5・参陣(1)
雲の形は秋のものだった。薄い雲がたなびく空は青く広い。馬上から見上げた空が、王都のものより広く感じるのは気のせいではないだろう。
マーシスは空から地に目を移す。
カナレイア直轄領、ジュグ=ダ草原。人馬の足音は絶えず続いているが、カナレイア王都ハビ=リョウに至る街道には旅人や商人の姿はない。足音の主――ナクルが進軍しているという噂から、皆この一帯を避けたのだ。
「陛下」
近衛騎士のノウランがマーシスのもとまで馬を寄せ、声をかけてきた。
「速度はこのままでよろしいのですか」
竜人と通じるものがあるという、実直な護衛が問うてくる。
「予定通りだろう? 早めることも遅くすることもない」
二人の後方には騎兵を中心とした二千人の軍がいる。竜人ではない、ナクル人で構成された軍だ。開戦から七年を経てようやくこれだけ、なんとか体裁を整えるに足る数が揃った。
「旗印が見えたか」
「はい」
自分より目のいいノウランが前方を見据えてうなずく。
「ナクルの他に、クレイグとキルシュ、スパンとアラインの紋章が」
「錚々たる並びだな」
新しい〈盟〉の中核たる国々だ。やっと出てきた王を見物に来たのだろう。見物か、あるいは査定か。両方というのもあるだろう。旗印が出ていないだけで、他の国の面々も来ている可能性は高い。
ナクル国王軍は前進する。前方かすかに見えていた陣営が、徐々にはっきり鮮やかになっていく。
最前にいるのは同じナクルの兵だ。杖をくわえた羊の紋章。その旗の下に黒金の鎧を身につけた騎士がいるのが見えた。
――あいつめ。
二つの軍勢が近づく。
互いの矢が陣の中央まで届くだろうという距離まできたときだった。
騎士と、従卒らしき少年が一人、マーシスのほうへと歩いてくる。その甲冑は黒金の立派なものだったが、前方のあちこちに傷があり、背後のマントもぼろぼろだった。
国王と揃いという黒金の甲冑は、どの軍にも知られているといっていい。誰よりも早く先陣に立ち、誰よりも後に戦場を発つというナクルの〈竜王子〉のことは、ここまでの道のりで何度も耳にした。甲冑のあちこちにある傷をそのままにしてあるのは、それが戦果の証ゆえ。
王の軍の前、騎士はうやうやしく片膝をつき、頭を垂れた。
ノウランを見やれば、察したノウランが片手をあげて行軍を止める。
マーシスのみがゆっくりと馬を進め、騎士のそばまできて馬からおりた。
数年前なら「芝居がすぎる」と渋い顔をしていそうな竜が、すすんで膝をついている。
――まったく、こいつときたら。
昨夜のうちに流れは決めていたとはいえ、のりがよすぎではなかろうか。
片膝をついたまま、サーフィルが顔を上げ、マーシスの手をとる。
「お待ちしておりました、我が王」
頭を垂れ、マーシスの手の甲に口づけてから、サーフィルがにかりと笑う。
笑顔のままあえて声を出さず口だけを動かして告げるには。
――あとよろしく。
その顔で察した。
サーフィルの手が離れる。その瞬間に彼の四肢が崩れた――ように遠目には見えただろう。鎧が各部ごとに音を立てて地に落ち、その背にあったマントが鎧を覆う。
「――お前なぁ!」
呆然と立ち尽くす従卒の前、マーシスはしゃがみこんで広がるマントをまくり、鎧をどける。鎧の隙間からひょいと青い角持つ頭がのぞく。自身の翼で鎧をどけた竜がマーシスの腕にとびのった。人の腕で片方ずつ翼と足をのばして御機嫌である。
マーシスはまだ固まっている従卒を見る。マーシスより五才は若そうだ。淡い色の髪はナクルの者ではない。どこかの国が〝気をきかせて〟サーフィルにつけたのだろう。
「サーフィルから『鎧を持って帰るように』と言われたか?」
従卒がうなずく。
「一人では難儀するだろう。こちらから人を回すから、こいつの天幕まで持って帰ってくれ」
従卒が再びうなずく。ふりかえればノウランが駆けてくる。ここは彼にまかせていいとみた。
上機嫌の青い竜を肩に移し、マーシスは馬に乗る。
「ノウラン、この子とサーフィルの鎧を頼む。――先に行く」
「かしこまりました」
一声かけ、マーシスは馬の腹に足を当て進ませる。わざとの並足だ。肩に乗り頭をすり寄せてくる竜がよく見えるように。
「……本気で全部こちらに投げるつもりだな」
互いにしか聞く者がいないのをいいことに、マーシスはつぶやく。周囲に人はいない。もし何かあったとしても、肩の竜がそれを見過ごしたりしないだろう。
「ちゃんとならしておいたし、支障はないはずだぞ」
すっきりしたとばかりの声が少々腹立たしい。これまでらしくもないほどに奮闘していたのを知っているだけに、口には出さないが。
「名代のほうが出来がいいと言われては立つ瀬がないな」
「それはない。お前以上の王はここにはいない」
「自分にとって、だろう?」
耳にしたかぎりでは新しい〈盟〉に加わった王や将の中で、自分より若い者はいない。どの勢力も、ようやくやってきた若い王を値踏みにやってくる。だったら最初にかましておこうといったのがマーシスで、それに悪のりをかけたのがサーフィルだった。
馬が鼻を鳴らす。居並ぶ兵の前で馬を止めれば、サーフィルと同じくらいぼろぼろになったマントをまとった男が片膝をついた。他の者たちもそれにならい、一斉に膝をつく。
「ようこそ、陛下」
「長らく世話をかけた、オーシャ」
マーシスは馬からおりる。鳶色の髪の男――オーシャは我が意得たりという顔だ。
「我等の戦果については御報せしたとおり。〈竜王子〉の活躍もあり、士気も高うございます」
「なによりだ。――他の皆も、顔を上げてもらえるか」
近づいてきた兵卒に馬を託し、マーシスは自軍を見渡す。
「皆の功はサーフィルから聞いている。――なにより生きてここまできてくれたこと、わたしをここまで連れてきてくれたことに感謝を」
思わず顔がゆるみそうになった。七年ぶりの懐かしい顔が並んでいる。全員に声をかけ、昔のように話しこみたいところだが、立ちあがったオーシャの顔からして、のんびり話を咲かせる時間はなさそうだった。
「そろそろ来ますよ。サーフィルの天敵が」
こっそりと、オーシャが他人に見えないようとある方向を指さす。
まだ膝をついている兵の隙間をぬうように、色のかたまりがやってきているのが見えた。
地味な軍装の竜人兵たちの中でも多色使いの派手な色の動きはことさらに目立つ。その後ろからついてくる供までも色鮮やかだ。
息せききってやってきた丸顔の王は、マーシスより指三本ぶんほど背が低く、三割ほど恰幅がよかった。
「おお、お待ちしておりましたぞ、ナクルの王よ。私はクレイグのジャライル・ルルカ・バーサラディと」
四十代になって褪せはじめた金の髪には王冠の代わりとばかりに原色の布が数枚巻かれており、衣服も――彼は剣を携えただけだった――同じ彩度の鮮やかな上質な染めとその数倍は手がかかっていそうな刺繍が全面に施された立派なものである。すべてにおいて豪奢であるが、それらが独特の調和をなしているあたりに、この人物の審美眼がうかがえた。
「マーシス・ディート・ナクルと申します。お会いできて光栄です、ジャライル王」
公用語での応答も慣れたものだ。ジャライルは人とその肩の竜とをそれとなく交互に見ている。
「他の王や将も待っておりますぞ。さあこちらへ」
竜人兵たちがさっと道を開ける。
マーシスとしては先に兵たちと話をしたかったが仕方ない。オーシャに目配せし、クレイグの王と並んで歩く。
「いや、てっきり〈竜王子〉とは容貌と強さゆえの異名と思っておりましたが、まさか本物の竜であったとは」
マーシスは首を傾けてみせる。サーフィルはきっちりとクレイグの王とは反対側の肩にまわっていた。逃げている。
「王は竜の姿を御覧になられたことはなかったと?」
「一度も」
ジャライルの声には、もっと早く見たかったという心情がにじみでているようだった。
「〈竜王子〉が王を尊ぶことはこの〈盟〉に加わる者の誰一人疑いもせぬだろうが――本当に竜であると信じていた者は陛下の軍以外では二割もおらぬでしょう」
――たぶん、面倒だったんだな、とは言わずにおく。
人から竜になるならともかく、竜から人の姿になるならまず服を着ねばならない。全裸でうろついて騒がれるのもまた面倒だからとそのままでいたのだろう。
「しかし、王はどうやって竜を手に入れたのです」
あたりは連戦の軍が留まっているにしては活気があり、それでいて整然としていた。きびきびと兵士たちは立ち回り、二人の王に礼をとる者が肩の竜に気づいて目を丸くする。
「わたしが竜を手に入れたのではありません。竜のほうがわたしを選んでくれたのです」
これは偽りない本心だ。
自分が竜を呼んだのではない。運よく竜のほうから自分の国にやってきたのだ。とはいえ、これだけでは聞いた者はなかなか納得してくれないだろうとふんで、一言つけ加える。
「……知り合いの〈竜の友〉ならおりましたが」
「ああそれで」
ジャライルが相槌をうつ。とりあえずは納得したようだ。
――〈竜の友〉といえば、ゴーチェはどうしているだろう。
ナクルにいるただ一人の〈竜の友〉。サーフィルが前線にいると伝えると彼女は絶句し、かなり時間をおいてから「当の竜がそれでいいというのならなにも申しませんが」と苦笑していた。〈竜の友〉なら絶対できないなとも。
「ジャライル王にはこちらの先代から御厚誼を受けていたと聞いております」
「うむ。父君のことは急であり残念なことだったが――これだけ立派に息子が育てば、天界の父君も喜ばれよう」
父の葬儀に参列した国は多くはなかったが、その数少ない国の一つがクレイグだった。
直接大使をおいていないナクルに、わざわざ隣国にいた大使を弔使としてつかわしてきたのをノンディが覚えていた。
「先代とはハビ=リョウでお会いしたが、よい御人であった。まだ若かった余にあれこれと骨を折ってくださったことは忘れられぬ。かの御人がおられぬのは残念極まりないが、その忘れ形見に恩を返せるというなら、それに勝る喜びはない」
いくらか感傷的にすぎるきらいはあったが、舌先で嘘を言っているようには見えなかった。大仰なのは生来のものとみていいだろう。
他より一回り大きな幕舎が見えたあたりで、マーシスは腰にさげていた布の袋をはずす。
「こちらを。ジャライル王」
立ち止まり、マーシスは横の王に袋を手渡す。上から袋の中をのぞきこんだジャライルが、焦りの色濃き目でこちらを見返してくる。
「マーシス王。これは」
「わたしからの気持ちです。幕舎の中では渡しにくいと思いまして」
「しかし、これほどの」
ジャライルは落ち着きなくマーシスと袋の中身を見ている。
袋に入れてあるのは真珠だ。それは女性の握り拳ほどの大きさの真円で、純白の表面には虹を思わせる艶がある。
「先王への御厚誼、そしてこの〈盟〉において、各国に物資の不安なく進ませてくださったことへの御礼です。――特に武器の消耗が激しい我が軍に幾度となく手をさしのべてくださったこと、サーフィルからも聞いておりますので」
真円の真珠は貴重だ。まして大きさが大きさである。小さな国なら買えるほどの値がついてもおかしくはない。それをぽんと手渡す物の値打ちを知らぬ者ととるか、取引ができる男とみるかはこの王次第だ。
幕舎へと歩きだすマーシスに、ジャライルがあわててついてくる。
「ありがたく頂戴しましょう。ですが――これはただの真珠ではなく、竜の手によるものでは?」
「ええ。わたしが好きにできる数少ないものです」
国の財産ではなく王家のものでもない。竜について相談した折にゴーチェから「自分が持っているよりも役に立ちそうだから」と渡されたものだ。竜は成長し、〈竜の友〉のもとを去るときに、人が喜びそうなものを残していくという。それを気前よくなんの迷いもなく渡してきたゴーチェもたいがいだが。
「大事にしまっておくよりも、価値のわかる者の手にあるほうがずっといい」
肩のサーフィルは真珠のことをわかっているようだが、なにも言わずに周囲を睥睨している。
着いた幕舎は広場がすっぽりと入りそうな大きさがあった。警護の兵がジャライルを見て一礼する。顔をあげ、マーシスの肩にいる竜に驚いたが、彼はすぐに平静を取り戻し、入口の幕を開けた。
中には十一人の王と三人の将。座る十四人が連れた従者と護衛が立っていた。それらの視線はすべてこちらにむいている。
――全員か。
今この〈盟〉に加わった国の首領、ないしはその代理が一堂に会している。
先に歩きだしたのはジャライルだった。
「お待たせした、お歴々」
堂々と、もしくは悠々とでもいうべき足取りだった。
「ようやく我等の盟主が到着された。――さあ王よ。どうぞあちらへ」
王たちが座る卓は縁の形をしていた。誰の案かわからぬが、この〈盟の〉中で必要以上の序列を作らぬようにという配慮だろう。
マーシスは空いている席に言われるままむかう。卓は円形だが、マーシスが座った席は幕舎のもっとも奥側だった。
「まずは無事の到着、なによりでした。ナクルの王」
甲冑をまとった女性が、朗々とした声をあげた。黙っていれば三十代ぐらいの、黒髪の美丈夫に見えなくもない。
メイア・エルグラ。女性も戦陣に立つというコムトルア国の王だ。
「我々は貴殿の提案を受けここまで来たが、あらためて意向を聞かせてもらいたい」
先陣はこの王か。一度軽く目を閉じ、マーシスは頭の中を整理する。
十才で即位して以来、値踏みされるのには慣れた。ここにいるのはマーシスの考えにいくらかは理か利ありとみてやってきた者、〈盟王〉の都で自分を笑った者たちよりずっと話はできる。それに、己もまた九年前の、十一才の幼い王ではない。この肩になにより信頼できる友もいるのだ。
マーシスは目を開ける。恐れも震えも今はない。
「御言葉もっともです、メイア王」
なめらかな公用語で答えれば、自然と師から学んだことが思い出された。王としてどうあるか、あるべきか。それを何年たたきこまれたことか。背を正せ。姿勢は人の意と威を表す。声をならせ。ゆるがぬ声は穏やかな圧となる。己をどう見せるか場に入る前から考えてふるまえと。
いけるという自信はあった。それだけのことを積み重ねてきたと。
ここが、自分の最初の〝戦場〟だ。
竜を前線に出した王として、こんな場所で負けてはそれこそ立つ背がないというもの。
「わたしの意は、皆様方にお届けした書簡に記したとおり、あれから変わっておりません。――〈盟王〉を討ち倒し、現在の形を壊す」
「ならば、その後は」
問うたのはメイア王のむかいに座る壮年の男だ。
「〈盟王〉を倒してもその次に来るのがただ若いだけで中身は同じ、というのでは困る」
「そのようなことはないと断言します、オクトフ王」
名を呼ばれた側が眉間に皺を作る。
紹介はまだない。それに先んじてメイアが言葉を放ったからだ。なのにこの場でただ一人の女王はともかくとして、他にも似たような年代の者が多い王を見分けた。
こちらはこの場にいる者のこと、戦場のことを把握しているのだと、いちいち説かずとも居並ぶ者たちはこれで理解したはずだった。人を率いる立場の者ならば、それくらいの察しはつくというもの。
軽く首を動かした竜の翼を撫で、マーシスは続ける。
「我が友、この竜に誓ってそのようなことはありえない」
自分の考えは宰相たちには告げていた。彼らからも反対はされなかった。
「わたしが〈盟王〉を討ち倒したい理由は、現在の状況を変えたいからです。そんな自分が〈盟王〉もどきになるなど、考えただけで吐き気がする」
兵をあげ、〈盟王〉を討った後はどうするか。それは開戦前からまったく変わっていない。他国を属国として従える――己には最初からそんな考えはなかった。
「わたしの望みは、自分の国が独り立ちすること」
これは王たる父の長年の悲願であり、臣下たる父の親友たちの悲願でもあった。
「国の大小でも豊かさでもなく、属国としての格でもなく、ただあるように立つ。他から奪うことも奪われることも、誰かに従うことも従わせることもない。そのような国としてどの国とも対等にある。わたしは、自分の国をそんな国にしたい」
マーシスは並ぶ者の顔を順に見る。すでにもう、こちらを値踏みの目で見ているものはいなかった。
「この中で〈盟王〉の前で膝をついたことのない者はいないでしょう。誰もがそうせざるを得なかった。――それをなしにしたいのです。良きものがあれば分けあえる、困窮すれば助けあえる。それもお互いに対等の国として。わたしが勝ちとりたいのは服従ではなく、尊重の上に成り立つゆるやかな連帯です」
ダン、と激しい音がした。最年長の白髪の王が立ちあがった音だった。
「ナクルの王よ。貴殿は戦場での〈竜王子〉を御存知か」
立ちあがり、にらむようにこちらを見るのは遊牧の民、ティヌーブの長だ。カラブスの子ツォグタイ。
「あれほど苛烈に戦う者を儂は他に知らぬ。かほどの者が朝ごと昼ごとに仰ぐ者はどのような者かと思ったが――よくぞほざいた!」
酒を、とツォグタイは後ろをふりかえり言いつける。
「ティヌーブはナクルの友となろう。貴殿の言うゆるやかな連帯、新たなる〈盟〉の中でだ」
円卓に座す面々の前に杯が置かれ、酒がつがれていく。
「儂は決めた。他はどうだ? 儂のおごりだ。異なき者、この若き王に賛同する者は杯をとれ。――ではお先に」
ツォグタイが年に似合わぬ勢いで杯をあければ、次々と手にとられた杯が空になっていく。
最後に残ったのはマーシスの前の杯。
十五対の目がこちらにむいている。
「御決断に、感謝を」
一度杯をかかげてみせてから、マーシスはゆっくり杯の酒を飲みほした。
異国の酒は初めて口にするものだったが――悪い味ではなかった。
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