3・出陣
「――絶対に嫌だ!」
国王の横で場所にそぐわぬ大声をあげた者は、毛を逆立てた猫のように興奮しながら王の肩にしがみついていた。
場所はナクル王都の王宮南側。前王とその家族の肖像画がかけられた国王の執務室である。
談話用にしつらえた席にむかいあわせで座る、年の離れた人間二人はさして動じることもなく「やっぱりな」という顔をしていた。
「……まあそうおっしゃるだろうとは思っていましたが」
王の前でため息をついたのは宰相のヨウグ・アルド。文官には見えぬ恰幅のよい体を丸め、マーシスにとって母方の伯父にあたる男が二度目のため息をつく。
「開戦より二年。他国との連携も増えてまいりました。このあたりで〈竜王子〉が参陣すれば大いに士気も上がろうというものですが」
ちらりとヨウグが上目づかいで見た相手――〈竜王子〉といつの間にか諸国から呼ばれるようになった――は、相変わらず息を荒げた興奮状態にある。さっきまでは王の肩にしがみついていたが、今はもう離れないぞとばかりに抱きついていた。
「聞いてないぞ、そんなの」
「申し上げておりませんでしたので」
「――知ってたのか、マーシス」
「……一応、相談はされた」
サーフィルのいないときに訊かれ、まず間違いなく「絶対に嫌だ」と言うだろうことは宰相に伝えた。
オーシャと竜人の軍――というにはささやかともいえる人数だったが――が出征して三年。戦況はほぼ宰相たちの読みどおりだった。順調といっていい。順調であるがゆえに想定と異なることが増えてきた。
その一つが他国の参入だった。他の属国を味方につけることは当初の計画からあったが、その参加が予定より早く多い。
加えて格だ。中には王自ら軍を率いてきた国もある。最初に立ち最も戦果をあげているナクルといえ、このままではいずれ〝舐められる〟というのが宰相の危惧だった。
だがまだ〈盟王〉の都までは遠い。若い王を出せる状況ではないし、他に軍を率いることのできる王族もいない。現状、この国で他国の王ともわたりあえる〝格〟のある者は――ときて宰相が考えたのがサーフィルだったわけだが。
「嫌だ。俺はマーシスから離れないからな! 一年とか二年もなんて冗談じゃない!」
――と言うだろうことも宰相には伝えた。宰相もまあそう言うだろうなと読んでいた。
「オーシャでいいだろ。あいつは見栄えも悪くないし!」
「そのオーシャからの推薦です」
ぐ、とサーフィルがうなる。こちらの肩をつかむ手に力が入りすぎて少し痛い。その手をぽんぽんと軽くたたき、だめだろうと思いつつも、抱きついて離れそうにないサーフィルのほうをむく。
「わたしが頼んでもだめか、サーフィル」
「マーシスの頼みでもこれはだめだ」
――これはだめだ。こうなってしまってはサーフィルはまず譲らない。
マーシスが前をむくとヨウグが首を横にふった。
「……というわけだ。すまない伯父上」
「まあ予想はできておりましたが。――ナクルの、陛下のこれからを思えばとても有益なことなのですが」
肩をつかむ手が離れた。その代わりにひざの上にさっきまでなかった重みが加わっている。
「サーフィル、お前なぁ……」
人の膝の上で、竜の姿になったサーフィルが丸くなっている。頭を首と体の中につっこんで、「聞く耳持たぬ」という意志を全身で示しながら。さっきまでサーフィルが立っていた位置にはぬけがらのように衣服が落ちていた。
「戦況についてはオーシャからも聞いている。兵の損傷もほとんどなく順調だと」
「だからこそ、この機にと考えたのですが」
たたまれた翼をなでつつ、マーシスは伯父の言葉を聞く。
「ナクルの王に竜がついている――これはすでに多くの国に知れわたっております」
「大使が代わるたびに宴を開いた苦労があったな」
「将は戦場における君主の名代。稀なる竜が率いているとあれば、後々まで響く〝戦果〟となりましょう」
「念のため訊くが、伯父上」
ぴくりと竜の翼が動いた。
「やはりわたしが出るというのはだめか」
「だめだ」「だめです」
二つの声が同時に同じことを言う。
「陛下が出られるのでしたら、この竜は必ずついていくでしょうが――まだカナレイアを削りきれておりません。この状態で国を空けられるのは」
「戦場でわたしになにかあったら、ではないのだな」
「それは心配しておりません。どこぞのわがままな竜がいるかぎり、陛下に危険が及ぶようなことなどあろうはずがない」
それから宰相は思いもしなかったことを言った。
「この〈竜王子〉のおかげで陛下を狙う刺客が何人片づいたことか」
「え?」
「御存知ありませんでしたか?」
まったくわからなかった。どこからの者かはまあ言わずもがなとして、そんな形跡がどこにあったか。
「この竜は誰より殺意や敵意といったものに敏い。それが陛下を狙う者であればなおさらです。それに、食べ物は不要なくせに毒のにおいにも敏感だ」
「……そうだったのか」
ごくまれに、食事前に「それ冷めてるぞ」などと言って手をつけるまえの皿をとりあげられたことがあったが。だがそれ以外の心当たりはない。
「陛下の護り手を前線に出すのは我々としても苦渋の決断でもあります。陛下からも〈竜王子〉にお話しください」
「……試してはみよう」
こちらの答えにうなずくと、ヨウグは部屋を出ていった。閉まる扉からひざの上の竜に目をむける。変わらず竜は頭をつっこんで丸くなったままだ。
「ありがとうな、サーフィル」
自分はまったく気づいていなかった。知らなくともいいようにふるまったのだろう――この竜が。
……それからずっと、サーフィルの機嫌は悪かった。完全にふてくされている。開戦前なら竜人のもとに行って一暴れもできただろうが、サーフィルの八つ当たりの一撃を受けられそうな面々は皆前戦だ。
夕食時も竜の姿のままじっと黙っていて、このにぎやかな竜にしては不気味なくらい静かだった。マーシスとしてもまったく落ち着かない。
着替えを終えて寝室に入る。サーフィルはすでにお気に入りの枕の上でとぐろを巻いていた。
「……サーフィル」
近づいて呼べば、竜が閉じていた目を開けてこちらを見る。マーシスはベッドに腰かけ、竜に手をのばしかけてやめた。
「その……なんというか。わたしはお前に甘えすぎていたんだと思う」
強くて綺麗な無二の友。なにより自分を大事にする――しすぎるこの友に。
「どれだけ尽くされても、わたしはお前に返せるものなどないだろうに――」
背後から肩をつかまれた――そうわかったときには青い竜の頭と天井が見えていた。自分の二倍はありそうな大きな竜の手で、左右の手首をしっかりと押さえつけられたうえで。
なにより驚いた。竜の大きさは自在だとは聞いている。けれどもサーフィルがこんな大きさになったことは一度もない。
マーシスは大きさこそ変われど、形は変わらぬ顔を見返す。角から額までの純粋な青。中でも瞳は人の姿と変わらない深い青だ。
名を呼ぼうとして開いた口に、なにかが入ってきた。開いた口の中すべてが濡れたそれで埋まったばかりか、喉の奥まで蠢くものが占めている。息が苦しい。
竜の舌だ、というのはわかった。わかったがわけがわからない。自分がされていることの意味が。理由が。問いただそうにも声は出ず、あがこうにも体格が違いすぎた。
口をふさがれるだけなら呼吸もできるだろうが、こうして喉まで舌を入れられてはどうしようもない。奥を突かれて不規則にえづき、涙目になった視界を青が占める。
人が竜の機嫌を損ねてただですむはずがない。そう話に聞いていたが、自分はまだまだわかっていなかったのだろう。
このまま竜がその気になれば、なにもできずにあっさりあっけなく自分は死ぬ。喉を突き破られるか、窒息するか。
――それでも。
マーシスの手から力が抜ける。
――最後に見られるのがこの竜なら。
このままなにもできずに終わろうと、自分の死がこの竜によるものならば、それはどんな死よりも嬉しいものではないだろうか。残念なのは名を呼べないことぐらいだ。
意識が遠のく中、揺らぎ、狭まる視界を占める青。
――ああ、やっぱり綺麗だ。サフィは。
不意に舌が抜け、手が離れた。突然の解放に困惑する余裕もなく、体が求めるままにマーシスは背を丸めて咳きこむ。
「……苦しかったか」
咳きこむこちらを見下ろし問うてきたサーフィルは、人の姿をとっていた。竜の姿から戻ったので裸だ。
マーシスはうなずく。
「俺もそんな感じだった。卵の中にいたとき。あの都にいたとき」
サーフィルの手がこちらにのびる。首をしめられるかと思ったが、その手は愛おしげに撫でただけだった。
「嫉妬と敵意と悪意と欲。そんなものばかりが延々と流れこんできた。守り手であるゴーチェもいたが、それだけで守りきれるようなものじゃなかった」
ようやく息が整ってきた。マーシスは両目をぬぐい、よろよろと上半身を起こして息を吸い、吐く。
サーフィルが話しているのは、数回ぶりにナクルが応じた〈お召し〉のことだ。
名を呼びかけた口を止められる。話を続けさせてくれと言う代わりに、今度はそっと指をあてて。
「卵がなにかに当たって、ゴーチェのもとから離れて。それからが最悪だった。一際どす黒いものが流れこんできて、このまま死ぬと思った。死んでいいと思った。こんなところで生きていく意味はないと心底思った。――だけど」
笑うようにサーフィルの口が動く。
「一つだけ、綺麗なものが残っていた。俺の中に」
サーフィルは笑っているはずだった。それなのにどこか泣いているようにも見えた。
「『だからきっと、この竜も素晴らしい竜になる』。俺にそう言った人間がいた。どこまでいっても明るく混じり気のない気持ちで、それを思いだしたときだけ、体が少し楽になった」
「――それは」
言われなければ思いだしもしなかった。
それを言ったのは自分だ。〈お召し〉の前にゴーチェが見せてくれた、まだ卵だったもの、名前すら知らない竜を思って、自分は確かにそう言った。
「あの言葉を嘘にはしたくない。そう思った。なにより、もう一度あの綺麗なものを見たかった。小さい星のように遠かったけれど、それがあるのはわかったから、俺は殻を割った」
ごく近くで見れば、サーフィルの目は人のものではないことがわかる。濃い青の中にわずかに見える独特の模様。竜の姿でも人の姿でも変わらない彼の本質の一つ。
「……そんな、たいしたことじゃなかっただろ」
率直に思ったことを口にしただけだった。ゴーチェが見せてくれた白い卵を見て、あのときの自分はありのままを言った。
今でも、それが人生を左右するようなものだったとは思えない。綺麗なものを見て綺麗だということは誰だってある。
「知ってる」
こつんとサーフィルの額がマーシスの肩にのってくる。
マーシスはサーフィルの肩に腕をのばす。他者を簡単に殺せる生き物が怯えて震えている。
「でも、だからこそ嘘はなかった」
「そうだな。それはそうだ」
確かに嘘はなかった。あったのは純粋な感嘆と希望。なにも知らないからこそ持ちえた小さな輝きだ。
「だから頼む。『返せるものがない』なんて言うな。最初に返せないくらいのものをもらったのは俺なんだから」
「……わかった」
本当はサーフィルの言葉を聞いてもまだ、自分の言葉と彼の行動がつりあっているとは思い難いのだけれども――マーシスはうなずくことにした。彼のことを思えばそれ以外に答えようがなかった。
――あんなに大きくて強いのに。
さっき見た竜の姿を思えば不思議なほどだ。
その背を撫でているうちに、ふと、ひらめくものがあった。それこそ小さな星を見つけたように。
「サーフィル」
肩についた額が動く感じがした。うなずいたのだろう。
「竜の姿ならどのくらいの速さで飛べる?」
サーフィルが顔を離した。もう震えは止まっている。
「飛んでほしいのか?」
「今ではないけど」
王宮の中で、竜の姿で飛ぶことはしばしばある。それは蝶のようにゆったりしたり、鳥のように速かったりと様々だ。
いくらか間をおいてサーフィルが答える。
「やったことはないけど、本気で飛べば、大陸一周するのに半刻みもかからないと思う」
一刻みは水時計の目盛り一つ分。太陽が十五度動く時間だ。半刻みというなら、食事をしてくつろいでいるあいだに大陸往復できることになる。こちらが思っていたよりずっと速い。
「それがどうかしたか?」
これを言うとまた怒るだろう、けれどもうたぶん、今以外に頼めない。
「それだけ速いなら、戦場からもすぐ戻ってこられるな、と」
「……」
案の定サーフィルは顔をしかめた。むくれている。
「俺に、お前から離れろと」
声も少し低くなっている。ここで下手を打つとまた全面拒否になるだろうが。
「年単位じゃなく半日だけだ。夜はお前のために空けておく」
竜を代理に使うなど人として不遜の極みだろう。それもこんな私情で。オーシャも言っていた。〈竜の友〉がもっとも忌避するのは〈竜使い〉に堕すこと、ただ竜を使役するだけの者になることだと。きっと今の自分のように。
「わたしが行ければいいんだろうが――まだこの国を空けられない。他に任せられる者もいない」
サーフィルは迷っているようだった。だが即答で断られないということは、半ば成功したも同然といえる。
「――サフィ」
「……わかった」
そう言いながら目を合わさないあたり、〝本当に仕方なく〟〝不承不承〟というのが目に見えて、この竜は実にわかりやすい。マーシスのことを「嘘がない」というこの竜こそ、嘘とはほど遠い生き物だ。
ぽう、とサーフィルの左手首が青く光る。腕の内側のごく一部に鱗が浮き出ていた。それに右手の爪をひっかけ、事もなげにめくる。
「うわ!」
自分の爪でそれをやられたらと想像して、思わず声が出た。
「サーフィル、それ痛くないのか」
「全然」
サーフィルがつまんだ青い鱗は、親指の爪より少し大きいくらいだ。その手首に血は出ておらず、鱗も綺麗なものだ。
「壁ですったぐらいだな。はがれる感じはあるけれど、特に痛くはない」
「そうか……」
自分の鱗を見つつサーフィルがつぶやく。
「〈竜の友〉が病気になったとき、どうするか知ってるか?」
唐突な質問だった。
〈竜の友〉は竜を連れているために、多くは人里から離れたところにいる。またそのほとんどは流浪の時間だ。すぐ医師にかかれるような暮らしではない――ことはわかる。
「竜の血を飲むんだ。竜の血はほぼすべての病と毒の特効薬になる」
言いながら、サーフィルは自分の首筋に鱗をあててすっと引いた。手を離せば首筋に赤い線ができている。
「舐めろ。早くしないと固まる」
「まだなにもかかってないぞ」
「わかってる。だからこれは護符みたいなものだ」
ほら早く、と手を引かれ、おずおずとサーフィルの首に顔を近づける。
においは人のものとそれほど変わらなかった。サーフィルの肩をつかみ、細い傷にのばした舌がとらえたのも、鉄のような覚えのある味。自分の知っている血の味と変わりはない。
舌を動かしても血の味がしなくなった。マーシスは首から顔を離す。
頭が少しぼんやりする。耳の後ろあたりが熱い。いや、耳の後ろだけではなかった。
「なんか、体が熱い……」
「あー、ゴーチェもそんなこと言ってた。『竜の血を飲むとしばらく体が温かくなる』って」
温かくというほんわかとしたようなものではない。今ではもう指先まで熱い。前にオーシャにおすそ分けでもらった酒を飲んだときのようだ。
首筋になにか冷たいものが触れた。サーフィルの鱗だ。その冷たさが気持ちよくて目を細めると、すっと鱗が動いた。
一瞬の痛みから、ごくごく浅く、首を切られたのはわかる。そこににじんだ血を舐められていることも。
「……サフィ?」
「見てたら、お前のも欲しくなった」
ぴちゃぴちゃと濡れたものが肌にあたる音がする。傷口を吸う音も。
「それ、意味あるのか?」
「さあ」
――これだからサーフィルは。
これも嘘でもなんでもなくて、思ったことをやったのだろう。サーフィルは、竜はそれでいい。
なら自分はどうだろう。いろいろと考えるべきこと、やらないといけないことは山のようにあるのだけれど、どうにも全部がぼんやりして定まらない。体が重いし、まぶたも下がってきている。
「ディート?」
もうずっと他から呼ばれていない、彼以外に使うことのない名前で呼ばれて。
「悪い。もう眠い」
「――寝るか」
「うん」
うなずき、そのまま目の前にいるサーフィルの肩に全部を預けて、マーシスの意識は落ちた。
自分でも驚くほど楽な、幸福な心地で。
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