13・ハビ=リョウ包囲戦(3)~王都突入
翌朝、雲は少なく晴れており、風もないおかげで冷えはほとんど感じなかった。
日がまだ天頂に達していないころ。マーシスとサーフィルはともに馬上にあった。甲冑姿の二人は並んでハビ=リョウの南正門を見すえている。マーシスのすぐそばには、同じく武装し騎乗したライスンがいた。
前方は静かだ。門も固く閉ざされている。ハビ=リョウの門までの距離はさほどなく、せいぜい一街区分といったくらい。速駆けすればあっというまに城壁までたどりつけるだろう。
この南正門に控えているのはナクルの竜人兵が百とアスリングリッドの兵が百、クレイグが三百という布陣だ。他の門の前でも各国の軍がほぼ同数控え、突入の時を待っている。
マーシスはつぶやく。
「……〈盟王〉が逃げたという話は聞かないが」
王都に潜入させた密偵から、王や兵が動いたという情報は入っていない。戦うにせよ逃げるにせよ、兵を動かす以前の動き――王の指示が出たという気配すらないのだ。
面白くなさそうに隣のサーフィルが応じる。
「これを抜けるなら単身だな。地面を掘って地下を行くか、空を飛ぶかしないかぎり、あの壁と包囲を抜けられるとは思わないが」
実際にこの万単位の包囲を抜けるのは困難だろう。
昨日受け取った書簡の印は、王専用のものだった。宰相が代理で捺したということがなければ〈盟王〉はまだ宰相とともにハビ=リョウにいる。筆跡を見たライスンとセイレーネは王の署名で間違いないといい、ソレイルはハビ=リョウ内の自宅で宰相から書状を受け取ったという。
ライスンが馬を寄せてくる。
「このところの〈盟王〉はどうもおかしいのでは、と群臣の中でも噂はされていました」
「おかしい?」
ライスンが微妙な顔をした。
「判断が昔と違うというか、むしろ戦を長引かせたいのではと思うようなことが増えて」
「具体的には」
「パルフェンを司令にすえたこと、でしょうか」
それならわかる。他にも人材はいただろうに、よりによってあの男だ。
「兆候……というか同じようなふるまいは以前からあったのでしょうが、それをとりつくろわなくなったというのが正しいように思います」
「あれを総司令にした理由は他にあるのだろうか」
この男が総司令にならなかったのはまだわかる。アスリングリッドの将を一番にすれば、他の直轄領出身者から不満が出るだろう。だからといって代わりに落ち目のパルフェンを選ぶのは下策中の下策だが。
「……他にできる者がいなかったのでしょう」
「いなかった?」
明らかにおかしい。カナレイアの国土にそんなに人材がいないはずがない。
「このところ、名だたる将が解任されることが続いておりました。解任の理由は様々ですが、共通しているのは『直轄領出身の、それまで特に不首尾もなかった者』であることです」
「失策もないのに解任したと?」
「はい。〈盟王〉の指示だと聞いています。それから彼らの姿を見た者はおりません」
不穏、かつ奇妙な話だ。
「私は〈新盟〉の策かと疑っておりましたが……」
「さすがにそこまではわたしも命じていない」
嘘ではない。ノンディが独自で動いた可能性もないではないが、彼ならやったことは知らせてくるはずだ。
ふと、この男は自国の王妃に起こったことを知っているのかと考えた。口にするには苦すぎる話だが――。
――おそらく知らないだろう。
この男が王妃の受けた仕打ちを知って、宰相や〈盟王〉に仕えられるはずがない。
「私の小さいころ、〈盟王〉は英雄だったものですが」
「わたしの父も言っていました。一人で大陸の歴史を変えた人だったと」
父の生前のころなら〈盟王〉の偉業はつい先日のようなものだ。にもかかわらず「だった」と過去の言葉で言ったのは、父に思うところがありすぎたためだろう。――国の負担、帰ってこなかった妻子。
「誰からも期待されていない四番目の王子が、一人で領土を広げ、〈盟王〉とまで呼ばれる無二の人物になった。まぎれもない英雄のはずなのだが」
「歴史を紐解けば、晩節を汚した英雄も少なくないでしょう、ライスン卿」
晩節か、とつぶやいたライスンが前方、南門を凝視する。
「――殿下」
あれを、というライスンの声を受ける前に、マーシスたちも南門を見ていた。
巨大な両開きの門扉がゆっくりと動いている。門の中央に光の筋が入り、それがどんどんと太くなっていく。
迎撃か、とまず考えたが違った。開いた門のむこうには武装した者はおらず、中央に一人の男が立っているだけだった。
「……市長のナールードです」
ライスンが言う。つけ加えて「罠とは考えにくい」とも。
サーフィルのほうを見れば、彼も黙ってうなずいた。これくらいの距離なら、中に隠されている兵がいればサーフィルは感知する。
進軍を指示し、自分たちも馬を進めていく。緩慢すぎるほどにゆっくり、堂々と。
門の前まで来ると、中にいた男が単身かけよってきた。
「〈盟主〉ナクル国王、マーシス陛下とお見受けいたします。ハビ=リョウの長、ナールードにございます」
丸顔のかなり肉付きがよい男がこちらを見上げてくる。
「〈盟王〉陛下は降伏をよしとされなかったが、それはこの街の総意ではありません。なにとぞお慈悲を賜りたく――」
「こちらからの書状は読んだか?」
なめらかな口調が白々しさに輪をかけているようだった。気分ののらないときに退屈な芝居を見せられているような、苛立ち未満の不愉快さがある。
「あれに記した通りだ。むかってくる兵ならばともかく、無抵抗の民の命を奪うような真似はしない」
「ありがたき御言葉、感謝の極みでございます」
彼らはこちらの言を信用していなかったらしい。そのくせ、〝自分たちは王とは違う〟とぎりぎりでこちらにつこうとする小賢しさがわずらわしかった。
「ところで、我が国の民が不慮の死を遂げたことについては」
マーシスの言葉に市長の顔が笑顔のままで固まった。まさか忘れていたわけでもあるまいに。
「どの国の法でも故なき殺人は罪。公正な調査を」
「――は」
頭を下げた市長の首には汗が浮かんでいる。
「我々は〈盟王〉と宰相以外に用はない。二人の居場所に心当たりはあるか?」
「い、いえ」
少し脅しが効きすぎたようだ。市長の肌がさらに汗ばんでいるのが見えた。
「開けた門はここだけか」
「一刻みもせずに他の門も開ける手はずになっております」
「わかった」
マーシスは後ろにいるノウランを呼び、各軍に急ぎの伝令を出させる。五人の伝令が散った。
「行くぞ」
馬の腹を軽く蹴る。ライスンが一足早く前へ、先導する位置に出た。
一行は南門をくぐり、都の中に入る。馬車が六台は並んで進められそうな石畳の街路をマーシスたちは進む。これほどの他国の軍がハビ=リョウに入ったことはないはずだった。
この都をマーシスが訪れたのは一度だけだったが、その記憶は今もはっきりと己の中にある。
――九年ぶりか。
前にハビ=リョウを訪れたときもこの南正門からだった。あのときは一台のみの馬車に乗っていて、都の立派な建物と比べると、修繕をくり返した古びた馬車はなんとも不釣り合いに思えて居心地が悪かった。同じ道を、武装し兵を連れて自分は進んでいる。
この都はかつてと変わらず美しかった。
前方遠く、天にも届きそうな白亜の塔が見える。〈盟王〉の宮城、威を示す尖塔だ。かの塔から整然と宮殿の屋根が並ぶさまは高山の連なるよう。
人家と商店が広い街路を挟むように建つ。そのほとんどは三階建てだ。店舗は看板こそそのままだが、どこも扉は閉じられている。
街路に市民はおらず、建物の中から様子をうかがっているようだ。昔のように馬車を指さしてみすぼらしさを笑う者はいない。聞こえるのは馬の蹄が石畳に当たる音と、甲冑を着た兵士の足音ばかり。
「俺は正宮に行くが、かまわないな?」
隣のサーフィルがつぶやく。〈盟王〉を追うのは自分だと譲らなかった竜が。
「ああ。ただし殺すな。生かして連れ帰る」
「お前はどうする」
「わたしは、少し探したいものがある」
「〈盟王〉より気になるものか」
「ある意味では」
ただ、この気のいい竜をつきあわせるにはしのびない類のものだ。
「俺のいないあいだに妙なこと考えるなよ?」
サーフィルが肩をこづいてくる。勘のいい竜だ。こちらがなにかあるといつもこの竜はやってきて、それでいて普段通りに接してくる。
「……努力はする」
サーフィルに嘘以外で答えるならこれが精一杯だった。人の感情を読む生き物が、このところ荒れてささくれだっている波打っているマーシスの内心に気づいてないわけがなかったが。
遠くからざわめきが聞こえる。方向からして他の門から各軍が入ってきたようだ。ハビ=リョウの城壁は高く厄介だが、中に入ってしまえばなんともない。むしろ〈盟王〉が隙をついて逃げるなら門が開いた今が好機とも思えた。
「……あの嫌な感じが近づいてきた」
「〈盟王〉か?」
サーフィルがうなずく。
「こんなどす黒い塊のような、ねとねとした油のような――まずい感情の塊なんて、他にないからな」
「そんなにか」
「大きさも人間の中なら相当だが、あの粘ついた感じ暗さが別格だ。気分のいいもんじゃない」
「悪いほうの別格か」
「生まれつきああだったとは思えないけどな。あれで生きていける人間はそういない。――だからってどうということでもないが」
堕ちた英雄、という言葉が浮かんだ。
歴史好きのサーフィルは当然史書を読み、〈盟王〉の半生を知っている。だがサーフィルには「知ったことか」だろう。
今のマーシスの敵であり、己の不倶戴天の敵であるなら、かつての英雄だろうが名君だろうが――ただの敵だ。
「間違いない。奴は王宮にいる」
マーシス、とサーフィルがこちらを見る。
「先に行っていいか」
血気にはやる兵のように手元が落ちついていない。わかりやすい竜だ。
「ああ、行ってこい」
こちらの言葉をしっかりと聞いてから、サーフィルは手綱を鳴らした。
「――また後で!」と、サーフィルが一気に駆けだし、竜人兵が五十、それにならい速度をあげてついていった。
マーシスは少しだけ馬を速めて先頭のライスンに並ぶ。
「よろしかったのですか」
「あれは他に〈盟王〉を奪られるのは我慢できないらしい」
「……鍵のかかった扉はどうされるおつもりか」
「あれがその気になれば、鉄の扉の一つや二つはぶち抜ける」
試しはしなかったが、城壁の門もサーフィルたちならなんとかできるだろう。
「あれは、人の姿をとっているだけの竜なので」
「両方の姿を知らなければ、とても信じられぬことですが」
ライスンが王宮のほうを見ている。
あの駆け足ならサーフィルたちはもう王宮に着いたとみていい。
街路には相変わらず人気がない。こちらから見えぬように注意を払いながら成り行きを見守ろうとする視線が、あちこちからむけられているのを感じるが。
「陛下は前の広場で待たれないと聞きましたが」
「すぐそばで成果を待つのも悪くはないですが、一つ確かめたいことがありまして」
「護衛は充分かと思いますが、なにとぞお気をつけくださいますよう」
「ああ」
やはりこの男に「ついてこい」とは言えなかった。この男は愚かではない。だからこそ連れてはいけなかった。
王宮の前は広場になっている。閲兵もできるような、この都市で一番大きなものだ。そこにライスンたちを残し、マーシスは竜人兵五十を連れて王宮の門をくぐった。
――覚えているものだ。
この次の門までは馬車で行けた。騎乗して進めるのはその次の門までだ。ライスンに王宮の見取り図を描いてもらい、各宮殿の配置と順路は記憶している。
驚いたことに、政治の中枢たる王宮内も人の気配がない。前殿に臣下はおらず、警護兵の姿もなかった。自分たちの足音しかしないがらんどうの王宮は薄気味悪く、使われなくなった船を思わせる。
マーシスは馬をおいて左にむかった。王宮の西にある〈白の城〉にむけて。竜人兵は黙ってついてくる。
外交用に造られたという〈白の城〉はわかりやすい城だ。その名の通り白い外壁で覆われていて、遠目にもそれとわかる。
二階ぶんはありそうな高さの正扉は閉まっていた。マーシスはすぐ横にいる兵に目配せする。竜人兵がぐっと扉を押した。
扉のむこうでなにかがめきめきと壊れる音がする。それにかまわず竜人兵は扉を押し続け、大きな扉が完全に開いた。
他の区域同様、人のいる様子はない。中は天井から光が入るようにしてあるために明るかったが。
「入りますか」
隻眼の竜人兵――キーズィの声にマーシスは首を横に振る。
「もう少しここで待つ」
王妃も地下への詳しい入口はわからないといっていた。夜間であったのと目隠しをされていたためだが、「どこかの部屋から階段をおりた」というのは間違いないということだった。
ただこの〈白の城〉には主となる大広間の他、多くの控室がある。百近い部屋すべてを探しまわるのは効率が悪い。ゆえにバルトとハッスーフに頼んでいた。「誰よりも先に宰相を確保し〈白の城〉まで連れてくるように」と。
遠くから歓声が聞こえてきた。ハビ=リョウに入った軍が食糧を運んできたのだろう。封鎖により流通が止まったところに新鮮な品が届けば多くの民が心を変えやすくなる――そう進言してきたのはジャライルで、マーシスはそれを容れた。
事前に貯蔵できた貴族たちならともかく、平民にとって十日の封鎖、実際はそれ以前からの戦争によって多くのものが品薄になり高騰しているこの現状は、けして楽なものではないはずだった。
この街の民や無抵抗の兵には手を出すなと厳命したが、〈盟王〉と宰相、この二人の下で利益をむさぼっていた貴族はなんとしても捕らえろと伝えている。ノンディが調べあげた捕らえるべき面々の名は一覧にして他の王や将に渡していた。
「〈盟主〉!」
東側から大きな声をあげ走ってきたのはバルトだった。供に連れているのは十人ほど。彼がここに来たということは。
「見つかりましたか」
バルトの背後にいる兵が、後ろ手に縛られた男をかついでいる。あきらめたのか、縛られた男は特に抵抗もしていない。
「妻の別宅の地下に潜んでおりました」
息も荒いままにバルトが答える。兵が二人の前に縛られた男をおろすと、口にかませていた猿轡をといた。
「バルト王、なんのつもりだ、これは」
「我らが〈盟主〉がお待ちゆえお連れしただけのこと」
バルトの言葉を聞き、男は初めてマーシスのほうを見た。
年の割に甲高い声を出した男をマーシスは見下ろす。
灰色の髪に青い目。痩せぎすの、着ているものの上質さがなければそこらの村の教師でもやっていそうな地味な男を。
――母君と兄君たち、姉君のことは残念でなりません。
九年前、そう慇懃に哀悼の意を示していた男が言う。
「〈盟主〉……ナクルの王、か……?」
「久しぶりだ、ドウエル」
カナレイア王国宰相、ドウエル・ピノは記憶にある姿とほとんど変わりがなかった。だがむこうからすれば、十一歳の子供と二十の青年だ。そうそうすぐにわかるものではないらしい。
「あまり悠長なこともできない。宰相、この城の地下に行く道を教えてもらおう」
マーシスの声に宰相は一瞬虚をつかれたようだが、すぐに真顔に戻り、それからなにを思ったか大声で笑いだした。
剣を抜きかけたバルトを止め、マーシスは再度問う。
「案内できるな」
「……確かに、御二方にはあそこに行く資格がある」
バルトの兵が襟をつかみ、ドウエルを立たせて歩かせる。正扉の前に十人ほどを残し、ドウエルを先頭に二人の王と兵がついていく形になった。
ドウエルが進むのは東の回廊だった。これだけで神殿の会堂ほどの広さ高さがある。左側には大広間に入る扉が、右手には控室の扉が並ぶ。柱も扉も同じ意匠のものがくり返されるおかげで迷宮のようだ。
一直線の回廊の半ばをすぎたあたりでマーシスが問う。
「『行く資格がある』とはどういうことだ」
「そのままの意味ですとも」
「資格がいるようなところとは思わないが」
「はい。本来は我が王がこれはと認めた者が招かれる場ですが――今日にかぎっては特別というところ」
ずいぶんと進んだが、まだ宰相の足は止まらない。そのにやついた顔に不愉快さが増していく。
「ソレイルは失敗したか。まったく使えぬ子だ」
「あれを使えぬというのなら、持ち主のほうがなまくらだったのだろう」
広い回廊に足音が響く。
「これは手厳しい。……狩りで笑っておられた方とは別人のようだ」
「十年近くあれば人も変わるというものだろう」
「確かに」
自分たち以外に人の気配がない。ここは外交の場で戦場にならぬと見越していたのか、あるいは。
「王宮で兵を見ないが、これは〈盟王〉の指示か」
「もちろん、陛下の指示でございます」
嫌味のようにうやうやしくドウエルが答える。
「陛下は『もう終わった』と」
〈盟王〉の意図をどこまで宰相が把握しているか怪しいが、とりあえず情報の一つとして記憶しておくことにする。
ようやく宰相の足が止まった。
彼がさしたのは奥から三つ目の控えの間の前。「ここか」と問えばドウエルはうなずいた。
後ろにいたキーズィがすかさず扉を引く。鍵ごと引きちぎられた扉を見たドウエルが「野暮なことを」とつぶやいたが、それに返す者はいない。
中は大きな窓のおかげで明るく、貴賓がくつろぐにふさわしい立派なものだった。
「あの壁際の棚を横にずらしてください。見かけだけですので扉のように力ずくでなくとも動きます」
小賢しさの際立つ皮肉を無視し、キーズィが先ほどの扉より大きな棚を横にどける。立派な見た目よりもずっと軽く作られているらしい棚はするりと横に動く。
棚の奥にあるのは木製の扉。全面にえらく凝った装飾が施されている。
「鍵は」
「かかっておりませぬ」
「ならば宰相を先頭にわたしとバルト王で。護衛にキーズィとカーフィでついてきてくれ」
入口の大きさからして何人も詰めこめるようには見えない。よそに人をおいていないことからして罠とも考えにくかった。他をこの部屋に残すこととし、バルトが扉を開ける。
扉の先は飾り気のない石の階段だった。すり減り方からするに相当の者がここを行き交いしていたようである。下までは暗くて見えない。
中をのぞきこんだバルトがつぶやく。
「灯りがいるな」
そばにいたカーフィが無言で手持ちの燭台をさしだした。
マーシスも同じものを持っている。
「……準備がいい」
「地下と聞いていたので。行きましょう」
控室に入ってきたときと同じく、ドウエルを先頭に二人の王と二人の兵が階段をおりていく。
階段はそれほど長くはなく、一階ぶんよりは長いが三階も下らぬほどで段差は消えた。
少し開けた空間があり、正面に布の仕切りが垂れている。
「御二方の求めるものはこの先です」
ドウエルが幕を上げる。先へと進む宰相の後に続いた二人の王たちが見たのは、いくつもの褥だった。壁際にあつらえられた褥はそれぞれ薄衣で仕切られており、柔らかそうな絹をふんだんに使った寝台の上に羽根枕が転がっている。自分たちの他に人はいないが、ここでなにをするか――していたかは明らかだった。
横のバルトが苦い顔になる。
「誰がここにいたかは、問い詰めぬほうがいいのだろうな」
「ここに来させた者はともかく、来たくなくとも来ざるを得なかった者もおりましょう。そういった者まで再び傷つけるのはどうかと」
お優しいことで、とつぶやいたドウエルが奥の間を指さす。両横の仕切りの間隔からして、他の褥よりもいくらか広いようだった。
「あちらで最後です。鍵はもうかかっていないはずですので」
王二人は顔を見合わせてから前に出る。キーズィたちに宰相を拘束させるのを忘れずに。
幕を開けた先の寝所には一際大きめの寝台が両側に二つ。寝台のあいだを通った先に扉があった。
マーシスは扉に手をかけ、ゆっくりと動かす。
扉自体は重くはなかったが、なにかをひきずってでもいるかのようですべりがよくなく、どこかひっかかる感じがした。
向こうの空気がこちらに流れこんできた時点で、本能が〝駄目だ〟と告げている。これとよく似たにおいの中につい最近の自分はいた。違いはにおいのもとが新しいか古く積み重なったものかだ。
二人の王が灯りをかざす。
中は今までとは異なる部屋だった。わずかに色はあるものの石の壁にも床にも一切の装飾の類がない。
二人とも一歩中へ足を踏みいれてから、先へと進みだそうとしなかった。
数多の台があった。道具があった。その道具はおおむね三つに大別された。人を拘束するもの。人を痛めつけるもの。人であったものを細かくするもの。それらがつい先ほどまで使われていたように雑に置かれていた――通ってきた褥の上にあった枕と同じように。
マーシスは扉の動きが悪い原因を知った。床にこびりついた血が扉のすべりを悪くしていたのだ。生きていた者のなお消えぬ執着のように。
「……何故こんなものが要る」
マーシスの問いに背後からドウエルが答える。
「我らが王は強さを求める王でした」
灯りの角度を変えれば壁からだらりと垂れたままの鎖が見えた。その直下の黒い沼のような床の様子も。
「戦争があるうちは問題はなかったのです。己の強さを測り、他の強さを堪能する機会がいくらでもあった。れども名実ともに〈盟王〉となった後は、戦争が少なくなってからはそうはいかなかった」
バルトが一歩、前へと出た。宰相の言葉から少しでも離れようとするように。
「陛下は強い者を求めた。老若男女問わず、極限の場でも己を失わぬ者を探し、見つけて称えるために」
ドウエルの声と違う音がした。なにかの雫が床に落ちる音。それを探し確かめる気にはとてもなれなかった。
「ナクルの王よ。貴方の兄は――先の王太子はとても強い御方だった。私は、いや私以外の者も誰一人、彼が命乞いをするところを見たことがない。ゆえに陛下は王太子を格別に〝寵愛〟された。その強さを愛でられた。貴方の国が陛下の言葉に応えずとも無事であった理由がわかるというものでしょう。すべては陛下の御寵愛ゆえですとも」
「――ふざけるな!」
地下室に響く声が己のものだとマーシスが自覚できたのは、残響が消えてからのこと。
「そんなもののために人を殺し続けてきただと!? いったい何人ここに連れこんだ」
「私もすべてを把握はできませぬ。かの王妃のように、バルト王の甥のように、陛下自ら連れてこられてそのままとなれば」
ガン、と鋭い音がした。バルトが転がっていた金属製の桶を蹴った音だ。彼が手にした灯りが揺らぎ、照らされる諸々の影が不穏に歪む。
「兄上が気に入られたから、他の家族も連れてこられたということか」
「おそらく」
「では何故わたしはここに連れてこられなかった」
ふりむき、ドウエルの顔を見る気がしなかった。こんな場を王とともにすごすことができた男の顔を。
「我が王は、招く者を選んでおります。王公でない者。そして御自身が王太子として立たれた十五歳を迎えた者。ナクルの王よ、貴方は二重に陛下の基準から外れておられた」
マーシスは叫ぶ代わりに拳を握り、そばの壁を殴っていた。
下の兄はハビ=リョウ滞在中に十五になっていた。もう少し若いか、ナクルに留まっていたら――きっと今は兄が王位についているはずだった。
「……ここには痕跡だけだ。遺体はどこへ」
「それは私も預かり知らぬことでございます。陛下は最後の楽しみとしておられましたので」
この場はよくないもので満ちている。においも、目に映るものも、聞こえるものも、肌に触れる空気も。
バルトがこちらを見ていた。その目がいつもより暗い。自分も似たようなものだろうとマーシスは思う。
「……嘘を言っているようには聞こえませんが」
「残念ながらわたしもだ」
〈盟王〉か、とつぶやけばバルトがうなずいた。
「後は〈盟王〉に訊くしかないでしょう。わかったところで良い結果がもたらされるとは思えませんが」
「――それでも、なにもわからないよりはましだ」
己に言い聞かせるように言ってから、マーシスは耳をすませる。
足音が聞こえた。甲冑を着た者のかなりの駆け足だ。それはだんだんと近づき、階段を一足飛びにおりてくる。
「マーシス!」
張りのある声が地下に響く。場違いなほど明朗なサーフィルの声が。
どうしてここが、と問うまでもない。サーフィルは竜人兵の――同類の位置がわかる。
「〈盟王〉は」
「捕らえてライスンに引き渡してきた。そっちは?」
マーシスはバルトのほうを見る。成果はあった。だがこれを「上々」などとはとてもいえない。
「目的は果たしたと言えます、サーフィル公」
バルトの言葉に「そうか」と答えてから、サーフィルがこちらの腕をつかんできた。
「戻るぞ。ずっとこんなとこにいたって仕方ないだろ」
「……そうだな」
バルトが外に出るのを待ち、マーシスは扉を閉める。それだけで少し楽に息ができるようになった気がした。
「〈白の城〉を出た後は、宰相の身柄をおまかせしてもよいですか、バルト王」
「承りました」
自分が預かるのはソレイルのことを思うとためらわれた。この〈新盟〉の最古参の一角で、実際に捕らえた者なら他からも文句は出ないだろう。ハッスーフも訪問しやすいはずだ。
地上階に戻り連れてきた兵たちと合流し〈白の城〉を出るまでのあいだ、誰一人なにも言葉を発そうとしなかった。頭上に青い空が広がってから、誰とはなしに大きく息を吐く。
内の門まで戻り、その先にとめていた馬に乗る。バルトの部下がドウエルを連れていった。
騎乗したサーフィルが馬を寄せてくる。
「……〈盟王〉を確保してからでもよかったんじゃないのか、あれは」
捕らえてしまえばいつでも見られるだろうと言いたいのはわかる。さして急ぐことなく馬を進めながらマーシスは返す。
「どうしても自分の目で確かめたかった。……予想しているだけなのとわかった、では己の心のありかたも変わるだろう?」
「……それで、変わったか?」
「おそらくは」
サーフィルは目がいい。夜目も利く。あの部屋の様子も把握できているだろう。誰がなんのために作ったかも。
あの部屋はごく最近まで使われている。残っていた〝断片〟は壮年男性のものだった。そこに無人かつ無抵抗の王宮の様子と、宰相の「〈盟王〉は強い者を求めた」という証言をふまえると、嫌な結論しか出てこない。
――あの男は、自分の兵を殺している。
どこかの民の神話で、自分の尾を食べ続ける神の話を聞いたことがあるが、まさにそれだ。倒すべき悪、あるいは怪物。
許してはおけない、その気持ちは強くなった。正義の側に寄りその標をつけてはいるが――これは私憤にして私怨だろう。
二人が王宮を出たとたん、耳を覆いたくなるような歓声が広場に満ちた。
眼前には見慣れた〈新盟〉に与する者たちの旗があり、兵たちがいる。整然と並ぶ兵たちに応じてマーシスが片手を上げれば、さらに声は増し大きくなった。
誰の目にも明らかな、まぎれもなき勝利。敵の本領でその王を捕らえたのだ。歓喜の声も当然だろうと他人事のように考えているのをマーシスは自覚する。
マーシスは馬を進める。軍の先頭にいるライスンの横に、記憶とほぼ変わらない正装の男がいた。
厳重に縛られた男は、年のころは六十に至るぐらいのはずだが、顔の皺も少なく、たるみの類とは無縁に見える。どの部分をとっても〝強さ〟があり、ただならぬ圧があった。
その圧も顔も、よく覚えている。
「久しぶりだ、〈盟王〉」
馬からおりることなく、誰の許しも得ることなく、マーシスは話しかける。
少し白い面積が以前より増えてはいるが、髪も髭も豊かで福同様に手入れが行き届いている。体躯もまさに頑強。その姿勢もこここそが彼の玉座であるかのように堂々としている。まぎれもなく王の姿だ。
「訊きたいことはあるが、それはまたいずれ」
こちらを見上げる〈盟王〉――ギエル・ナシュルハマトの目は濁っていなかった。まぎれもない理知の光があり、勇士に等しい強さがあった。縛されてなお残る威厳に自分が安堵しているのを理解し、マーシスの口元がゆるむ。
――怯える者を嬲るよりはずっと気が楽でいい。
マーシスはライスンに目をむける。
ライスンがうなずき〈盟王〉を連れていく。彼の行く先は覆いのない馬車だ。荷台というほうが正しいのではというほどの馬車に乗るのはきっと初めてだろう。
「――戻るか」
マーシスの声にサーフィルがうなずく。
最も恐れられた男を乗せた最もみすぼらしい馬車を先頭に、〈新盟〉の軍が進む。その様子をハビ=リョウの民が屋内から凝視している。これからの自分たちの行く末を案じながら。
きっとこの場で一番己の身を案じていないのは〈盟王〉だろう。漠然とマーシスはそんなことを思う。
晴れた空が明るく美しい。
無責任にすべてを寿ぐように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます