15・重なる泥濘
その日の夜、〈新盟〉の主だった者たちが一堂に会した。集めたのはマーシスだ。その背後にサーフィルが立っている。
幕舎の中の面々は手にした仮案を一読し、それぞれに困惑の表情を浮かべていた。
「……よろしいのですか、〈盟主〉」
困惑を問いにしたのはセイレーネだ。
眉間に皺を作り、マーシスの仮案を読んでいた彼女だが、少なくとも最初から「反対」とは言わなかった。
「わたしが作った案です。わたしに異論はない」
断言したことで面々の顔つきがまた変わる。
マーシスはテーブルの上に置いた書面に目を落とす。
――明日中天より三日、〈盟王〉と宰相の財の収奪を許す。
この第一項自体、多くの者からすると「まさか」という内容だったはずだ。略奪の命令などマーシスもその名代も出したことはない。一部の王が口角を上げたのは〝あがり〟を期待したものだろう。
「ただし、都の民には指一本触れるな。その財産も同じだ。今回はあくまで王と宰相の財にかぎってのみこれを許す」
人数が人数だ。三日もあれば宝物庫も空になる。そうとみこしての期日だ。そして続く第二項。
――それから一月後、ハビ=リョウを廃す。
「廃す、とはどういう意味です」
ハッスーフが怪訝な顔をしている。そこはあえて曖昧にしたところだった。
「都としての機能をなくす。ありていに言えば、焼き尽くす」
こちらの答えにハッスーフが黙る。代わりに口を開いたのはセイレーネだ。
「命は奪わぬとおせでしたが」
「それは今でも変わらない。この一月のうちにハビ=リョウの民には副都に移ってもらう」
ジャライル、と名を呼べば、青と金の布で髪を飾った王がうなずいた。
「準備は六割ほどできております。まずは冬の前に仮の家ですごしてもらうことになりますが、希望する者には土地も用意しますし、けして悪いだけの話ではありません」
ジャライルの顔からしていい商売ができているようだ。六割とは進捗も早い。
「……これはわたしの報復だ」
私怨であることを肯定し、マーシスは一同の顔を眺める。納得している者、収入を楽しみにしていそうな者、疑念を消せぬ者と様々だ。
「〈盟王〉の痕跡を消す。あの男の栄光も財もこの地上には残さない」
先に伝えたことを反故にするような真似は己で許せぬから、都の住民の〝命は〟守る。それだけともいう。
「手元の通達の形式を見てもらえばわかるだろうが、これはもう決定とみなしてもらってかまわない。収奪には加わらないというならそれもいい。すでに市長には同じ文面を送っている」
これはこの戦争が始まって以降初めての、そして最悪のナクルの独断だ。
にもかかわらず皆が黙ったのは、目の下にくまを作っている〈盟主〉の、今までになかった圧のためだろう。
「夜分に集まってもらってすまなかった。以上だ」
それだけ言うとマーシスは立ちあがり、皆を残して先に幕舎を出た。その横に影のようにサーフィルが並ぶ。
歩きだすとサーフィルが問うてきた。
「……ジャライルにいつ話を通したんだ?」
「包囲の前だ」
彼は以前から副都の開発に手を出していた。それに便乗した形である。
「そちらこそ、いつのまに竜らしい術を覚えたんだ?」
夕暮れ時に見た懐かしいような光。あれは竜が術を使ったときのものだ。
「コグが来てから教わった。役に立つもんだな」
他者の目と耳をごまかせる術。自分が初めて見たのはコグのものだった。
自分の幕舎まで戻ってから、剣を置き、サーフィルに手伝ってもらいながら甲冑を脱ぐ。一つ外すたびに体にどれだけ負荷がかかっていたか実感できた。
湯浴みまではできないので、ソレイルに持ってきてもらった湯入りの桶に布を浸し、それで全身を拭いてから着替える。着慣れた羊毛の服の軽さが心地いい。
ベッドに腰かけていると「失礼しますよ」とオーシャがやってきた。酒瓶と小鍋と皿を両脇に抱えたオーシャがこちらを見るなり「おわ」と奇妙な声をあげる。
「……どうした」
「いやですね、陛下がちょっとすごい顔をされているので。……サーフィルが心配するわけだ」
どかりとベッドの前に座り、オーシャが鍋を置く。その横でサーフィルが腰をおろした。
「ソレイルも『絶対おかしいです』と泣きついてくるし、ろくに食べてなさそうなので持ってきました」
オーシャが鍋の蓋をとれば、煮込んだ野菜のいいにおいが幕舎のうちにたちこめた。野菜のスープを小皿にとり、さじと一緒にこちらにさしだしてくる。
「空の胃に酒はよくないですからね」
「……そうだな」
受け取り、一口すすれば温かさが身に染みた。味付けはごくあっさりしていたが、干し肉の味が出ていてうまい。
「なにがあったかなんて間抜けなことは訊きませんが、せめて御体は大事にしてくださいよ。うちの兵は丈夫だし、そこの竜も頑丈ですが、それを率いる陛下になにかあったらなんの意味もない」
「覚えておく」
いつもの干し肉を主とした糧食にせず、手を入れたスープにしたのはオーシャかソレイルだろう。少しでも体に優しいもののほうがいいだろうと。
「……オーシャはなにも言わないのか」
なんのことだ、とはこの臣下は訊き返してこない。
「都を焼く、といったらまあ多少は申し訳ない気持ちにはなりますが。――とはいえ〈白の城〉だけは焼きたいってのが本音で」
「サーフィルと同じことを言うんだな」
「理由は違いますがね」
オーシャが自身のために酒をつぐ。
「惚れてる女に剣をむけられた恨みを笑って流せるほど、人間できていないので」
彼がナクルを出てハビ=リョウにいたのは二度。留学する王子の護衛と、あの〈御召し〉に出た〈竜の友〉ゴーチェの護衛としてだ。
「そういえば……帰ってきたときのゴーチェは」
白い竜に乗り戻ってきたゴーチェは、オーシャのローブを羽織っていた。黒いドレスの胸元が大きく開いていて、目のやり場に困ったことを覚えている。
「王の前に出られるのはイルとゴーチェだけだったんで。でなかったら絶対させませんよ。卵を取りだすために女の両腕つかんで引きずり倒して斬りつけるなんて真似、ゴーチェ相手でなくとも許せるものじゃないですがね」
オーシャの言を受け、当時の大使は更迭したが、以来ナクルに帰ってきてはいない。ゴーチェが王のお気に入りだという話を聞いて恐ろしくなったのだろうとノンディが言っていた。
ようやく皿が空になる。
「もう一杯いります?」
そう言うオーシャにマーシスは首を横に振って答えた。
「……オーシャはフィラル兄上とエラン兄様のことを覚えているか」
兄たちと自分は母親が違う。だからといってなにかがあったということはない。同じ家族として兄たちは自分を扱っていた――と思う。
一番記憶が曖昧なのは姉のルーディについてだ。最初にハビ=リョウに留学に出たため、一緒にいた時間が一番短い。
「フィラル殿下よりエラン殿下のほうがよく覚えてますね。年も近くて話も合ったし。フィラル殿下はこう、ヨウグの爺さんたちが絶賛する堅物でしたから」
近衛入隊以来、オーシャは王子たちについていた。今でこそ王の副官のような立場にあるが、最初は王太子付だ。それから下の兄の希望で王子付になったはず。
「特にエラン殿下は陛下に参ってましたね。『あんなかわいいのが自分の弟なのが信じられない』とか言って。勉強の時間になっても姿が見えないと王宮中探して、結局弟と中庭で寝てたとかしょっちゅうでしたしね」
それはなんとなく覚えている。隠れるにはいい場所を教えてくれたのは下の兄だった。
「留学のときも『弟と会えないのが一番つらい』と何度も言ってましたし」
「……そんなにだったか?」
上の兄より年が近いぶん、一緒にいることは多かった記憶はある。公の場に出るときもあれこれ面倒をみてくれたのは下の兄だった。
「だからまあ――あの殿下が今の陛下を見たら、それこそ目を真っ赤にして泣くんじゃないですかね。『あの弟がこんなに立派になって!』って」
「立派、か……」
私怨で一つの都市を滅そうとしている弟を、兄や姉は、両親はどう思うだろう。推測しようにも彼らと別れたときの自分は幼すぎた。幼い子供が覚えている〝優しい家族〟は、陽炎のようにぼんやりとして、春の日のように暖かく和むものだが、それぞれの思考を追えるほどしっかりしたものではなく。彼らがどんな顔をするかさえおぼつかない。
「まずいと思ったら止めますし、そうでなければついていくだけです。陛下は好きなようになさってください」
すっとオーシャが腕をのばしてくる。やや間をおいて考えてから、マーシスは空の皿とさじを渡した。
「ありがとう、オーシャ」
「酒はどうします?」
「今日はやめておこう」
それは残念、とオーシャはあっさり酒瓶をひっこめた。
「明日はうちの軍は動きませんが、それでいいですね」
「ああ」
竜人兵の性質から略奪は一番遠い。やれと言っても彼らは渋り、動きが重くなるだろう。
「それよりハビ=リョウから脱出する者の手伝いか、クレイグの副都開発のほうに回したい。希望する者は、だが」
「あいつらもそっちのほうが喜ぶでしょう。明日にでも兵から募ります」
そう言って彼は酒瓶と鍋と皿をかかえて立ちあがり、「では」と幕舎を出ていった。
「――サーフィル」
「ん?」
ずっと様子をみていたサーフィルがこちらに寄ってくる。
「いつのまにオーシャに声をかけた」
「会議の前、お前があれこれ書いてたときだな」
そういえばサーフィルが自分のそばから離れたときがあった気がする。
「いつもより派手にぶっ壊れてるから、念のためオーシャにも見といてもらおうかと」
マーシスは床に座るサーフィルをにらむ。
――ぶっ壊れている。まあその自覚はある。そうでなければあんな通達は出さない。
「過保護」
口をついて出たのはそんな言葉だった。
サーフィルがぷっと噴きだす。
「それを言うなら八年くらい遅いぞ。俺の前のコグから、竜はみんなお前に甘い」
サーフィルに会う前に、マーシスは二月ほどコグを預かっていた。預かるというよりは一緒にいてもらっていたというほうが正しい。
「竜人兵がどうしてナクルにきたか――竜たちがなんで卵を置いていったか、お前ももうわかってるだろ?」
「ああ」
コグはサーフィルのように人語を離すことも人の姿をとることもなかったが、常にその二月はマーシスのそばにいた。
幼い自分はコグにいろんなことを話した。自分のこと。家族のこと、国のこと。それらの窮地を。この国がどうやったら生き延びられるかを。
なんらかの方法でコグは他の竜に伝えたに違いない。
そこに〈盟王〉の〈御召し〉の場で事件が起きた。
気まぐれで竜を集めるという不遜、そこで孵ることになった同種への情――苦痛の場で生まれざるを得なかったことへの憤慨。それらが竜を動かしたのだろう。
あの若い茶色い竜の願いに応じてやってもいいだろうと、多くの竜が動いた結果が竜人兵だ。竜の卵から生まれた、竜の力を持った人。
「なあ、サーフィル」
人の姿をとる竜にむけ、マーシスは問う。
「わたしを狙う者を何人始末した?」
この竜はわがままだが、行動のほぼすべてはマーシスのためだ。コグから術を学んだのも、そのほうがマーシスのそばにいるのに都合がいいと考えたからだろう。
いちいち隠れて物事をなすことなどないサーフィルだ。そんなサーフィルが人目を忍ぶような術を覚える必要があると考えるとすれば、それくらいしかない。
「さっきのスープの具よりは多いな」
「皿の中か。それとも鍋の中か」
「さあ。でもどっちでももう同じだろ」
つまらなさそうにサーフィルは腕を頭の後ろで組む。
「刺客の出所は」
「追っても同じだからそのまま埋めといた。半分以上はカナレイア方ぽかったが」
残りはこの〈新盟〉についた国からか。
それほど意外なことではなかった。亡くなった者を「偉大な志を持ち〈盟王〉を討った王」ともちあげ死を悼みながら、次の〈盟主〉の座を狙う者がいてもおかしくはない。
「ただ、キルシュとチルギス、クレイグからはおそらく来てない。人のにおいが違うからな。……他の国の人間を使ってたらさすがにわからんが」
「クレイグもか」
「俺もそう思った。あの国なら人を買うくらいはやりそうなんだが」
ジャライルは目敏く抜け目がない。生かしておいたほうが儲かるとみれば、他国の刺客を殺して一番いいときに恩を売るくらいはやりそうである。
「この三日ほどはどこの国も見てないな。さすがにもう飽きたのか」
のんびりとサーフィルは言う。マーシスはその前を歩き、甲冑のそばに置いていた水筒の水を飲む。時期柄か、それほどぬるくはなっていなかった。
水筒を置いてベッドに戻り、両腕を上げ背をのばす。甲冑は脱いだというのにまだ体が縮こまっている気がする。
靴を脱ぎ、マーシスはベッドの中にもぐりこむ。それからいつもよりやや奥に寄る。
「来い、サーフィル」
声をかけると同時に、がしゃんと物々しい音が響く。それからがしゃがしゃと音を立てて床に落ちた甲冑が動き、中から青い竜が飛びだしてきた。
竜はひょいとベッドに飛びのり、翼をたたんで毛布の中にむりこむ。横むきになったマーシスの胸の前あたりの定位置で一度丸くなってから、サーフィルは毛布の外まで首をのばした。
「……いつも思うが、一瞬で甲冑が脱げるのは便利だな」
「だろう?」
横になると疲労がどっと押し寄せてきた。大きなあくびをしてからマーシスは目を閉じる。閉じようとおもったからそうしたのではなく、目を開けていられなかったのだ。
顔になにかが触れてくる。
――猫じゃあるまいし。
頬に顔を寄せてくるサーフィルを払うのすら億劫で。小さな息をそばで聞いているうちに意識は落ちた。
※
翌朝。曇天の下、マーシスはサーフィルと〝散歩〟に出た。ともに帯剣はしていたが、他の護衛はつけず二人きりだ。
馬をかけさせ、自軍から離れたころにはサーフィルもおおよその行き先はわかったはずだが、なにも言ってこない。
ハビ=リョウの西外壁が近くなる。それから二頭の馬は街道をまっすぐ馬なりで進む。
「……先にとっときたいものでもあるのか」
ようやくサーフィルが口を開いた。
「それなら昨日のうちに動いておけばよかったのに」
「別に欲しいわけではないんだ。一度見ておきたいだけで」
そうか、とサーフィルがうなずく。
西門をくぐり街をゆけば、広場から戻ってきたとおぼしき子供がこちらに気づき、ぎょっと目を丸くした。今この状況で都を騎馬で進む者がどういうものか、子供ながらになんとなくでもわかったのだろう。
広場ではクレイグを主とした〈新盟〉からの物資が分配されている。それを避けるように脇の道を北へと進み、マーシスは王宮のそばまできて馬をおりた。マーシスにならいサーフィルも馬からおりる。
獣の声が奥から聞こえた。馬と犬の声だ。
「……ここは?」
「王宮が管理している厩舎と犬舎だ」
仕切りに手綱をひっかけ、マーシスは木の扉を押してみる。鍵も閂もかかっていない扉はたやすく開いた。
二人が中に入ると、背が曲がった老人が飼い葉桶を持って歩いている。老人はこちらを一瞥しただけで厩舎のほうへのそのそと歩いていく。
「誰だね、あんたら」
公用語だが、東部の訛りがきつい。キルシュ近辺あたりの出だろう。
「ナクルのマーシスと言う。こちらはサーフィル」
「はぁ、ナクルの」
老人は来訪者も時勢にもさほど興味がないらしい。慣れた動きで桶の中身の半分を馬の前に置いていく。
「……いい馬だな」
サーフィルが言う通りだった。どの馬も手入れが行き届いているのは無論、生来恵まれた体つきであるのがわかる。
「キルシュが六にファイが三、他が一」
こちらを見ずに老人が言ったのは馬の出身だろう。いずれも名馬の産地だ。
「戦が始まればこいつらも駆り出される。不憫なことだ」
サーフィルがこちらを見て怪訝な顔をした。知らないのか、というように。
老人は〝外〟を知らないのだろう。この厩舎犬舎だけが彼の世界であり守るべきものなのだ。
「〈盟王〉からなにか命令は受けてないのか」
訊ねてみると老人は「命令?」と鼻で笑った。
「『死んでもここを守れ』とだけだ。それ以外はなにもない。戦争と狩りのとき以外、あの王様は馬と犬のことも忘れてるんだろうよ」
「ならその飼い葉は」
「広場で分けてもらう。キルシュの馬が飢え死にすると言ったら、あの、なんつうか〈新盟〉だったか? あそこの兵が持ってきてくれた」
「……お前もキルシュの民か」
先王の麾下だった、と老人は言い、ようやくマーシスのほうを見た。
「なあ、こいつらはどうなるんだ? また広いところを走れるようになるのか?」
馬を欲しがらない国はない。
この馬たちは〈盟王〉の〈御召し〉で揃えられた馬かその末の名馬だ。どの国も喉から手が出るほど欲しがるはず。
「おそらくは、きっと」
そうか、と老人は顔をくしゃくしゃにして飼い葉を取りに戻る。
「わたしはこの先に用があるのだが」
「好きにしてくれ。この二月ほどわし以外世話をしてねぇから綺麗なもんじゃないが」
そこまで言うと老人は二人のことなど忘れたようだった。
マーシスは奥へと進む。獣のにおいが濃くなる。未知のにおいを察したのだろう、奥からわっと犬が吠えだした。
「……なんだ、ここ」
木製の小屋は十ほどに仕切られ、房一つに一頭ずつ繋がれた犬がいた。そんな小屋が三つほどある。
老人の言うように、房の中の清掃が行き届いていないのが九年前との差異ともいえた。
「猟犬小屋だ。〈盟王〉の」
馬同様にどの犬も立派なものだった。速く長く駆け続けられるしっかりとした脚。それらを動かす胴も無駄な肉はなくたくましい。
マーシスは手前の小屋から順番に犬を見て回る。餌はそれほど不足していないのか、極端に痩せている犬はいなかった。
「昔来たが、それほど変わりはないな」
「……〈盟王〉と狩りに行ったと言ってたな、そういえば」
「ああ」
どの犬も厳しいほどの調教を受けているはずだ。そんな犬たちがマーシスを見て吼えるのは警戒もあるだろうが――房の中を見れば理由はすぐにわかった。
餌を入れる器がない。まだ朝食をもらっていないのだ。
「大きくて利口な黒い犬だった。人の狙いを察してその得物を追いつめて、場合によっては主の前まで連れてくる。それくらい賢い、よく訓練された猟犬だった」
でなければ十一歳の少年が初めての狩りでそうそう鹿など仕留められないだろう。――このハビ=リョウでの数少ない、唯一といってもいい楽しかった記憶。
「……見たかったのはこれか?」
ああ、と答えてからマーシスは近くの房に歩み寄る。
そこには黒い老犬がいた。他の犬のように吠えはせず、地面に伏して目を閉じている。足音に耳を動かした犬が、片目だけを開けマーシスを見上げた。
「……これが一番年長ぽいが」
だがあのときの犬ではない。色こそ同じだが耳も顔つきも違う、別種の犬だ。
手をのばしかけてマーシスはやめる。表から足音がしたからだ。この間隔の短さは先ほどの老人のものではない。
「お探ししました。〈盟主〉。サーフィル公も」
走ってきたのはバルトだった。軽い革の鎧をつけた軽武装である。それと後ろに彼の護衛が五人ほど。
「バルト王、どうしてここに」
護衛を厩舎そばに残し、バルトが一人近寄ってくる。
「兵から、ここに伯父の部下だった男がいると聞きまして――それより〈盟主〉。オーシャ卿からの伝言ですが、王立大学の学長が急ぎ〈盟主〉にお会いしたいと」
「学長の用件ならわかっている。――オーシャに伝言は頼んだはずですが」
「ええ。ですがどうしても納得されぬのです」
だろうな、とマーシスは思う。
「たとえ答えが同じでも〈盟主〉に会われなければ納得はしないでしょう。一度お戻りくださりませんか」
「そうですね」
と言いつつマーシスがしゃがみこむと、黒犬はよろよろと立ちあがりマーシスの膝に頭をのせた。敵意はないとでもいうように。
「……しかし、何故〈盟主〉はこのようなところに?」
「ここを、どうしたものかと考えあぐねて」
頭を撫でてやると黒犬は嬉しそうに目を閉じた。
「昔、この都に来たとき〈盟王〉から狩りに誘われたのです。初めてだったが、断れるものでもなかった」
「あの王は狩りが好きでしたな。きっと戦争の代わりだったのでしょう」
おそらくそうだ。
そしてあの日の狩りはもう一つの意味があった。
マーシスは唇を噛む。
――忘れるものか。
「わたしの他に狩りに出たのは〈盟王〉と宰相、それから二人に近い貴族たちだった。皆が楽しむための、彼らが楽しむための狩りだということを、わたしだけが知らなかった。あの日一番の獲物こそわたしだった」
――陛下は最後の楽しみとしておられましたので。
この都で唯一といっていい、自分が心から笑っていた記憶。それゆえに鮮烈だったものが、鮮やかであるがゆえにより強い後悔となって胸を打つ。
グリソルモル――猟犬小屋。
公用語でそう言うのだと、ここで自分は教わった。
「わたしは心から笑い、楽しんでいたのです。母の、兄姉の骸を食らった犬を連れて」
さぞ滑稽だったろう。あれほど家族のことを問うてきた子供が、その肉を食った犬を連れてはしゃいでいる。それを酒の肴にして笑いあったか、一人思い出して口元を緩めたか。
「あれから九年だ。年からしてこの犬たちはわたしの家族とのつながりはない。けれどもその血を引いているのは確か。だからわたしは迷っている」
ここも街と同じようにするか。それとも。
マーシスはもう一度犬を撫で、頭をひざからおろして立ちあがる。
「都を焼いても人の命は守ると〈盟主〉は仰せになりました」
バルトが物憂げに言う。
「〈盟主〉の力は振るうべきもののために。世に報いというものはあるべきでしょうが、私には彼らが咎あるものには見えません。彼らは主を選べず食事を選べない」
それから彼はじっとこちらを見つめて言った。
「どうか彼らに慈悲を。次の主を得る機会を」
キルシュは名馬の産地だ。そして馬を追い、野の獣から守るのは屈強な犬。これだけの犬をただ殺すというのはキルシュ人のバルトには耐えがたいものなのだろう。
マーシスは頭を下げる。
「――感謝を、バルト王」
昏く重くなっていた己の心に、彼の言葉は風のようにすっと通った。信念と情理とが備わった、公正を求めるまっすぐな言葉が身に染みる。
「貴方の言葉のおかげで己の泥に沈みきらずにすみました。……そのうえで、王に頼みたいことが」
「先ほどの馬守ですね」
「はい。キルシュの先王のもとにいたと聞いています。どうか彼と馬を故郷に」
バルトの目元が和らぐ。
「仰せのままに。――もとよりそれが目的でしたし」
収奪のときになれば、どこかの国が必ず厩舎に目をつける。とはいえ王が立っていれば、他の国の者は手出しできまい。護衛を連れてきてくれていたのも好都合だった。
「とりあえず〈盟主〉は陣にお戻りください。――あれは学問の道に進んだ豪の者です。あまり待たせるのは下策かと」
再度バルトに頭を下げ、マーシスはサーフィルとともに厩舎を後にした。
彼の弟と二人の甥がボネス川にかかる橋の土台となっていたことを聞いたのは、それから半月後のことである。
※
昼前に陣に戻ると、しかめ面の王立大学学長ドネイトが怒気をあらわに待っていた。
先日会ったときと同じ対外用の幕舎での会談は二人のナクル人を悼む言葉から始まり、あとはやはりハビ=リョウ廃都の件についてだった。
「人さえなんとかすればよい、とお考えか」
というドネイトの言葉はもっともだった。ドネイトの正面に座したマーシスはうなずきつつ答える。
「知識ごと守れというのだろう。大学内にある書籍や資料を移せるよう人員は手配する」
「一月ですべてすませろと」
「でなければ灰になるだけだ」
ドネイトは納得できないという感情を伏せもしない顔と態度である。
さすがに一月で広大な大学の施設すべてを移しきるのは難しい。まずは副都そばに用意した仮の施設に――こちらはほぼ完成しているとジャライルから報告があがっている――書籍・資料を保管し、正式な建物が完成次第そちらに移すという段取りだったが。
「何故、とお訊ねしてもよろしいか」
「私怨。復讐だ」
マーシスは即答する。相手のぶれない声と態度が好ましい。
「何故人の命を守ろうとしながら都市を焼こうとするか。守るくらいなら見逃せないのか。焼くのなら人ごと焼き尽くさないのか」
「もう一つは〈盟王〉の痕跡を消す。一つは先にした約束のため。そのために」
「我々にはとても認められるものではない」
「それはとうにわかっている」
「――撤回の余地はない、そういうことですな」
「その通り」
様々な人間を見てきたであろう学長は、じっとマーシスを見て、それから大きくため息をついた。
「君がただ弱い者なら――あるいは人を顧みることなどないほどに強すぎる者なら、このようなことにはならずにすんだだろうに」
「わたしも残念なところだ」
それ以上は学長も言葉を発しなかった。
詳細はオーシャにと退出をうながすと、彼はあっさり外に出た。こちらに見切りをつけたか、あるいは少しでも早くやれることをやろうと決めたのか。
ふと見れば、二者のやりとりを幕舎の端で見ていたソレイルが顔を曇らせている。
「……育った都がなくなるのは嫌か?」
ソレイルは首を横に振った。
「陛下の御名に傷がつかないかと案じております」
「ついたところでどうというものでもないが」
「陛下御自身はそうお考えでしょうが、これを機とばかりに悪名ばかり広がりはしないでしょうか」
どうして宰相は、これだけものを考えられる子を使い捨ての刺客になどしようとしたのか。理解に苦しむ。
「悪名でも無名よりはましだ」
そんなやりとりをしているうちに、別の来訪者が来た。ハビ=リョウの市長だ。
内容はわかっていたし、「あらためて話すことはない」と伝言はした。それでもどうしてもと譲らず、幕舎の前に座りこまれてこちらが折れた。
幕舎に入った彼は顔面蒼白で脂汗をかいて恐縮している。
「昨夜、陛下より拝受いたしました書状ですが」
「書いてある通りだ。一月後にハビ=リョウを焼く」
「なんとか、そこをなんとかならぬのですか」
学長と比べるとあまりに考えも発言も稚拙だった。反応も遅い。助命を乞うならもう時間切れだ。
「反論は求めていない。ただ、あの街には多くの民がいることをふまえて、一月という時間を足した。これ以上『なんとかできぬか』と言われれば、今すぐ焼くことぐらいしかないが」
慈悲を、と市長が口にする。
同じ言葉でもバルトのときとはまったく響きが違う。発する人の知性と機とで、同じ語がこうも変わるかと不思議に思えるほどだった。
「市長」
あえて名ではなく役職で呼ぶ。いつもより語気を強めに、泥が流れるように重く。
「先日からこちらの軍がハビ=リョウに入っているが、街の者になにか被害は出ているか」
「い、いえ、そのような話はあがっておりませぬ。軍規を守る兵ばかりと民にも評判で」
「事実だけあげてくれればいい」
は、と市長がさらに頭を下げる。その頭が動かない。
「どうした」
こちらを見ずに伏し、市長が答える。
「実は、先日ナクルの若者二人を死に至らしめた者を捕らえております」
――卑しい。
取引として切りだす時期も内容もまるでつりあわない。あざとさだけが際立ち、かつ印象が悪いだけの発言だった。
――そんなもので懐柔などされるか愚か者め。
サーフィルがいればこれくらい言っただろう。
市長にとっては実に幸運なことに、あれは竜人兵の様子を見てくるついでにコグに会いに行ってくると言っていた。
「そうか。それでは法にのっとった上でしかるべき罰を与えるように」
「――は?」
市長が間の抜けた声をあげ、こちらを見上げた。
「わたしはなにかおかしなことを言ったか?」
首を少し傾け、質問のていをとってはいるが――これはすでに命令に近い。
「ハビ=リョウでの犯罪はまずハビ=リョウの法によって裁かれるべきだろう」
都市一つをたかが数人の犯罪者で救おうなどとは、虫がよすぎる。取引をしたいというのなら、まず双方に利と損があり、それぞれが納得できるつりあいのとれたものを提示すべきだ。
数人さしだしてなんとかできる――そう思われていたのなら実に人をなめている。
市長から目線をはずし、マーシスは端に控えるソレイルのほうをむく。
「時間が惜しい。――ソレイル」
「かしこまりました」
一礼し、市長のもとに近づいたソレイルが、市長の手をとりそっとうながす。
「陛下!」
よくこれで市長が務まっていたと驚くぐらいの鈍さだ。ようやく立ち上がった市長にむけ、マーシスは言う。
「利によって動く者なら利を示せばいい。栄誉を求める者なら栄誉を与えればいい。――さて、市長。わたしはなにで動くように見えた?」
彼は答えなかった。なにも言わずに口を開けたり閉じたりをくり返している。
「無駄なことはするな。今市長として行うべきことは、市民の身命を守ることだろう」
言ってからマーシスは両手を打ちあわせる。すぐに外から護衛兵がとびこんできた。
両横から兵士に挟まれた市長はうなだれ、肩を落として外に出ていった。
マーシスが息をつくと、すっと水の入ったグラスがさしだされる。ソレイルだ。
「すまないな」
「……ずっと話されておられましたので」
グラスをとり、マーシスは喉を湿らせるていどの水を飲む。
「サーフィルがいないときで助かったな、市長は」
「そうなのですか?」
「あれがいたら市長は話もできずに蹴りだされているな。骨の二三本は折れている」
サーフィルはマーシスの感情が〝読める〟。マーシスが不愉快になった時点で、会談はサーフィルの足で強制的に終わらされるだろう。
「遅くなってしまいましたが、昼食になさいませんか?」
この数日、マーシスの食事の準備はソレイルが行っている。自分の食事の際には、だいたいそばにサーフィルとソレイルがいるのが常になりつつあった。
「そうだな、なにか軽いものがあればそれで」
「軽いもの、ですか……」
ソレイルが口ごもる。
「あまり食が進んでおられないようですが」
「そうでもない。昨日も食べたし、今朝も朝食のときにはいただろう」
ソレイルの心配はわかるが、このところ空腹感というのがあまりなかった。戦場にいるという緊張ではなく、別のもののためだろう。
「――すぐに支度いたします」
一礼しソレイルが幕舎を出ていく。
マーシスは一人、椅子の背にもたれて首をのばす。
わずかに外の物音が聞こえてくるが、慌ただしさや緊張の類は感じない。
――平和だな、ここは。
ハビ=リョウの一部はきっと、賑やかを通りこした騒乱の中にあるに違いない。
特に王宮では財が奪われ、宮殿の燭台も取りあいになるような騒ぎが続いているに違いなかったが、自分はそれとは裏腹な平穏の中にいる。度をすぎれば自分が出向くこともあるかもしれないが。
許された三日間のうちであろうとなかろうと、ハビ=リョウの民に手をのばす者がいれば厳罰に処することは伝えてある。
それでもやらかす者はいるだろうが、その者には見せしめに――〈新盟〉の法が機能しているという証になってもらおう。
※
〈盟王〉の降伏から二十日がすぎた。ハビ=リョウを包囲する軍は徐々にその数を増している。各国からカナレイアに〝徴兵〟されていた者たちが自国の進軍と勝利を聞いて駆けつけてきたのだ。
カナレイアの事実上の敗北はすでに各地に届いている。ノンディの手の者が直轄領のあちこちにとんで情報を撒いたからだ。察したカナレイアもなんとか封じ込めようとしたようだが、生きている人の口をふさぐのは開けるより難しい。
〈新盟〉にたどりついた者、その大半はぼろぼろの男たちばかりだった。それだけカナレイアは各地で人々を酷使してきたのだ。
彼らはまずクレイグの軍に迎えられ、生地を訊ねられる。回答を受けたクレイグの官吏たちが〈新盟〉各国に照会しているあいだ、彼らはクレイグの陣のそばで休み英気を養う。それからそれぞれの故郷の軍に合流するという形をとった。
最初にナクルの陣にたどりついたのは、オーシャの同郷という者が率いてきた二十あまりの男たち。
十四年を異国ですごしたヨークン・リドルという総白髪の男はとてもオーシャと同年とは思えず、さながら痩せた野良犬のようだった。
彼はマーシスを見て平伏し涙を流した。
――よくぞお立ちくださいました、陛下。
嗄れた声でそう語る彼の手をそっと取り、マーシスは首を横に振った。
よくぞ、と言うのはこちらの側だ。よくぞこの時まで生きのびてくれた、と。
そんなマーシスの言葉をどうとったか、ヨークンは何度もうなずく。
彼のあちこちにある無数の傷跡を目にして、マーシスは自分の若さを呪った。――あと数年早く生まれて宣戦布告できていれば、彼の傷は少なくてすんだのではなかったかと。
その日は陣内でささやかな祝宴が開かれ、オーシャは幼馴染と何度も杯を交わし、その他の者たちも知り合いを見つけては飲み交わし、そうでないものも笑いあっては杯を重ねた。
それからさらに日を重ね、続々と人は増えていく。ナクルはすでに戦闘要員よりもそれ以外のほうが多いような状態である。ナクルのように極端な比ではないだろうが、〈新盟〉の国々の多くは新たに〝帰還兵〟を迎え入れふくれあがっていた。
とはいえ中には不正直な者もいる。どさくさにまぎれナクルの民を騙る者もいないではなかったが、マーシスはかまわずにおいた。先代以前から疲弊した国をたてなおすためには、人手がいくらあっても多すぎるということはないからだ。
そんな輩はあえて竜人兵のそばに配した。多少頭が回る者なら、自分より強い者のそばで暴れるようなことはないもの。
新しく来た者で動ける者は相応の働きをしてもらい、そうでない者は療養するか国への帰途につかせた。働ける者の大半が携わることになったのはハビ=リョウの民の〝移住〟に関する諸事である。
〈新盟〉に加わった国の中には、とるべきものはとったと軍をひきあげ帰国する者もあったが、マーシスは特に引きとめはしなかった。ひきあげたのは冬の寒さが厳しい国が多いが、全軍とはいわず一部を国に帰した国なら過半数を超える。もう大きな戦闘はないとなれば、大飯食らいの集団をそのままにしておく必要もなかった。
その日の夜。〝移住〟の手伝いから戻ってきた竜人兵への素朴な慰労の宴を催していたときに、報せはやってきた。その者たちはどうしてもナクルの国王に会いたいのだという。
杯を手にしたままマーシスは問うた。
「聞かない名だが、どこの者だ」
「ハビ=リョウに住む貴族の子弟です」
爵位持ちの長男と神官の子と、領土なしの三代目だという。
「陳情のつもりなら聞く気はないが、用件は」
「それが……」
兵士が口ごもる。
「自分たちはナクルの学生を殺した犯人だと」
宴のにぎわいが消える。明らかに周囲の雰囲気が変わった。
長い、長すぎるくらいのため息をつきつつ、マーシスは肩を落とす。ソレイルとオーシャの顔からも明るさが消えた。隣のサーフィルも酒を手にしたまま渋い顔になる。
「表の幕舎まで連れてきてくれ。会うだけは会ってやる。……オーシャ、すまないが後は」
承りました、と応じるオーシャもなんともいえない顔をしている。
気が重い、というよりは静かな苛立ちのままマーシスが歩きだすと、同じような顔でサーフィルもついてきた。サーフィルが面白くなさそうに言う。
「うんざり、というのが顔に出てるぞ」
「当たり前だ。これほどうんざりする話がそうそうあってたまるか」
時期を逸した市長よりもさらに遅い。そんな連中がなにを言ってくるか、だいたい予想はできている。
二人が会見用の幕舎に入れば、ナクルの兵三人と三人の若者が立っていた。
奥の椅子に座ってから、マーシスは中央に立つ若者たちを観察する。
めいめいが胸をはっていた。年は自分とそう変わらないだろう。着ているものも正装でこそないがそれぞれ立派なものだ。髪も艶があり体格もよく、衣食住に不自由したことはないとみていい。
同様に若者たちがこちらを見ている。三人ともに意外だという顔を隠しもしていなかった。国王が、〈新盟〉の〈盟主〉が本当に自分と同年代だとは思っていなかったらしい。そして王の横に立つサーフィルに目を奪われている。これは初見の者の恒例のようなものだ。
士卒が書簡をさしだしてきた。
「これは」
「彼らが携えてきたものです」
書状の封は仰々しい紋章が捺されている。カナレイア直轄領北部にあるザロメア神殿の紋章だった。マーシスはつまらなさそうに封を切る。
中に書かれていたのは陳情といっていいのかすら迷うような文章。ただ筆跡は美しかった。
曰く、三人は義憤によりナクルの民を死に至らしめるという罪を犯したが、この者たちはその行いを深く悔いている。
どうか彼らの意をくみ、ハビ=リョウを救ってほしい――とある。末尾の署名はザロメア神殿の長だ。
一読し、マーシスは頬に手をやる。横から書状をのぞきこんだサーフィルはといえば、つまらなさそうに幕舎の隅へ行き、しゃがみこんで敷物をめくり地面を物色しはじめた。
「すべてはその書面の通りだ。すぐにハビ=リョウへ戻せ」
むかって左に立つ男が言う。堂々とした声調といい胸をそらすような体勢といい、自らまったく恥じることがない、というのが見てとれる。
マーシスは肘置きにもたれ、身を傾けたまま――若い国王ががめったにしない姿勢だとわかるのはナクル人と竜だけだった――若者を見返す。
「市長からはなにも言われなかったのか」
あの臆病者が、と先の若者は鼻で笑う。
「行っても意味はないとぬかした」
この場合は市長のほうが正しかったのだが――彼らにはわからなかったようだ。話を聞いてこれならその末路は決まったに等しい。とはいえ、権力を持つ者として一度くらいは投げてもよかろうと、温情の言葉を考える。
「わたしは、ハビ=リョウの罪人はハビ=リョウの法で裁けと言った。それは市長から聞いたか?」
「――罪人!」
声をはりあげたのは髭の濃い右の男だ。
「そもそもナクル如きがカナレイアを攻めなければ、我らが正義の拳をふるう必要もなかったのだ!」
そうだ、と中央の男が和する。
「ナクルのほうこそ侵略者ではないか。だから我々が立ったのだ!」
――馬鹿馬鹿しくなった。これにかける温情の言葉を探した自分が。顔をそむければサーフィルと目が合う。いつでも準備はできているという目だ。
書状には「彼らは心から悔いている」とあったが、いったいどこを見ればそんな文が書けるのか。目が悪いか身内への情に揺らいだかこちらをなめているのか。
そもそも信じる神が違うナクルに、カナレイアの神殿から圧をかけようという見込みをたてるのもどうかしている。
「……おかしなものだ。罪人を渡すから街を救えとあるのに、自分たちは罪人ではないという」
マーシスは手を打つ。さっと外から兵卒が入ってきた。すぐそばで片膝をついた竜人兵へぞんざいに丸めただけの書状を渡し、他にも聞こえる声で告げる。
「ヤーシュ。これをザロメア神殿に返して伝えてくれるか」
竜人兵の足なら神殿まで往復で五日もかからない。
「は。――どのように」
「『ハビ=リョウの次になりたくなければ黙れ』」
「御意」
書状を手に幕舎を出ていくヤーシュを若者たちが呆然と見ていた。返答を書面にすらしない、この意味はかろうじてわかったようだ。
すでに譲歩もなにもありはしないということぐらいは伝わるといいのだが、会見の作法もなにもとりはしない――それをこちらがわざと見逃していることに気づいていないような者たちだ。いくらか〝丁寧に〟説く必要があるらしい。
「さて、もう少し話をしようか。思っていたより物わかりのよくない者にもわかりやすく。――まず膝をつけ」
三人は動かない。膝をつくということは相手に礼をとることではなく、相手に屈することだと考えているようだ。
「どうして貴様などに」
左の男がそう言った瞬間、悲鳴があがり、三人はほぼ同時に転倒し足から血を流して敷物の上に伏していた。
「俺はお前らがなにを言い、なにを考えようと興味がないが」
うめき声をあげる三人に近づくことなく、不愉快そのものの顔でサーフィルが言う。
その手には彼らに投げつけた小石の残り。
「俺の王を侮辱するのなら話は別だ」
こちらに来たサーフィルが「すまん、敷物が汚れることまで考えてなかった」と小声で言う。
強弓すら一度で潰す膂力の主が人にむかって石を投げればどうなるか、わかっていないわけがない。というか完全に狙ってやったはずだった。
足を抱くように三人はのたうっている。こんな人間のために前途有望な人間の未来が奪われた事実に怒りがわく。身を焦がすというよりは蝕むような怒りが。
「お前たちは、自分たちこそが正しいと考えわたしの国の民に暴行したのだろう。ならば何故相手を身動きできないようにして暴行した?」
若者たちは答えず、うめきながら異国の王をにらむのみ。
「都を守りたいというのなら、わたしの軍の前にでも出ればよかった。生きのびられれば勇士として遇しただろう。――だがお前たちはそうしなかった」
なんとか立ちあがろうとした一人の腕に石が当たり、また悲鳴があがった。
「理由はどうあれ、人を殺したのならまず法に従い罰を受けるべきだった。それすらせず姑息に逃げ回り生存の道を探る者が『心から反省している』などと誰が思う」
両腕を潰されてなおこちらをにらむ男の気概は立派なものといえなくもないが、完全に相手を間違えている。
怒りと同時に虚しさがこみあげてきた。
死んだ二人の為人と成績を師から聞いていたが――こんな者たちに好き勝手されてよいものとはとても思えない、立派なものだったのを思いだす。
「ましてや死人を辱め、こちらを侮辱する冒涜。あれを見た者がどう思うか――それを行った者を前にナクルの人間がどのようなことを思うか、考えもしなかったか」
マーシスは椅子から立ちあがる。妙に体が重く感じられた。
「市長に、この者たちの身柄を預かると伝えてくれ。説得も無駄だったと」
そばの兵卒がうなずく。
地面に近いところから「この人でなしが!」という罵りの声と、噛みつかれた犬のような悲鳴がした。サーフィルの手にまだ石があるのを彼らは失念していたらしい。
「人でなしか。二月前ならそう言われて傷ついたかもしれないが」
自ら戦争を始めた者には今更すぎる侮蔑の言葉だ。こんなもので人が傷つくと思っているなら考えが甘すぎる。それだけぬるい、居心地のいいところにいることができていたのだろう。
五歩ほど進み、マーシスはうめく男たちを見下ろす。
「人でなしからの、最初で最後の贈り物だ」
憐憫の情がわかないわけではなかった。だがそれは彼らの愚かさと傲慢さ、もはやそれらの矯正がかなわぬことへの憐れみであり、彼らそのものへの憐憫ではない。
「お前たちに都を守る栄誉を与えよう」
言うべきことを言い、マーシスは外に出た。
風が冷たい。一気に肌が冷えるが、それがかえって心地よいくらいだった。見上げた空には星が美しくまたたいている。
「突き返すかと思ったが」
幕舎から出てきたサーフィルが横に来て、握っていた石の残りを落とす。
「二月前ならそうしていたかもしれないがな」
彼らは報復に足ることをしていた。ならば自分はどうかと顧みれば、立ち位置が違うだけで中身はさして変わらないのではないかと思う。敵方からいろいろと言われているのも知っている。竜使い、外道の王、あとはなんだったか。
「人でなしぶりにあきれたか?」
歩きだしてから問えば、サーフィルはからからと笑った。
「正真正銘、人でないものにむかってなにを言ってるんだ」
俺は人の形をしただけの竜だぞ、とサーフィルは言う。
「お前の中身が変わったわけじゃないし、俺からすれば声が変わったときのほうがずっと驚いたぞ」
「そうきたか」
この竜はこんな感じで、わかりやすいくせにたまに予想外のことを言う。
「どうする?」
このまま宴に戻るか、ということらしい。
「今日はもうやめておこう。わたしがいなくとも皆は皆で楽しむだろうし、オーシャもいる」
こんな気分のまま素朴で実直な竜人兵たちと会うのは気が進まなかった。そこまで言わずとも察したサーフィルが「じゃあ寝るか」と両腕を上げ、背をのばす。
――この竜がいなければ、自分はこれほどに戦っていたたろうか。
竜人兵がいても同じように戦えただろうか。
平原の戦いで。ハビ=リョウの中で。〈盟王〉との場で。
自分は崩れきらずに立つことができただろうか。
おそらく無理だ。きっとどこかで自分は破綻している。竜を〝使い〟、かろうじて自分は正気と理性を保っているのではないか。
「マーシス?」
立ち止まったマーシスへふりむいた黒髪の騎士が、青い目の友が首をかしげている。
「なんでもない」
かすかな笑みを作り、マーシスはまた歩きだした。
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