7・イドラ=ル会戦(1)~進撃

 三日の進軍の後、速度が落ちた。連日の雨のためである。ほぼ騎兵という軍を率いるツォグタイは「大地にはありがたいが戦にはむかん」と季節外れの雨を呪ったが、他の王たちも似たようなものだった。馬も人も雨の中を進みたくはない。

 四日目の昼、行軍は完全に止まった。〈盟王〉の都までは早駆けで二日という距離である。マーシスたちはコード街道西部のイドラ=ル平原に陣を敷き、天候の回復と相手を待つことにした。

 残るはカナレイアの本軍と、属国の中でも最も多くの兵を出しているアスリングリッド王国の軍だ。予想される兵力はおよそ九万。こちらの総兵力六万よりも多い。

 相手は策など使わず必ず数を恃んで粉砕しにくるだろう。双方合わせて十五万の軍勢がぶつかるような場はここしかないとツォグタイとメイアが断言し、マーシスはそれを容れた。

 策を弄せるような将はもうほとんどカナレイアにはいない。こちらが放った密偵からはそう報告がきている。加えて直轄領の軍はまだしも、他の属国は兵など出すことなく、できるだけ静観したいのだという意向がうかがえた。いくらか策を弄したのは事実だが、こちらが最初に考えていた以上に、各国の〈盟王〉への恭順の意思が薄れている。これも好都合といえた。

 誰からともなく、この軍は〈新盟〉と呼ばれるようになっていた。カナレイアの王が敷いた〈大連盟〉とは異なる、新しい〈盟〉だと。マーシスはそれにかまわなかった。〈盟王〉とは違う、それが伝わっていのなら充分だ。


 五日目の朝、マーシスは〈新盟〉の左翼中央にいた。

 ゆるやかな傾斜のついた草原は霧のような雨が降っている。

〈盟王〉に抗う者が成した〈新盟〉、その統領がそんなところにと言う声もあったが、「予備の兵などないだろう」と一蹴して黙らせた結果だ。

 昨日までほどの勢いはないものの、連日の雨で地面はぐずつき、視界もけしてよくはなく、火もほぼ使えない。

 マーシスは前方を見る。遠方がやや霞んで見えた。雨音のおかげで細かな音もとらえづらい。

 諸条件はよくはないが、これは敵方も同じだ。

 兜の縁を雨が伝って落ちいく。日はとうに上っている時間だが、たちこめた雨雲のおかげで空は暗い。

「マーシス王!」

 声をあげ馬を走らせてきたのは武装したバルトだった。彼の陣は同じ左翼のやや南にある。

「どうかなさいましたか、バルト王」

「……本当に来ていると聞いて驚いて……てっきりサーフィル卿にまかせて本陣におられるものとばかり」

「ここまで来て戦いもしない総大将など、誰もついてこないでしょう?」

 マーシスは笑ってみせる。卑怯者となろうとも、腰抜けになる気はない。

「これを崩せば〈盟王〉のもとに残るのはハビ=リョウの防備兵くらいのもの。アスリングリッドは手強い相手ですが、だからこそ最初に削っておきたい」

「……それはわかりますが、王よ。貴方はなにも我々に指示していないではないですか」

 左翼の主力はバルトが率いるキルシュ軍と、メイア率いるコムトリア軍だ。そこにナクルといくつかの小国の軍を合わせて計二万弱。バルトの言うとおり、主力を率いる二人には、あえて具体的な命令を出してはいなかった。

 あの女王には「蹂躙を」とだけ書いた手紙を届けたが、使者が言うには中を見た女王は大笑いし、上機嫌で酒をふるまうほどだったという。

「正直、御二方には指示など不要でしょう。わたしなどよりよほど戦に慣れておられる」

 この二人だけではない。この場にいる王や将たちが、どのような場でどんな戦いをしてきていたか、マーシスはオーシャから聞いている。だからこそ、細かな指示は不要と言い切った。

「……信をおかれることはありがたいですが。けして無謀なことはなさいませんよう」

「心しておきます」

 うなずくマーシスをバルトは少し不審げに見ていたが、己になにか言い聞かせるような目をしてから立ち去った。

 ――察しのいい方だ。

 言葉にできずとも、マーシスがなにかを考えていることに気づいたのだろう。漠然とした違和感を。

 まだ雨は降り続いている。

 ノウランが持ってきた矢筒を受け取り、マーシスは問う。

「偵察は戻ったか」

「つい先ほど。敵軍位置は予測通り、こちらの北端から三十ほ北に本陣が。本陣から後衛・中衛・前衛と」

 まっすぐにこちらの本陣を狙うつもりかと考えるマーシスの横、ノウランがつけたした。

「前衛に赤い鳥の旗が」

「――ライスンが最前とは」

 ライスン・クーリエルはアスリングリッド最高の戦巧者だが、人の好悪の激しい男であった。

 彼は直属軍の司令パルフェン・ノウとはそりが合わず、何度も衝突している。――そこにノンディが新たな火種を添えているはずだった。本来なら中央あたりにおくべき軍を前衛においたあたり、パルフェンはよほどライスンが気に食わなかったらしい。だがそのおかげで後に残せば面倒な〈戦鷹〉ライスンを先に仕留めることができる。

 ノンディは今どの国にいるのかわからない。だが戦闘が始まる前にできるかぎり相手の力を削いでいくといって、様々な国をまわっている。

 〝何故か〟優れた将が国から出られなければ。〝何故か〟野盗が糧食を狙えば。〝何故か〟君主が将の言葉を容れず兵を自国に戻せば。戦闘は行われずとも軍の力は大きく削がれる。ここまできたのはその積み重ねだ。

 ライスンは特に守勢に強く、猪突猛進する将ではない。彼の率いる三万八千を削れれば、数の上ではほぼ互角。

 ――まずは第一段階として。

 アスリングリッドをこちらに引きこむ。

 マーシスは矢をつがえ、天にむかって弓を引く。

 この戦いは自分たちの集大成でもある。〈盟王〉を討つための数年がかりのすべてはこのときのためだ。

 矢羽と鏃に細工をほどこした矢が北の空へと飛び、遠吠えのような音をたてた。

 さながらそれは狼の咆哮。味方には〝狩り〟の始まりを告げものであり、敵には今から喉笛を食い破るという威嚇だ。

 矢がたてる音に続き、鬨の声がイドラ=ル平原に響く。

 先に動いたのは〈新盟〉軍右翼、ツォグタイとハッスーフの軍だった。それに二拍ほど遅れて左翼主力、メイアとバルトの軍が鬨の声をあげて進みだす。

 弓兵などいらぬとばかりに騎兵が突き進んでいく。砂塵か泥か雨かさだかではないもやの中、雄叫びをあげ得物を振りまわしながら。

 両側からの初撃に、アスリングリッドの前衛はかろうじて耐えた。勢いのまま前進した右翼ツォグタイの騎兵の先鋒が、左翼から前進したメイアと合流したほどの攻勢だったが。

 ――御二人には、アスリングリッドを中衛から切り離していただきたい。

 両翼の隊がアスリングリットの兵を分断しつつ、中央南部で待ちかまえるクレイグ軍のほうへと追い込んでいく。各所で、周囲を包囲された部隊が投降する。降伏した者には手をださぬよう厳命してあるし、敵方にもそれは伝えたが。思った以上に手ごたえがない。士気はかなり低いようだ。

 自軍の伝令兵が近づいてくる。

「陛下。クレイグより、概算ながら投降兵が二千を超えたと」

「……わかった」

 こちらに投降した兵が二千。そこに戦死や負傷した者を加えれば相手の損害は約三千というところか。この短時間で一割削られるのは痛かろう。

 ――頃合いか。

 怒声と絶叫の続く戦場の端から見える一際大きな赤い鳥の旗を狙い、マーシスは矢を射る。

 矢が旗を射抜いたのを確かめ、マーシスは手綱を握る。

「準備はいいな」

 一斉に重い音が響く。百の竜人兵が同時に両の拳を打ちつけた音だ。

「リィラ・ルィラ・フィアマーシス!」

 竜人兵が声をはりあげる。――〈竜を従えし王〉と。

 おそらくこれほどに竜を〝使った〟者はおるまい。いずれなにかしらの報いはあるかもしれないが、それで〈盟王〉を倒せるのなら高くはない。

「出るぞ」

 マーシスが馬の腹を蹴る。その両脇から竜人兵が走りだす。兵のより薄い部分を選びながら目指すのは、さきほど射抜いた旗のもと――ライスンの陣だ。

 馬上で矢を払いのけつつマーシスは周囲をうかがい、遠方の弓兵を狙って射る。矢が外れることはなかった。

 竜人兵の突進力は尋常ではない。速さからして騎馬でなくては追いつけず、その勢いのまま対するものすべてを盾ごと押しこみ砕く。そんな最初の一撃を目の当たりにした者たちが、命惜しさに道を開いた。

 ライスンの陣まであと二十セグン(約二百メートル)というところか。馬首をめぐらせたところに、右からものすごい勢いでやってきた騎士の一団がいた。

「マーシス王!」

 先頭にいるのはツォグタイだ。人馬ともに血と泥で汚れているが、やけにいきいきとしていて、負傷もなさそうである。

 長剣を振り、ツォグタイが馬をそばに寄せてきた。

「何故総大将がこのようなところに」

「ライスンを落としに」

 ともに盾を持たず、手にした得物で矢と剣を払いつつ、片方が問い、片方が答える。

「サーフィル卿は」

「あれには別の任をまかせています」

 説得というにはあれは少々難があった。サーフィルは人の心というものを自然と受けるがゆえに〝そうなる〟までの心の機微を慮るということを知らない。

「このまま三万すべて削りきればこちらの損害も大きくなる。その前に将から」

「策は成ると」

 ツォグタイの声にうなずき、マーシスは手綱を握りなおす。

「でなければのこのこと前線には出ません。――ライスンが落ちたら公は一度お戻りください。次の相手にもう一撃くらわせてほしいので」

「心得た」

 ツォグタイが馬首を返すころには、竜人兵たちが道なき道を作っていた。戦場にできた空白。そこをマーシスは駆ける。全速で馬を駆けさせながら、再度マーシスは弓をかまえた。狙いはさきほどと同じ赤い旗。明らかに流れ矢ではない一矢に、旗近くの将がふりむいた。

 かの矢を追うようにマーシスと竜人兵が陣へとなだれこむ。

「異様に軽い装備――ナクルの竜人兵か」

 銀の甲冑に赤い長髪。自らの陣まで来襲した敵にも眉一つ動いていない。年は三十を超えてはいるが四十には届かぬかというところだろう。あわてる自軍の兵を手の動きだけで制し、彼は馬上のマーシスをにらんできた。

「竜人兵を率いる〈竜王子〉は黒髪と聞いていたが」

 見習うべき落ち着きぶりだ。こちらがただ鏖殺にきたのではないと見抜いている。奇襲するなら旗など狙わず将を狙うだろうし、ここで馬を止める意味がない。

「あれを期待していたなら申し訳ない。その王だ」

 マーシスは馬からおりる。アスリングリッド兵は動かない。もし誰かこちらにむかってくる者がいても、先に周囲の竜人兵たちが引きずり倒すだろう。それを彼らもわかっている。

「ライスン・クーリエルで間違いないな」

「いかにも」

 ライスンのもとまで、わざとゆっくり歩を進めていく。これはある種の舞台だ。この交渉の場を、やりとりを他者に見せつけるという意味では。

「降伏勧告だ、ライスン卿。貴殿はもう充分〈盟王〉のために働いた」

「総大将自らの招きはありがたいが、そうはいかん」

 マーシス同様、ライスンは腰の剣に手をかけてはいない。

「これからも、よそ者の貴殿をおいて逃げだす算段をたてるような臣と、ただ使い潰すことしか考えない〈盟王〉のために戦うと?」

 これだけの物量のぶつかりあいである。後方にその声や音が届いていないはずはなく、伝令が動いていないはずもない。にもかかわらず後方のネイリフ、チェイル、パルフェンの三軍に目立った動きはなかった。まともに戦う気などないのだ。

 下手に直轄領の兵を損なうことは、〈盟王〉の力を損なうも同じ。ならば先に出して働いてもらうなら、属国のアスリングリッドだ――ということだ。それくらい彼もわかっている。

「王は、あの愚鈍どもがそれに値すると?」

 マーシスは首を横に振ってから問い返す。

「ならば他になにがあります」

「妻子が〈盟王〉のもとにいる」

 ライスンが拳を握りしめる。

「私の家族だけならいい。だがあそこには陛下の」

「――南の丘の我が陣が見えますか、ライスン卿」

 初めてライスンの目が揺らいだ。

 彼が見つめているのは南に陣を敷くクレイグの本陣。そこに場違いなほど優美な傘が立てられており、その下に二人の婦人と三人の子供が立っている。

「……どうして」

「貴殿を説得するために。妃殿下と王子殿下の到着がもう一日早ければ、先に書状でも出せたのだが」

 ハビ=リョウからアスリングリッドの王妃を含む五人を連れだせたのは、昨夜遅くのことだった。ノンディの手の者が手引きし、夜の闇に乗じて都から抜け出させ、そのまま馬車を走らせて直接こちらまで招いた。彼女らにはライスン降伏のための〝鍵〟になっていただくと伝えてある。それが帰国への条件だと言う前に、王妃たちは承諾した。

 ――これ以上、〈盟王〉のもとで彼を縛るべきでないと。

「貴殿が今からどの道を選ぼうと、あの御婦人たちは必ずアスリングリッドへ送り届けると約束する。――そのうえで問う。ライスン・クーリエル。貴殿はどうする」

 ライスンは一度周囲を見回した。困惑の色が浮かぶアスリングリッド兵の中に、発言を求める者はいない。自身の軍とこちらの兵を見てから、彼は一度息を吐く。

「我が軍を他の軍と分け隔てなく、とは言わない。せめて無体を受けぬていどの扱いを。私はどうなってもかまわない。兵たちには相応の扱いをしてほしい」

「無論」

「では、道は決まった」

 ライスンの目が鋭くなる。

「伝令を。――全軍反転だ」

 アスリングリッド軍の動揺は短かった。むしろ歓喜の声さえある。多く、というかほぼすべてのアスリングリッド兵は、カナレイアでも〈盟王〉ではなく、〈戦鷹〉ライスンに信を寄せている。他国のためにただ働くのと、自分たちが誇りとする将が、保身から自分たちを危地に追いこんだ者を討つ――、どちらが兵にとって滾るかは考えるまでもない。

「降伏にも相応のものが要るだろう。――それに」

 それは将たる者にとっても同じだった。ライスンはこちらに背をむけ歩きだす。

「あの直轄軍どもをぶん殴れる機を逃すなどありえん!」 

 明るさすら感じさせる声だった。こちらの口元が思わずゆるんでしまうほどに。

 マーシスは馬上に戻り、竜人兵を呼ぶ。

「ジャライルに二段目の合図を」

「かしこまりました。我々は」

「メイア王のもとに行く。やりすぎてアスリングリッドの兵を減らされすぎては困る」

 もう赤い鳥の旗は自軍の旗だ。この陣の者たちがさっきよりいきいきとしているのも気のせいではない。

 泥だらけの馬の腹を蹴り、まだやまぬ細い雨の中、マーシスたちは左翼の前線へむかう。復路は阻むものがないぶん、行きよりもずっと早く楽にたどりついた。

「ずいぶんと男前な姿じゃないか、我等が〈盟主〉は」

 馬にも乗らず剣を手にしたメイアが、マーシスを見て相好を崩す。その顔は泥と返り血で元の肌の色がわからないほどだ。

「先鋒は崩したというか寝返らせたようだが」

「ええ。予想以上によい手応えでした」

「我等はどうする」

「さらに西へ兵を伸ばせますか。中央をアスリングリッドにまかせて――」

 話の途中で二人は、いや二人だけでなく戦場のすべての者がその音を聞いた。

 高いラッパの旋律に太鼓の音が重なり、さらに未知の楽器による聞いたことのない音が続く。どの音も旋律も、戦場の重さとかみあわず華々しく浮いている。

「……なんだあれは」

 メイアのつぶやきは、戦場にいるほぼすべての者がいだいたであろう疑問そのものだ。音楽は自軍中央、クレイグの陣から聞こえてくる。南の丘の上で何十人という楽隊が、不思議な音楽を奏で続けていた。

「アスリングリッドを落とすまでが第一段。その次に移るまでに、なにか人目を引くことはできないかとは頼んだのですが」

 これは誰もが目をひく。マーシスの依頼に、ジャライルは彼らしい全力で応えてくれたわけだ。

「だが景気のいい音楽だ。辛気臭いよりはよほどいい」

 屈託なくメイアが笑う。

「こちらはアスリングリッドの助けになればよいのだな。残りを叩くための」

「はい。そちらは遠慮はいりませんので。両翼を広げて半包囲の状態になるころには、大勢は決しているでしょう」

 こうして話しているあいだにも、自分の後方にあったアスリングリッドの兵が北へと移動している。

「左翼はおまかせします。おそらく先ほどよりはずっとぬるい相手でしょうが」

「承知した」

 公用語で答えつつ、メイアは横の兵士に左手でなにやら指示を出し続けている。かの国では指の動きで意を伝える術があると聞いたが、器用なものだ。

「……しかし惜しいものだ」

「なにがです?」

 メイアが手を止めると、横の兵士がメイアから離れ立ち去った。王の指示を伝えに行ったのだろう。

「私があと二十若ければ、見境なく〈盟主〉の寝所にうかがっていたところだ」

 虚をつかれた思いがした。

 女王の国は強さを尊ぶ国だ。そういう国の王に口説かれるというのは名誉といえるのだろう、きっと。

「寝所で出迎えられるかどうかはわかりませんが、勝利の美酒のおつきあいでよければ」

 ようやく謎の音楽がやむ。

 では、とマーシスは馬の腹を蹴る。

 左翼はこのまままかせて大丈夫だ。バルトならうまくメイアの動きに合わせてくれるだろう。

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