14・咆哮

 昼すぎには自陣の幕舎に戻れたものの、そこからが忙しかった。

 〈盟王〉たちはまだ殺しはしないと伝えてあったからそれですんだが、とりとめのない祝いの言葉を言いに来る者が連なり、かと思えば各国から戦の報償について問われ、ハビ=リョウ突入時にどこぞが邪魔をした、いや邪魔をしたのはあちらだと双方から訴えをもちこまれ、本国からの無視できぬ災害の書簡が届き、その他あれやこれやとマーシスのほうに問題のほうからやってくるありさまで、甲冑を脱ぐ暇さえない。

 見かねたソレイルが「少し休まれては」と茶を出してくるぐらいだった。

「これがわたしの仕事だからな、仕方ない」

「……ですが、昼食もまだとられていないではありませんか」

「そうだったか?」

 ソレイルに言われ、確かに食事のことが頭から抜けていたことに気がついた。

「興奮しているんだろうな。あまり腹は減っていないが」

「御体によくありません。――アスリングリッドの妃殿下より焼き菓子をお預かりしています。せめてそれだけでも」

「……ああ、それは放置できないな。いただこう」

 そんなやりとりから焼き菓子をつまみつつ決済をくだしていた昼下がりに、ジャライルはやってきた。

 いつものように目に鮮やかな衣装をまとい、クレイグの王はソレイルが用意した椅子に座る。

「〈盟主〉。まずはお喜びを」

「勝利はわたしだけのものではない。この〈新盟〉に加わった者すべての勝利だ」

 マーシスは手をとめ、書類をかたわらにどける。他とは違いこの男がただ祝辞を述べにきただけということはありえない。

「ハビ=リョウへの物資の供給、見事だった、ジャライル王」

「お褒めに預かり光栄の極み。ついてはお申しつけの副都周辺の土地購入についてですが」

 ソレイルがジャライルに茶をさしだす。

「難航しているのか?」

「いえ、順調すぎるくらいでございます。ただ、戦争のために予定より費用がかさみそうでして」

 ジャライルに依頼していたのは戦後をふまえた二つの副都周辺の開発だった。それに合わせ大陸の東西を結ぶフィフ=ティア街道の修繕・拡大を行うように言ってある。

「拝領した真珠を売ることになりかねぬ、と」

「一度渡したものだ。ジャライル王がどうしようとわたしはなにも言わないが」

 ――そういうことか。

 言ってから、マーシスは彼の意を察した。

「わたしの名義で行うつもりだな」

「御意にございます」

 この〈盟主〉、ひいては〈新盟〉は、カナレイア直轄領をただ荒らすのではないと民にしらしめるために。

 つまりはもう少し元手を出せということだ。

「新たな王を印象づけるにはよい機会かと」

「王といっても、このわたしが副都周辺に関わることはそうそうないだろうが。――ソレイル、あの木箱の中の左隅に白い袋がある。それをお渡ししてくれ」

 私物を入れてある木箱の中に、白い袋は一つだけのはずだ。間違うことはないだろう。

 ソレイルから受け取った袋の中をあらためたジャライルが、満足そうに何度もうなずいている。

「やはりお持ちでしたか」

 袋の中身は竜の卵の殻だ。孵化後の割れた欠片を集めたものだが、竜の鱗同様に貴重なものである。

「できればとっておきたかったのだが」

 真珠同様、この殻もゴーチェから渡されたものだ。

「ナクル南部で水害が起きた。その復旧と民への補償に使おうと思っていた」

 ふむ、とジャライルが茶を飲む。

「では〈盟主〉、こういうのはいかがでしょう」

 袋を懐にしまいつつジャライルは言う。

「私がこちらを〈盟主〉より買い取ります。代金は直接ナクルに送金いたしますので、そちらを復興にお当てください。そしてこれを売った金を元手に、副都周辺の開発を続けます。もちろん〈盟主〉の御名で」

 誰も損はいたしますまい、とにこやかに言われ、マーシスも笑顔で返さずにはいられなかった。名をマーシスに寄せつつも〝実〟を取るつもりなのだ、ジャライルは。

 それでもこそこそ裏で動かれるよりはずっといいし、きっちりとこちらに益をもたらしている。抜け目のない男だ。

「それでまかせる。他に用はあるか?」 

「いえ」

 と、笑顔のままでジャライルは首を傾けた。

「〈盟王〉はどうなさるおつもりで?」

「それをわたしに訊くか」

「愚問でございましたな」

 他はいい。だが〈盟王〉と宰相の二人だけは見逃すことはできない。彼らについて決めることがあるとすれば、「いつ」行うかだけだ。

 うやうやしく頭を下げ、ジャライルは出ていった。ようやく一息ついたところで、サーフィルがやってきた。こちらも甲冑を着たままだ。

「ジャライルが来るとわかって逃げてたな」

「あいつ苦手なの知ってるだろ。……仕事はしてるぞ」

「ああ、わかってる」

 ナクルの〝外〟のことはマーシスが請け負い、〝内〟のことをサーフィルとオーシャがになう。これが今のナクル軍だ。

「突入のことならこっちに問題はない。キーズィとカーフィがなんか暗い顔してたが」

「……ああ。わたしのことに巻きこんでしまった。後で話をしておく」

 あの地下を見た二人だ。彼らなら他言などありえないが、後で礼と詫びを言う必要はあるだろう。

「コグがまだいるからアスリングリッドの陣に挨拶に行ってきた。あの王妃さん、すごい人だな」

 サーフィルは自分で椅子をマーシスの横へと寄せ、どっかと腰かける。

「すごい、とは」

「ノンディの同類」

 切れ者の外交官と同類。これは絶賛といっていいだろう。

「何人も客が来てたが、どんな奴も王妃さんの話を聞いて出ていくときは不安が消えてるんだ。王妃さんは特別なことを言ってるわけじゃなんいんだが」

「あの方ならそれくらいできるだろうな」

「それから『まずはお祝い申し上げます。今日は特に御多忙でしょうから、正式な祝辞は後日に』って伝言」

「だからそういうのは先に言えと昔から言ってるだろ……」

 アスリングリッドに関してはあまり心配はしていない。王妃たちの判断力は信頼できるし、緊急の用があればコグが伝えてくるだろう。

「それとこれはあんまり言いたくないんだが」

 サーフィルが苦いものをかじったような顔をする。

「――〈盟王〉がお前に会いたがってる」

 宰相はキルシュのバルト王に預けたが、〈盟王〉の身柄はこちらが預かっている。

 正殿の玉座の間でサーフィルが〈盟王〉と対し「なにか要望はあるか」と訊いたところ「ナクルの王に会いたい」とだけ答えたという。

 今も鎖につないではいるものの、拷問などは行っておらず、ごく通常の捕虜としての扱いに留めている。その場で竜人兵がなにか要望があるかと訊ねた折も、希望は「ナクルの王に会いたい」のみだったという。

「あちらが会いたがるとは思わなかった」

「どうする、行くか?」

 珍しくサーフィルがこちらに気を遣っている。

「いずれは話をするつもりだったし――ちょうど一段落したところだ。先にすませるか」

 ざっと机を片付けてマーシスが立ちあがると、サーフィルも渋々というようにゆっくり腰をあげた。

「陛下」

 幕舎の端で控えていたソレイルが一歩踏みだす。

「ソレイルはここで待っていてくれるか。誰か来たらじきに戻ると伝えてくれ。急ぎならオーシャに」

「……かしこまりました」

 マーシスはサーフィルとともに幕舎を出る。外に出てから、せめて甲冑は脱いでからにすべきだったかと思ったが、そのために戻るのもどうかと思い、そのまま歩く。

「ソレイルのこと、信用してるんだな」

 しばし歩いたところでサーフィルがつぶやいた。

「そうだな、人の命を狙うような子ではないし、それにいろいろと気がきく」

 さっきのは〈盟王〉を警戒してのものだろう。まだ幼いが宰相の子としてなにかと見聞きしているのかもしれない。

 〈盟王〉がいるのはナクル軍の南側、すぐそばにチルギスの軍が位置するところ、兵卒用の幕舎が並ぶ区域だ。五人用の幕舎の一つに、三人の竜人兵が見張りについている。

 二人に気づいた見張りが揃って片膝をつく。

「〈盟王〉はなにか言っていたか」

「無言です」

「そうか。――しばらく誰も近づけるな」

 幕を開け、マーシスは中に入る。

 五人が寝られるだけの広さがあるが、調度の類はない。

 そこで一人、手足を拘束された男が直接地面に座っている。

 男がこちらを見上げていた。重い圧のある目。その目線から相手の考えを読むことはできなかった。そういうものだ、王とは意を無駄にひけらかすものではない。

 使い古した幕舎の中できらびやかな正装のちぐはぐさが否応なく目につく。足首の鎖の端は杭で地面に打ち付けられていた。

 彼の正面、剣先がその首に届く近さまできて、マーシスは地面に座る。サーフィルは入口そばで立っていた。 

「九年ぶりだが、貴方はたいして変わらないようだ」

 十一歳の自分は常にこの男に見下ろされていた。だが今は違う。目線はほぼ変わらず、相手は拘束されているが、こちらには剣がある。

「ナクルの王は変わった。強く、大きくなった」

 〈盟王〉ギエルの声には動揺も自己への憐憫もない。かろうじてうかがえるのは相手への感嘆だった。

「ええ。貴方を討ち倒すために」

 エスリル語を――公用語を身につけておいてよかった。世界で一番憎い相手の言葉を、過不足なく直接受けとめられる。

 対せば、まぎれもなくこの男は王だった。威厳とともに備わる理知があり、黙していてもわかる明晰があり、それらすべてを覆う気概があり、なおも静か。感情を抑し、政治ができる気力判断力があり、ある種の魅力がある。誰よりこの男を憎んでいるはずの己の目からしても。

「……予が十五のとき、戦場に来た占い師がいた」

 威容を崩しもせず、視線をこちらからずらすこともなく〈盟王〉は言う。

「その者が言うには、予はいずれ王となり、世界に冠たる者となるという。最初は信じていなかったが、その年のうちに兄たちが死に、自分の順位がくりあがり、占い師の言葉は正しかったのだと知れた」

 占いも神託も絶対のものではない。

 だが彼にはその言葉を正にできるほどの才があった。

「それで」

「時を待って、王を殺した」

 なんの感情もなく彼は言った。先王、己の父の殺害を。

 特に驚きはなかった。そうだったかという納得があり、なんとなく「十五歳以上を招く」という宰相の言の由来を察した。

「また占い師は言った。『いずれ、お前のもとに最も美しい青が現れる。それを手に入れられればお前はさらに高みへと昇るが、手に入れられなければ滅ぶ』。そんな言葉を忘れかけたころに、ナクルの〈竜の友〉がまぎれもない、〝最も美しい青〟を連れてきた」

「……だがその〝青〟は絶対に〈盟王〉には従わない」

 背後の空気がわかりやすくひりついている。サーフィルだ。〈盟王〉はそれを気にもせず続ける。最初から、彼の視野にはサーフィルは入っていなかった。

「そのようだ。あのときもっと引きとめておくべきだった」

 引きとめる、とは言うが――それはおそらく武力での制止であるに違いなかった。

「何故そうしなかった」

「少し、心が動いた。――これを放てば、種になるのではと。とうとう予を討たんとする者が起つ契機となるのではと」 

 ナクルの王よ、と〈盟王〉が呼びかけてきた。その手は自然に座した膝の上にある。


「この戦争は楽しかったか? 心躍ったか?」

 ――楽しくなどあるはずがなかった。心が躍ることなどありえなかった。

 否、とは返さずマーシスは黙る。


「予は期待した。最も心躍る場に出ることを。愛しき場に出られることを。――結局それはかなわなかったが」

 皮肉ではある。ただの王でなく〈盟王〉とまで呼ばれるほどの者に――他とは一線を画した権力を手にしたがゆえに、彼はその都から、玉座から動けなかった。

「……それほどまでに戦いたかったのか」

「戦場には愛がある」

 それはあまりに、あまりにちぐはぐな言葉だった。 

 己が知る愛というものとは、彼の行動はあまりにかけ離れていた。だが聞き間違えたのではない。そして目の前の王が嘘をついたわけでもない。

「どのような姿、環境であれ、戦う者、強い者は美しい。いとおしい。抗うことを止めぬ者、戦い続ける者は」

「それが、どうした」

 この王の前で表情一つ変えてやるものかと思っていた。〝こんな男〟のために感情を揺らしてなどやるものかと。

 そう言い聞かせてもまだ自分は若く、その若さの上にあまりに多くのものをのせすぎていた。両親。兄姉。故郷。国の内と外の多くの命を。


「そなたの兄たちも美しかった。同様にナクルから来た〈竜の友〉も。今の王のように強く、なによりいとおしい、惜しまれるもの、予がなにより愛する者だった」


 ――陛下は強い者を求めた。

 ――極限の場でも己を失わぬ者を

 ――ゆえに陛下は王太子を格別に〝寵愛〟された。


「予の愛は、常に長く続かない」


 あの〈白の城〉の地下室。

 宰相の言葉。セイレーネ王妃の涙。

 九年前自分が受けた哀れみの目。

 それらがないまぜになって怒涛のように押し寄せてくる。

 拳を握るだけでそれをとどめ、マーシスは返す。


「あれを――愛と言うか」

 然り、と〈盟王〉がうなずく。

 ここに至り、マーシスは〈盟王〉が自分と会いたがったわけを理解した。

 強い者、戦い続ける者を愛し、いとおしむ彼にとって、己の前に立ちはだかる者は最高の〝愛しき者〟に違いない。

 ゆえにその目で見たかったのだ。暗い地下で無聊を慰めるていどの、抵抗を愉しむていどの〝愛〟ではなく、本当の戦乱を引き連れてやってきた、彼にとっての〝真実の愛〟を。


「若き、強き者よ。予の歓喜がそなたにわかるか? あのときそなたに手をかけずにいてよかったと心から思う。そなたの兄たちに代わりそなたが王位を継いだことを、今こそ心から祝福する。マーシス十一世、偉大なる愛すべき王。我が打倒のためにすべてを献じた王よ」


 〈盟王〉は真実を告げていた。

 砂粒ほどの嘘すらない、彼にとっての真実を。一切震えのない声で。ぶれることのない姿勢で。――わずかににじませた称賛の色で。

 だがそのすべては愛とも祝福とも異なる響きとなって澱み、マーシスの中に沈んでいく。

 この男の愛は、人を顧みることはない。「愛する」といっても、それは「己のために」他者を愛し、蹂躙し、陵辱し、致死までの抵抗を舌の上で転がしているだけだ。相手は己以外の誰でもいい。己を満足させてくれるものであるなら。

 たとえこの場にいるのがマーシスでなくその兄だったとしても、この王は同じ態度で同じ言葉を語るだろう。

 

 ――手をかけずにいてよかった。

 ――そなたの兄たちがいなくなり、

 ――心から祝福する。

 

 かの言葉はやすりのように抑制を削り、剥いでいく。むきだしになった感情に、嘘のない言葉が容赦なくしみこんでくる。

「予が愛を知るは宰相ぐらいだが、真に理解できる者はあれではない」

「――何故なら彼は対等ではない。ただ服従し、肯定し、利を追うだけの者だ」 

 〈盟王〉の眉が動いた。初めてのことだった。彼が王としての表情を作ることなく感情を、喜色をのせたのは。

「やはり、理解できるのはそなたのような者だ」

 〈盟王〉は続ける。

「惜しむらくは、あの占い師の言葉が確かなものだったことだ。予はいずれ滅ぶ。誰にも届かぬ愛のままに」

 マーシスは左手を剣の上におく。

「その愛で何人が命を落としたか、もはや問いただす気にもならないが、償うつもりはないのだろう?」

 〈盟王〉の答えは想像通りだった。最初よりはずっと柔らかい、その表情さえも。

「その必要が?」

 ああ、この男ならばこう言うはずだった。

 他者を痛めつけることへの忌避や罪悪感があるのなら、最初からこんな〝愛〟をばらまきはしない。

 一度息を吐き、マーシスは問う。

「質問はこれで最後だ。わたしの兄姉と母の遺体はどうした」

 〈盟王〉がわずかに首を傾けた。どうしてそんなことを今さら気にするのかというように。

「知る意味などないと思うが」

「意味はわたしがつける。知っているなら、覚えているなら答えろ。わたしの家族は」

 ああ、忘れるものか、と〈盟王〉は顔をほころばせた。

 そして。


「〝グルソリモル〟に」


 たった一言。それだけだった。

 大陸公用語でもそれほど稀な単語でも難しい語でもない。とうに覚えた――他ならぬハビ=リョウ滞在時に覚えた――言葉だった。そんな一言が雷鳴よりも速く全身を貫いている。

 嘘であればいいと――そう願うことすらできぬほど速く。

 母のことを、王妃の話を聞いたとき。あの地下室を見たとき――自分の中に生じた怒りは瞬時に身を灼いたようだったが、今は違う。指の先から血の気が引いていく。凍てつくような冷たい怒りが、総毛だった背からゆっくりと四肢へと伝わっていくのがわかる。怒りが、憎悪が巡り、嘆きがあふれていく。

 老人のようにゆっくりと、マーシスは片膝を立てる。これ以上この男に近づかずともすむように。この男の前で己を揺るがさずにいられるように。

 立ちあがり、マーシスは座したままの男を見下ろす。かつての己がされたように。


「わたしは、お前をわたしと同じ目に遭わせることができる。わたしの家族と同じ目にも」


 この男は命乞いをしなかった。まだ王都にいるはずの家族のことも一言も口にしていなかった。

 ただ愛を語っただけだった。どこまでも己のことしかないのだ、この才ある男は。

「だがしない。そんなことをしたところですべては徒労だからだ。お前にはなにも届かずなにも響くことはない」

 捕縛された今に至っても、〈盟王〉には後悔の一つもないに違いなかった。そうとわかる己さえ忌々しくてたまらない。


「すべてを失い、ただ一つの体をもって死ね。王の栄光も残すものもなくただ一人で朽ちていけ」


 この呪詛も、きっと目の前の男には届かない。そうとわかっていてなお、吐き捨てずにはいられなかった。


「わたしは、お前の愛を認めない」


 もはやこの男に言うべきことも聞くべきこともない。

 マーシスはきびすを返し歩きだす。

 さっと入口の幕を開けたサーフィルのほうを見もせずに外に出ると、すぐそばにオーシャが控えていた。

「……陛下」

「しばらく一人で歩く。人払いを」

 オーシャの返答を待たずマーシスは西へ歩く。王の様子に困惑する兵を無視し、傾いた陽の沈むほう――ナクルの方角へ。

 陣を抜けてまだ歩き、周囲がただの荒野、無人の地となってから、マーシスは足を止めた。

 こちらが足を止めると同時に、一つだけついてきていた背後の足音も止まる。甲冑を着ての移動は、静かにとはいかないものだ。

「ついてくるな」

「人払いだろ。竜は枠の外だ」

 風にのるように小さなきらめきが流れていくのが見えた。


「なぁ、ディート」

 

 優しい声が、耳に慣れたナクル語が、懐かしい記憶を呼び起こす。

 ――限界だった。

 がくりと膝から力が抜けてくずおれ、マーシスは剣を支えにしてうなだれる。

 昔、その名で呼んでくれた人たちがいた。ずっとその名を名乗るはずだった。その名で、王を支える者として生きていくはずだった。愛する国で、大好きな家族とともに。

 息がつまる。凍りついたようだった手が、両目が熱い。こらえようとすればするほど、抑えようとすればするほど、胸から熱いものが、泡のようなものがこみあげてくる。

 なくなったものを取り返したかったのではない。ただ知りたかったのだ。なにがあったのか、どうしてそうなったのか。

 生き延びたかったのだ。自分が継いだものを、王としてこれから先まで生きながらえさせたかったのだ。

 自分を生かしてくれたものに――故郷に誓って。

 そのために自分はここまできた。自分と、自分以外の様々なものを踏みにじって薙ぎ倒して。

 そうして進んで、たどりついたのがこれだった。

 指が、手が、腕が震える。その震えを食らうように――。


 剣を握りしめたまま絶叫した。ただ吼えた。


 言葉など出てこない。どんな言葉も今は足りない。それでもまだ足りぬと喉が震える。肩を震わせ、喘鳴に似た音を何度も発し、かろうじて声が戻ってきた。

「――ちく、しょう」

 浅い呼吸をくりかえし、剣を握る手に力をこめる。

「あいつら、母上を。兄上たちを。姉上を。――わたしを」

 震える背に別の重みが加わった。サーフィルの背中だ。

 背中合わせのままサーフィルが言う。

「焼こうか」

 いつもの声よりはいくらか落ち着いた、それこそ散歩にでも誘うような声だった。

「お前の嫌な思い出も悲しい記憶も。この都ごと全部綺麗に焼いてやる」

「だめだ」

 額に剣の柄をあて、目を閉じたまま答える。 

「〈新盟〉の長として、それはできない」

「なら、お前個人としてならどうだ」

「……」

 返事ができない。言葉が見つからない。それが答えだ。 

「俺は焼きたい。最低でもあのくそったれな〈白の城〉は」

 サーフィルの背が離れた。けれどもまだ彼はそこにいる。

 体のむきを変えたらしいサーフィルの手がこちらの両目を覆う。そのままぐいと上をむかされた。

「……見るな」

「見てない。俺は星を見てる」

 嘘だ。指の隙間からのぞく光は黄昏を告げている。まだ一番星は出ていないし、空も明るさを残したままだ。

「――俺は、お前が望むならなんだってやる」

 らしくもない静かな声だった。

 その静けさこそ偽りのない、彼の怒りの現れだった。

「だがなにより、今の俺はお前をこんなにした奴を許せない」

 どうすればいい、と問う声に、マーシスは首をかすかに横に振る。

 その頬を涙がつたった。

 手から剣が離れて地に倒れる。両目を覆う腕をつかみ、声を殺す。



 落日。ゆるやかに暗がりが広がっていく。

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