浮いているようなものだが、恐ろしくはなかった。

 高さを保ったまま、竜は前方へと飛ぶ。白き塔輝く大陸最大の都へ。ハビ=リョウへと。

「俺だけでもよかったのに、お前も物好きだよなぁ」

 彼にしてはかなりゆるやかに飛んでいるはずのサーフィルが軽く言う。

「わたしが始めたことだ。わたしが見ているだけというのは理に合わないだろう?」

 竜は外壁を軽々と越え、都の中央へと飛ぶ。眼下の街は静まりきっていて、街路に黒いしみのような流れができているのが見えた。

「竜人兵を使おうなんて考えないのがらしいけどな」

「彼らは充分働いてくれた。こういうことまでやらせるのはしのびない」

 壊すのなら彼らの力を借りたほうが早いのはわかっている。だからこれは私情の中の私情だ。

「恨みをかうのはわたしだけでいい」

 竜がうなる。

「それは違うぞ、マーシス」

 王宮の前の広場が見えた。地上の様子を確認するよう、竜は広場の形に沿って宙を一周する。

 広場はことごとく枯葉で埋め尽くされていた。その中央、かつて〈新盟〉の軍が並んだ場所に、木を組んで作られた櫓がある。高さは大人の背丈ほど。

 状況を確認して竜が高度を上げた。

「お前の横には俺がいるだろ」

 サーフィルが宙で動きを止める。高さは王宮の塔と同じくらいだ。市街の建物なら十階ぶん以上――そんな高さのものを建てられたとするならば、だが――にはなる。

「――そうだったな」

 人の恨みは竜が受けるべきではない。そんなこちらの思いもとびこえるのがこの竜だった。

 マーシスは手綱から手を離し、背の矢筒に手をのばす。

 矢筒には一本しか矢を入れていない。ある仕掛けを施した矢だ。弓を持ったまま鏃をやすりでこすり、火のついた矢をつがえる。

 狙いは下方。地上ではまずしないような直下へむけて身を傾け、マーシスは弓を引く。

 これは自分が望んだこと。

 そう言い聞かせてから、矢を放つ。

 小さな炎がまっすぐにとんでいく。火を宿した矢が櫓に命中した。

 マーシスは体勢を戻す。

 たちまち櫓は炎の土台となり燃えあがり、散った火花が周囲の枯葉にとび移る。

 広場が朱に染まった。燃えた枯葉の下に撒かれた油へと火は移り、広場から四方の街路へと炎が拡大していく。

 炎が風を作りだす。下からくる風にのるようにサーフィルが動く。先ほどよりも高く、〈白の城〉の塔までと変わらぬ高さまできてサーフィルは止まった。そのあいだにも火は外壁のほうへと進んでいる。

 長かったな、とつぶやく声が聞こえた。

 サーフィルは〈白の城〉を見据えている。見据えた目はそのままに大きな顎が開く。その先に一瞬、光の玉が浮かんだように見えた。

 さながら雲の切れ間からさす陽光のように。それは一直線に〈白の城〉へとのびた――ように見えたが。

 マーシスは目を凝らす。

 鐘の音が響いた。

 無人の王都で鐘を鳴らす者などいない。〈白の城〉のむこう側、鐘を吊るしていた塔が大きく傾いている。光の筋がたどった直線のままに、宮殿が、塔が欠けていた。砂遊びが終わった後のように、そこだけがぽっかりとなにもない。

 鐘の音に塔がきしむ音が重なり、上回る。再びサーフィルの眼前に白い光が集った。一度目より大きい。

 竜がぶんと首を横に振った。

〈白の城〉の奥から内の正殿を横切り前殿まで、すっと線を引いたように光がはしる。触れたものすべてを区別なく灼き尽くし灰に変えていく。地響きとともに塔が倒れ、〈白の城〉へと覆いかぶさる。その衝撃は空中離れたマーシスたちのもとまで届くほどだった。

 そこにさらにもう一度、光の線が閃る。崩れた塔を灰にし、その下の宮殿を塵にしてなお足りぬと地を穿ち、塵と灰と大地をないまぜにした。

 街並みを彩っていた木々が、営みの礎だった家屋が焼けていく。止める者のない炎は炎自身が作りだす風によって広がり、さらに強さを増す。

 竜が声をあげた。

 翼の、尾の、手足のそばに小さな光の珠がたゆたいだす。その大きさはかつて見た竜の卵を思い出させた。自分の拳よりもいくらか小さいくらいの白い珠。

 一つが二つに、二つが四つに。光の珠は数を増やしながら、水面に浮かぶ葉のようにゆらゆらと〝外〟へとただよう。

 千や万ではきかないであろう数になって、光の珠は〝拡大〟をやめた。そうとわかったのは一番外側の珠がハビ=リョウの外壁にまで達したのが見えたからだ。


 ――この都ごと全部綺麗に焼いてやる。


 この竜は一度発した言葉を嘘にはしない。言ったことはやる竜だ。そこにマーシスの意が加わるならばなおのこと。

 静かに、音もなく光の珠が落ちていく。

 重さを感じさせない緩慢な落下は、どこか雪の降るさまを思わせる。


 それはとても――とても美しかった。


 降りそそぐ光の珠がまず接したのは、かろうじて残っていた宮殿の屋根。

 たちまち爆音とともに光が炸裂し、燃えあがる。

 そこから後は、あらゆるものが爆発し燃えていった。宮殿も外壁も家屋も商館も石畳さえも、見下ろすすべてが激しい光と音を散らし瓦礫となり炎を撒いた。新たに生まれた炎が家屋を崩し、崩れた建物が隣の建物を燃やし、火矢より生まれた炎と混じりあう。

 瓦礫の上に、残骸の上に光が降る。炎が舞う。守りの堅さを謳った外壁もあちらこちらからひび割れ欠けて、もろくなったところから崩れだす。

 そこに――人間がいた。

 南の外壁の上に三人の男が転がり、目の前の惨状に何事かを叫んでいるようだったが、こちらまで声は届かない。

 彼らの両側の外壁はぐらついており、崩壊はまもなくというのがありありと見てとれたが、彼らはそこから動けなかった。両腕両足を砕かれた三人のカナレイア人は、一人は崩れる壁にまきこまれ、一人は落ちて動かなくなり、一人は迫る炎に怯えながら砕けたレンガ片を頭にくらう。そんな骸を炎が容赦なくのみこんだ。

 最後の光が爆ぜても、炎の勢いは弱まることなく、誰かの生の痕跡を、歴史を、ここにあったものごと市街すべてを熔かしていく。この高さまでその熱が伝わってくるほどに。

 かつて大陸でもっとも美しいといわれた都の姿はもうどこにもない。ここのあるのは炎に煽られ崩壊する〝旧都〟。

 このさまを、自分は生涯忘れることはないだろう。爽快さも成し遂げた充実もない。地上の炎に対して心は凪いでいた。

 この火も永遠に燃えるものではない。焼くものがなければおのずと消えるだろう。そのときはこの心のように静かな地になるのだろうかと、そんなことを思う。

「……帰るか、サーフィル」

 マーシスは青い鱗が並ぶ首を撫でる。

 ふわりと柔らかく翼を羽ばたかせると、竜はゆっくり南へと向きを変えた。


 これ以来、この地に人が住むことはなくなり、人々は違う名でこの地を呼ぶようになる。

 〈朽都〉。

 竜の怒りを受けた者の末路――そのもっとも明らかな例として、炎が鎮まった後も誰一人ここには触れようとせず、都の屍は荒野にさらされ続けた。



 ※



 自陣に戻ったマーシスたちを迎えたのはバルトとハッスーフだった。竜からおり、かけつけてきたソレイルに弓を渡してから、マーシスは二人の王にむかって一礼し、訊ねてみる。

「〈盟王〉と宰相はどうでしたか」

 今日、〈盟王〉たちを預かっていたのはこの二人だ。

「宰相は都を見ながら笑っていました。なにがおかしいのかわかりませんが。〈盟王〉もなにを考えているのか」

 彼は眉一つ動かさずに燃える都を眺めるだけだったという。悲しみもなにも浮かべずに。

 そういった情があったとしても、あの男が涙することなどないだろう。彼にとって都は、愛の対象ではない。

「ん? サーフィル公はどうされた?」

 バルトが周囲を見回している。ついさっきまでいた、見逃しようもない大きな目立つ姿が消えていた。

「あれは仕度があるので」

 勘のいい二人が揃って顔つきを変える。

「確かに、公がおられなくては始まらない」

「ではこちらも仕度をしてまいりましょう。〈盟主〉も」

 うなずきあい、自陣へかける二人を見送ってから、マーシスはソレイルを連れて自分の幕舎に戻る。

 幕舎に入れば、人のベッドで寝そべりくつろいでいる青年がいる。当然サーフィルだ。一応服は着ている。

「……サーフィル、ずっと思っていたんだが」

「なんだ?」

「お前の服がこっちにあるおかげで荷物が増えてかなわん」

 ソレイルが弓と空の矢筒を武器の箱にしまう。それを見ながらサーフィルは足をばたつかせていた。

 竜の姿でそのまま飛べばいいのに、何故かサーフィルはこの幕舎で服を着ていく。

「もともとそんなにあるわけじゃいし、別にいいだろ」

 のそりとサーフィルは体を起こす。

「マーシス、お前疲れてないか」

 こちらに来てからずっと疲れっぱなしだ――とは言わないことにした。人の感情がわかる生き物相手に隠しても仕方ないとわかってはいたが。

「それが?」

「いや、あれだけ高いところに人間がいることはないだろ?」

「そこはあまり気にならなかったな」

 竜や鳥が見ているのはこんな視界なのかという、静かな感慨はあったが。

 ソレイルが二人分の水を持ってきた。先にマーシスに渡し、それからサーフィルに。一口飲んでから、自分の喉が渇ききっていたいたことを自覚する。

「お前といてわたしになにかあるとは思えないし」

 これは本当だ。そこがどんな場であれ、サーフィルといて自分がどうにかなるというのは想像がつかない。この竜が自分の危機を、危機となりそうなものを見逃すはずがないのだ。

 一気に杯を干したサーフィルがにやついている。やけに幸せそうだ。自分といるとき、時々サーフィルはこんな顔をする。

「で、そろそろか」

「ああ」

 二人とも詳しくは言わない。事前に段取りは決めてあった。

 サーフィルが寝転がりかけてやめる。

 外がにわかにざわつきだした。マーシスは杯の中身を飲みきる。

「……行くか」

 サーフィルが立ちあがる。すっとソレイルが杯を受け取る。こちらもやってきたソレイルに杯を渡す。

 二人で幕舎の外に出る。入口のすぐそばにオーシャが控えていた。

「陣の前に〈盟王〉が」

 日が傾き、陽光の赤味が強くなる。

 マーシスはサーフィルを連れ、自軍の陣の前方、ひらけた場へと進む。そこには残留する〈新盟〉の首脳陣すべてが揃っていた。

 ぐるりと円を描き、王たちと兵たちが囲んでいるのは、縛された〈盟王〉と宰相だ。

 まるで見世物だ。だがこういう〝儀式〟が必要となるのが人の世である。中央で膝をつく二人の前までマーシスたちは歩いていく。

 宰相は笑っていた。壊れた者がする呼吸のような、健全さのない笑いだった。

「なにもない。なにもなくなった」

 笑いながらもそうくり返し、宰相はこちらを見上げる。

「おまえも、そうなる。ぜんぶなくなる」

 それだけ言ってまた笑いだす。

 ――この男は、富と権力だけがすべてだったのだな。

 横に主君がいるというのにまるで見えていない。失ったものを嘆きはするが、何故そうなるに至ったかなど考えもしない。〈盟王〉ですら富のための座にすぎず、忠誠など微塵もなく、ただ利をえるために従っているにすぎなかった。――がゆえの末路がこれだ。佯狂ですらない。

「ソレイル!」

 マーシスは後方に控えているはずの少年を呼び、ふり返る。

「〝親〟の仇を討つなら、今が最後の機会だ」

 ソレイルは首を横に振った。

「すでに朽ちた相手でございます」

 きっぱりした返答にマーシスの顔が和らぐ。あの少年が親殺しという道を選ばなかったことに。自分と違い、己の恨みを次につなげない道を選んだことが、なにより喜ばしかった。

 おまえも、おまえたちもこうなるのだ、なればいい。そうくり返す宰相をおいて、マーシスはもう一人のほうへ行く。

 〈盟王〉の前まで来て、マーシスは地に膝をついた王を見下ろす。目が合う。その目からまだ力は失われていなかった。

「なにか言い残すことは?」

 まだなお威厳ある王だった。この王が善政を敷いていれば、違う形で歴史に名を残していただろう。

「ない」

 答えは短い。あきらめているのではなく、本当に、本心から答えるものがないとその顔とたたずまいからうかがえる。

「妻子は気にもならないか」

「敗者の家族の行方は勝者が決めるものだろう」

 正論を述べている――そのように見えなくもない。一方ではこの言葉は正しかった。

 だが同様に、この言葉は彼が家族というものに対してなんの思いもないことを示している。

 当人が言うように、この男の〝愛〟は蹂躙の場、戦場にしかないのだろう。

 こんな他者を思うことのない男に呪詛も哀れみも響きはしないととうにわかっている。そしてこの男も、己の理が誰にも届かないことを理解していた。

 ――王子になど生まれなければ。

 もっと死人は少なくてすんだのかもしれない。今となってはどうしようもないことだが。

 マーシスは剣を抜く。


「――この王と臣下は、暴虐ゆえに死ぬ」


 一際声を大きくしたのは、距離をおいて自分たちをとりまく〈新盟〉の人々に伝えるためだ。

 マーシスのそばで喉を鳴らす音がした。

 〈盟王〉が笑っている。

「都を焼いた者が、暴虐を語るか」

 そんな〈盟王〉の言葉に動揺できる時期は、とうにすぎていた。顔色を変えずにマーシスは返す。

「それはわたしが受けること。貴様の言うことではない」

 マーシスはやってきたサーフィルに剣を渡す。王の剣を受け取ったサーフィルがこちらを見た。

「俺の好きなようにやっていいんだな?」

「ああ」

 自分のそばにいること以外で、唯一やりたいと言っていたことだ。それを止める気はない。

 彼に自分の剣を渡したのは、〈竜王子〉の行動は王の意志でもあると示すため。

「先にやるならこっちか」

 抜き身の剣を手に、まったく気負うことなくサーフィルは進む。衆人の注視などないかのように。

 宰相の前まで進んで、彼はすっと腕を動かした。

 あまりに早く、そばにいたマーシスですらもなにをしたのかよくわからない。

 ただ、笑い声がやんだ。

 それからばたりと、宰相ドウエルの体が前へと倒れ、地面に血だまりができて広がっていく。

「次か」

 つまらなさそうにつぶやいたサーフィルが〈盟王〉の前へと歩いてくる。

「人の王である。それだけで竜を手に入れられると思うな。人の理と竜の理は違う」

 サーフィルは剣をかまえていない。〈盟王〉は不思議なものを見つけたようにサーフィルを見上げている。

「――なによりお前は俺の王を嘆かせた。それだけで充分死に値する」

 今度の動きはゆっくりだった。剣を持ちあげ、おろす。見せつけるためだろう、その動きがよくわかった。

 膝をついた〈盟王〉の腹に剣が刺さっている。腹の半ばを越えて背側に至りそうなほど深く。

「そう楽に死ねると思うな。じわじわと息ができなくなるように、身動きもとれずに死ね」

 わずかにうめく相手から剣を抜き、軽く振って血を落としてから、サーフィルはマーシスの横に戻ってきた。

「好きにしたぞ。――後はまかせる」

「ああ」

 宰相はさておいて、〈盟王〉はまだ生きている。

「この者らを板にのせ、副都前の街道へ」

 受け取った剣をしまいもせず、マーシスは告げる。


「葬礼も認める。治療以外のすべては自由だと記して野に捨てよ!」


 これが、〈竜人戦争〉の実質の終焉の声となった。

 一際大きな歓声があがる中、マーシスとサーフィルは人々の輪のほうへと歩く。



 ※



 人々は去っていく。ハッスーフとバルトはその日の晩、ささやかな酒宴を開いた翌朝にはこの地を発った。ツォグタイも冬が本格的になる前にと焦り軍を引き払い、メイアも宣言通り二晩ほど〈盟主〉との勝利の杯を堪能し、戦果はあげられたと満足して帰っていった。

 セイレーネがナクルの陣にやってきたのはその次の日だ。

「我々も明日ここを発つ予定です」

 会合用のものではなく、個人の幕舎でそう言ったセイレーネの肩には茶色い竜がいる。簡易のテーブルに並んだ皿には菓子がのっていたが、すでに皿は空だ。

「〈盟主〉にはどだけの言葉を尽くしても足りぬほどの恩恵を受けました」

 セイレーネの顔は初めて会ったときよりもふっくらしているように見える。

「こちらこそアスリングリッドの兵力に助けられました。なにより妃殿下の御言葉にも」

 自ら茶をいれ、マーシスはセイレーネにさしだす。彼女には酒より茶のほうがいいだろうとソレイルに頼んだものだ。

 カップを口元まで持ちあげ、セイレーネは茶の香りを楽しむように目を細める。一口飲んでから彼女は言った。

「……後悔は、なさいませんか」

「すると思います。死ぬまでずっと」

 この人の前で自分を飾るような言葉は口にできなかった。

 ――一つの都を焼いたことについて。

「やりすぎだという人もいるでしょうが、そうでもしなければわたしは止まれなかったし、進めなかった」

 本来の陛下は、とセイレーネが微笑む。

「そんなことを望まず、戦いなども考えない。そういう御方だと妾も思っています」

 とん、とコグがテーブルにおりた。空の皿を切なそうに見つめてから、セイレーネとマーシスの顔を交互に見上げて首をかしげる。

「この竜は本当に菓子が好きなようで」

「別に食物は必要としてないはずなんですが……」

 とはいうものの、この竜が人の食事に味をしめるきっかけを作ったのは自分だ。

「〈盟主〉がおっしゃっていたように、生の果物には興味をもたないのに、干して焼き菓子に添えるとぺろりと食べるのが楽しくて」

「人が手を加えた料理というのがいのでしょうね、コグは」

 昔一緒にいたころ、貴重な南の果物には見向きもせず、イトルット――小麦とモウクの実を混ぜて焼いたナクルの素朴なおやつだ――のほうに夢中になっていたのが懐かしい。

「手を加えるといえば、陛下」

 セイレーネがコグに手をのばしつつこちらを見る。

「〈盟王〉の国を引き継ごうとはまったく考えておられないのですね」

「はい、まったく」

「ならこの〈新盟〉は」

「ええ。せいぜいわたしの生きているあいだ――早ければ十年ぐらいでうやむやになるでしょう」 

 大陸に覇を唱えることもできた。あの〈盟王〉のように。しかしどうしても自分はその気にならなかった。一言でいうならそれになんら魅力を感じない。

「この盟の一番の目的は〈盟王〉を倒すこと。それを成した今〈新盟〉の意義ももうあってなきがもの。『ああ、あのときは世話になった』と昔語りになるでしょう。それでいいとわたしも思っています」

 かつてハビ=リョウからナクルに戻ったとき、自分が誓ったのは「この国をもっと強くする」ことだった。

 強く――他の国に虐げられることも虐げることもない国に。

「野心のない御方ですね、陛下は」

「ないわけではないのです――ナクルの領土ぶんがせいぜい、というだけで」

 ナクルの領土はアスリングリッドの半分もない。

 茶を飲み、翼を広げたコグの背を撫でながら、マーシスは続ける。

「できうるならばこれからもアスリングリッドにはお世話になりたいと思っているのですが」

「妾どもでしたら、喜んで」

 国力でいうならアスリングリッドのほうがはるかに上だ。にもかかわらずセイレーネは間をおくことなく答えた。

 少なくとも自分たち二人が生きているあいだは両国のつながりは消えることはないだろう。アスリングリッドのセイレーネ王妃がうなずくということはそういうことだ。

「ジャライル王は副都の開発もありもう少しこちらに留まるということでしたが、陛下はいつまでこちらに?」

「もう少し見届けたらわたしもナクルに戻る予定です。そろそろうちの宰相がこめかみをひくつかせていそうなので」

 見届ける、とセイレーネがくりかえす。

「いずれ朽ちる骸のために、時を無駄になさることはないと思いますが」

 陛下とも、〈盟王〉とすら彼女は呼ばなかった。

 いまだ〈盟王〉と宰相の屍は副都のそばの街路脇にある。葬礼は自由と告げてあるが、誰も弔う者はいない。出身国に帰らせた妃やその子供たちの誰一人、声をあげることも手を出す者もはいはしなかった。ゆえに彼らの屍はそのまま風雨にさらされ続けている。

「わたしが始めたことの結果です。己の目で見ておく必要があるかと」

 自分でも何度か彼らを見に行ったことはある。

 だんだんと朽ちていく屍には、あきらかにサーフィルがつけた傷以外のものがあり、それは日ごとに数を増やしていった。相手の生死にかまわず、せめて一度なりと。そう考えた人物は少なくなかったらしい。

 死後についた傷の多くは刃物によるもので、護衛の見立てではさほど重くも大きくもない、女性でも持てるような短剣だろうという。

 〝同胞〟かあるいはそれ以外の誰かか。心当たりはありすぎたし、それを咎める権利などマーシスにあるわけもない。それに「治療以外は自由」と言ったのも自分だ。

 ――それをこの方に言うのもいらぬ世話か。

 こちらを見てテーブルの上のコグがうなる。

 昔からそうだった。この竜はこちらが暗いことを考えるとうなるかたしなめるようにつついてくる。

 うなってからコグは片側ずつ翼と足をのばし、こちらを見てうなずいた。それからとことことセイレーネの側に寄り、丸くなる。

「すっかり殿下になついたな……そのまま一緒に行く気か?」

 丸くなった尾の先が機嫌よさそうに揺れている。

「妾はかまいませんが……よいのでしょうか」

「気にいらないか飽きれば出ていくでしょうし、殿下がよろしいのでしたら是非」

 自分もコグを育てた〈竜の友〉に似たようなことを言われたものだった。そこからすべてが始まったと言ってもいい。

 ゴーチェと出会い、コグと会い、イグと会い、まだ卵だったサーフィルと会い――そうして今の自分がある。

 前触れなくばさりと幕舎の入口が開く。入ってきたのは軽装の上にあちこちに草と土汚れをひっつけたサーフィルだ。

 その手には蓋付きの平皿。テーブルの上のコグが翼を立てて勢いよく立ちあがる。

「あ、やっぱり。コグのいる感じがしたから王妃さんもいると思った。当たりだな」

「サーフィル様」

 片手で皿を持ち、サーフィルが近づいてくる。

「もうじき王妃さんも出発するだろ? 王妃さんにはマーシスが世話になってたし、ちゃんとお礼とか挨拶言っとかないと、マーシスが怒るから」

 そこまでわかるのにどうして身なりまで頭が回らないのか、この竜は。

「妃殿下の前だぞ。せめて土くらい落としてこい」

「悪い、どうしても焼きたてがいいと思ったから」

 顔の汚れもそのままに、サーフィルはテーブルに平皿を置いた。コグの翼の広がり具合からして中身は間違いなく菓子だ。

 サーフィルが蓋をとる。中に盛られていたのはごく薄く布地のように焼いた菓子――イトルットだ。

「モウクの実の時期にはまだ早いぞ」

「うん。だからなってるところまでいってきた」

 生地の香りづけに使うモウクの実は熟すまでが長く、食べられるのは冬だ。この時期にモウクの実がなるような場所は、よほど北にあるか標高が高いところになる。いったいどこまで採りに行ってきたのか。

 サーフィルは次に木苺のジャムと匙を置く。

「これつけて食べるとうまいんだ」

 というか、ジャムなしではほぼ香りの違う小麦の味しかしないのがイトルットだ。

 マーシスは一番上の一枚にジャムをぬり、中のジャムがはみでたり落ちたりしないように気をつけながら、三度ほど折りたたむ。

「せっかくですのでどうぞ、殿下」

「これは、このままいただいてよろしいのですか?」

「ええ。中身がこぼれないよう端から」

 王妃に手渡してからマーシスは二枚目を手に取り、同じようにジャムをぬって折りたたみ、コグに手渡す。心得たもので、コグはすっと受け取ると一番ジャムの薄いところから食べ始めた。甘さが後にくるように。

「……不思議な、木苺とは違う甘い香りがしますね。これは」

「モウクの実です。ナクルによくある木の実で、少し甘くて香りがいいので冬の甘味に使われます」

 イトルットはナクルの料理の中でもごく素朴な、貧しい山間部における貴重な甘味で、およそ一国の王妃に出すような品ではないが、彼女はいたく気に入ったようだった。

 山間部の数少ないおやつ――それを知っていたのも、父がもともとは羊飼いで、幼いころはこれを楽しみにして育った人物だからだ。王になっても冬になると夫婦揃ってこれを食べ、それから家族が増えてもこれは王の冬の楽しみであり続けた。

 三枚目にジャムをぬって折りたたみ、サーフィルにむける。

「調達者に渡さないわけにはいかないからな」

 受け取ったサーフィルの、もうちょっとジャムが多いほうがよかったというつぶやきは聞かなかったことにする。

 次のイトルットにマーシスは手をのばす。

 自分のぶんのイトルットにジャムをぬっているつもりだったが、すでに食べ終えたコグがじっとこちらを見ている。それはもうまじまじと。仕方ないと中央に少し多めにジャムをぬり、彼好みの甘さにしたものをコグに渡す。

 それを見ていた王妃がどこかわくわくしたように言う。

「……陛下」

「はい」

「もしよければ、自分でぬってみてもかまいませんか?」

「もちろん」

 ジャムを王妃のほうへそっと押しだし、匙を添える。

 横から半分になったイトルットがさしだされた。

「まだマーシスが食べてない」

 分量としてはきっちり半分。だが食べやすい中央側だ。

「そういうところだよな、お前は」

 受け取ったものをかじり、噛みしめてからマーシスは茶を飲む。その前でセイレーネがジャムをぬっている。

 ――母上はこういうのを楽しみにしていたのだろう。

 セイレーネには同じ場にいる相手を和ませるなにかがある。コグもきっとそこにひかれたのだろう。

 薄く、かつ全体にまんべんなくぬれて機嫌をよくした王妃の前で、マーシスはそんなことを考える。王妃から半分をもらったコグも嬉しそうだ。

 その後、王妃はイトルットの作りかたを聞き、マーシスはモウクの実を送ることを約束した。以降数十年にわたる両国の交流の始まりが地味な木の実であることを知るのは、ここにいた四者のみである。



 アスリングリッド軍を見送った十日後、ナクル軍も民と共に帰路についた。


 〈盟王〉と宰相の遺骸は誰に弔われることもなく、獣に食われて朽ちたという。

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