1・夢のおわり、あるいは始まり

 初めて足を踏み入れたかの都は、目にしたありとあらゆるものが輝いて見えた。天に届くのではというような塔も、白亜の城も、整然と並ぶ家屋も、石畳の街路でさえも隙なく整い、並ぶ店には見たことのないような様々な品があふれ、それらを求める人々、ただ街を歩く者の衣でさえ美しく見えた。

 十一才の少年には見聞きするものすべてが素晴らしく、美しく、尊いものに見えた。――ただ一つを除いて。


 訪れた幼い国王を前に、あらゆる人がにこやかに言葉をかけてくれた。親しげに、あるいは喜ばしげに。

 けれどその底には親愛の情などなかった。あったのは侮蔑。あるいは哀れみ。

 かの都は美しかった。素晴らしかった。――出会った人々の心を除いて。


 いくつもの国境を越え、故郷に戻って見たのは、かの都かの国と比べて滑稽なほど、惨めなほど貧しい自国の姿。

 馬車の中から見た街路は整わず荒れはじめていて、石造りの建物など国境の砦をすぎればほとんどない。街の店の数もたかが知れており、行き交う人も少なく、その大半はすりきれた服を着続けている。

 それでもにじんだ視界に映る人は、山野は、空は。

 故郷の姿は美しかった。


 ――これが己の国なのだ。

 

 積年の負荷による荒廃があらわれはじめた国で、少年は両目をぬぐう。 

 泣くより前に、己が王であるならば、やらねばならないことがある。


 ――この国をより良き国に。強き国に。


 小さな国の小さな王は、言葉なく故郷に誓う。



 ※



 ……なにか、さびしいような、つらいような夢を見ていた気がした。けれどそんな気がしたのも一瞬のことで、穏やかな眠気の名残りの中にそれはかすれ消えていく。

 マーシス・ディート・ナクルはあえて目を開けずにいた。

 年に二か月ほど滞在できるスーハの別荘は、王宮よりずっと気楽でいい。こうしてほどよくぬくい寝台の中、外の小鳥たちの声を耳にしていると、ずっとこうしていたくなる。

 部屋の外の様々な物音が漏れ聞こえてくるのに耳をすます。

 おそらく朝食ができあがりつつある。ゆっくりできるのはあとわずかだ。足音も近づいてくる。

 そしてひかえめに部屋の扉をたたく音。

「陛下。朝のお支度の時間でございます」

 侍女見習いのクィンがおずおずとやってきた。仕方ない、臣下にだらしないところを見せないのも王のつとめだとマーシスは起きあがる。

「おはよう、クィン」

「おはようございます、陛下。昨夜も遅かったようですが……御体に変わりはございませんか?」

「ちょっと腰が痛かったくらいかな。でももう大丈夫」

 ずりあがった寝間着の袖と裾を整え、マーシスはベッドからおりる。

 腰の痛み、というかもう違和感というていどのものは、昨日の剣の訓練で変な転びかたをしたおかげだ。とっさに左手をついたがまにあわず、置かれていた予備の武具に倒れこんでひどく腰をうった。おかげで今日の訓練は大事をとって休みになったのはありがたいが――。

 どちらかといえばおしゃべり好きのクィンが黙っているのに気づき、マーシスはクィンの視線を追う。


 クィンが見る、ベッドの上に、全裸の美少年が一人。


 青い艶のある黒髪に、惹きこまれそうな青い目。十代前半にしては体つきもしっかりしていて、どこか若い獣のような雰囲気がある――のだが、今はもともとの精悍さとはほど遠い寝ぼけ眼で、ぼんやりとベッドの上にしゃがみこんでいた。

 彼はこちらを見て口を開ける。

「マーシス、俺の服どこだ?」

 ――しまったな。

 クィンが完全に硬直している。

 王のベッドに全裸の美少年が一人。そしてその王が「腰が痛い」と言う。これは完全に誤解を生む。たとえ自分が十三才の王だとしても、だ。

「あぁ、クィンは初めてだよね、こっちの姿は」

「こちら、とは」

「別の恰好なら前に見ているよ」

 王宮の者ならまあ知らぬ者はない話だが、クィンは別荘で雇われた。それゆえの事故だ。

 ふり返れば、こちらのやりとりをまるで介せず、黒髪の美少年はベッドの中をもぞもぞとあさっている。

「あのなぁ。服が見つからないなら小さいほうでいけばいいだろ、サーフィル」

 そうか、と少し眠気がとんだような声が毛布の中から聞こえてきた。

 しばしの間をおいてふわりと毛布がめくりあがり、厚みなくベッドの上に広がる。それからさらに数呼吸。

「今日の予定はなんだ、マーシス」

 王を名で呼ぶ不敬を咎めるのも忘れ、クィンが立ちつくしていた。

 彼女が見ていたのはマーシスの肩にのっている青い竜。

 翼を持ち、鷹よりは大きいだろうかという大きさで、額にはまっすぐ前方へとのびた一本の角。その竜がさきほどの美少年と同じ声でしゃべっている。

「……陛下、その竜は」

「いつも見ているだろう? サーフィルだよ」

 マーシスはまだ強張ったままの侍女見習いに笑いかける。

 王についている青い竜のことは、王宮で仕える者以外も耳にしているだろうが――竜の様々なやらかしについてはあまり伝わってはいないはずだ。

「時々ああして人の姿になるから、知らない人間が見ると驚くのも無理はないけど」

 言いながら、マーシスは自分にむけて首をのばしてくる竜の頭を指で弾き、無言でたしなめる。ベッドに入ってきたときのように、竜の姿のままなら特になんの問題もなかったろうに、この竜ときたら。

「とりあえずわたしは着替えるけれど……どこかでサーフィルの服を見つけたら一緒に洗っておいてもらえるかな」

 クィンがここに来て十日。今日の当番がクィンなのはそろそろサーフィルの〝大きいほうの姿〟を知っておけという侍女頭のはからいだろう。

 ――悲鳴をあげなかったし、合格かな。

 竜の姿に驚いて失神した侍女がいたのを思えば上出来だ。

「あの、陛下」

 出過ぎたことかもしれませんが、とクィンが声を落とし口ごもりつつ続けた。

「いつも、そうなのですか。その、おふたりは」

「そう、とは?」

 マーシスが問い返すと、侍女はさらに恐縮したらしく、さっと顔が赤くなった。

「一緒に……お休みなのかと」

 若い侍女の言葉にマーシスは少し考える。記憶をたどり、どう答えるのが一番か、慎重に言葉を探り、出てきたのは。

「……年に二回くらい、かな」

 クィンが持ってきた水を半分ほど飲み、マーシスは杯を肩のそばに持っていく。竜が長い首をのばして残りを飲み干した。

「サーフィルぬきで一人で寝るのは」

 そんな王の答えを聞いて、クィンが困惑ともあせりともつかない顔になった。



 ※



 王宮の誰も竜という生物をろくに知らず、おそらくは他にはない、今までに例のないことだった。

 ――それゆえに、自分たちは〝やらかして〟しまったのだ。

 人のひざの上で気持ちよさそうに二度寝をしている竜をなでつつ、マーシスはそんなことを思う。

 ――自分たちは、この竜を甘やかしすぎたのではないかと。

 朝食後の語学の授業。ここは別荘の中でも特別な功臣のために用意された部屋だ。

「ところで陛下。先ほどからの寝息は」

「サーフィルだ。聞き逃してくれるか」

 苦笑いで返すと、ノンディ・フォウ――この国一の外交官と謳われた老人は自分の顎髭をなでて目を細めた。

「〈竜王子〉は、歴史と違い語学はさっぱり興味がおありでないようで」

 このやりとりも母語のナクル語ではなく、大陸でほぼ公用語となっているエスリル語だ。六年ほど前からこうして時間を割いているおかげで、簡単な会話や儀礼上の定型文なら困らないくらいになっている。

「これが言うには、竜には人の言葉は皆同じように聞こえるらしい。聞こえるし読めるからつまらないと」

「人と竜とでは言葉が違う。それをとびこえてナクル、エスリルなどの区別なく、竜として『人間の言語』を理解している。――どのようなしくみか大いに気になるところですが」

 気分を害するよりも好奇心を刺激されたらしい顔で、先王の片腕であり親友だった男がうなずく。

「陛下は陛下で今日はあまり身が入らぬ御様子ですし、今日はここまでにいたしましょうか。――その腰はどちらで痛められました?」

「昨日、訓練で転んだ」

 ばれないようにしていたつもりだったが、あっさり見抜かれていた。特に驚くようなことでもない。「外交官とは人と同じようにしながらその虚実を見て聞き考える者です」と常々言っている老人の眼力は、自分のような若造とは経てきた場数がそもそも違う。

「医師は」

「打ち身だからしばらく大人しくしておけばいいと」

 母語での問いにマーシスは母語で返す。

「大事でないならようございます」

 にっこりと微笑んでノンディは優雅に茶を飲む。「今日はここまで」とノンディは言ったが、それはあくまで「語学の授業は」今日はなし、ということだ。それ以外のちょっとした作法やこうした飲食の際の姿勢、他愛ないやりとりからの情報収集といった元外交官の〝特別授業〟は終わりではない。

「オーシャはやりすぎてはおりませんか」

「わたしがしくじっただけだ。オーシャに非はない」

 近衛兵の一人、オーシャ・グリングは気のいい男だ。この一筋縄ではいかない老人も甥っ子のように目をかけている。

「あれから、竜人たちについてはお聞きになりましたか」

 このノンディにしてはずいぶんとまっすぐ切りこんできたなと、マーシスは竜をなでる手を止める。

「……従軍するのに問題ないとは」

 陶器のカップを手に取り、マーシスは逆に問う。

「ノンディ。お前はどう思う。この先、戦争をして勝てると思うか?」

 正面の師は即答せず、表情も変わらない。ひざの上の竜がぴくりと動いた。

 ナクルは今、戦争前の緊張状態にある。

 東の国境ではすでに小競り合いならぬ一方的な反撃が数度あり、互いに直接の外交機関は断絶した。

 相手はカナレイア王国。大陸の半分以上の国を属国としている、現在最強ともいえる国だ。国の規模でいうなら両者はまず対等になどなりえない。大人と子供の喧嘩にすらならないといえるだろう。

 にもかかわらず一方的な蹂躙を受けていないのは、こちらの国は地形上通行が不便な要害の地であり、カナレイアが本腰を入れた出兵をしていないおかげだ。

「本来、私の仕事は戦争にならないように動くことです」

「知っている。それで何度も救われたと父上から聞いた」

 先王の代からこの国はカナレイアの王、〈盟王〉ギエルに目をつけられていた。〈盟王〉から発せられる属国への「意向」を外交段階でうまくかわし、あるいは軽減させてきたのが、このノンディとヨウグ叔父上――宰相ヨウグという先王の両腕たる親友たちだ。

 とはいえそれにも限度がある。代償は大きく、なんとか〝無理〟を〝難題〟ぐらいまでできたようなもの。〈盟王〉の要求はだんだんと大きくなり、国の負荷は増していった。

 二年前に自分が王位を継いでからも、何度となく〈盟王〉の〈御召し〉はあり、若年不才の王が統べる小国ゆえと頭を垂れてその意向を流し続けていたが、昨年のカナレイア側からの柔らかな――だが次はないという圧のある文面・態度から、宰相も折れざるを得なかった。

 そうして出た先の〈御召し〉にて、ナクルは〈盟王〉の不興を買い、両者の関係は最悪となったわけだが。

「陛下は戦争をしたいのですか?」

 マーシスは首を横にふる。

「今のナクルにそんな力はない」

 〈盟王〉の〈御召し〉は属国内の序列に直結する。先代から長年下位にあるナクルは、カナレイアに様々な形での奉仕を強いられてきた。

 様々な名目での税や人員の供出が十年単位で続き、ただでさえ小さな国は消耗しきっている。こんな幼い自分でもそうとわかるほどに。

「ではもう一つ。陛下はこの国を滅ぼしたいですか」

「――まさか!」

 思わず声が大きくなった。

「この国は父上たちが守ってきた国だ。それをわたしの代で滅ぼすようなことなんて、できるわけがない」

「ならば結構」

 どういうわけか、ノンディは好物の料理を前にしたかのように嬉しそうな顔になった。

「陛下がふぬけておられるなら一声入れねばと、ヨウグと話していたところでございました」

「伯父上と?」

「はい」

 ふぬけているなら、ということはこの二人の考えは。

「我々としては、戦争を始めるなら今しかないと」

 マーシスは竜の背をなでながら考える。この国きっての頭脳である二人がそう結論を出したのなら、それだけの根拠があるはずだった。後で説得の必要もないよう、マーシスにもその根拠がわかるように対話の中に仕込みつつ。だから、これまでの話の中に彼らの認めた根拠が必ずある。やりとりをふりかえれば、彼の出した問いも答えもわかりやすいものだった。

 ――竜人については。

「竜人を前線に出すのか」

 ノンディがうなずいた。 

「オーシャが言うには人として兵として充分に成長したということですので」

「だが竜人は二百人ほどしかいないのでは」

「ただの二百人ならここまで強気には出られませんが、あの竜人ならば、一騎で二百騎は相手にできます。陛下も御覧になられたでしょう」

 首肯。マーシスは彼らの誕生の場にいた一人だ。

 竜人とは竜の卵から生まれた人間である。

〈御召し〉から帰還したオーシャと〈竜の友〉ゴーチェが、マーシスの前で思わしくない結果となった経緯を報告していたときだった。

 空から次々と現れたのは幾頭もの竜。

 彼らはマーシスたちの前に白い卵を置いていった。百ほどの卵はその場で孵ったが、中から出てきたのは十代前後の青年の姿をした、どう見ても人間としか思えぬ者ばかり。驚く人間たちの前、彼らはマーシスを見てひざをつき頭を垂れた。

 そんな彼らをどう扱うか――国の中枢の決断は早かった。

 僥倖であり、好機である。――成人男性の多くがカナレイアに徴兵されているナクルにとって、これほどありがたいものはない、と。

 彼らはオーシャら近衛兵たちが面倒をみることになった。竜人たちは対話もでき、もののわかった者たちばかりだったが、その膂力も体力も並の人間とはかけ離れていたからだ。

 王宮の敷地内に彼らの訓練所があり、マーシスもちょくちょくそこへ顔を出している。会って話せば皆気のいい男たちばかりだ。彼らの外見はすでにいい若者となっているものの、実際はマーシスのほうが年長なのだが。

「人として生きていく術と体術。兵としての基本を教えこむために一年。これだけのまとまった兵を調達できる機会はこの先もないでしょう。東の国境は――青い竜がくいとめてくれているようですが」

 ちらりとノンディが視線を落とした。ひざの上で寝たふりをしている竜をテーブルごしに見ようとするかのように。

 ナクル東部の国境は険しい山脈が連なっている。その中で唯一ある街道の砦に、青い竜が〝居ついて〟いた。

 マーシスたちの前に卵を持ってきた竜たちと同様、人間がなにも言わず頼みもしていないのに、だ。

 竜は人間が太刀打ちできるようなものではない。その鱗は硬く武器を通さず、彼らが使う術も人の魔術の比ではない。なにより単純に力が違う。〈盟王〉の先遣隊は一頭の竜の前になすすべもなく逃げ帰った。――生きのびられたわずかな者は。

「その竜の守りも永遠ではありますまい。ならば兵力がある今しかない、というのが私とヨウグの結論です」

「他の奴らはどうする」

 老人に対してやや乱暴なこの口調は、当然マーシスのものではない。

 ひざの上のサーフィルが首をあげ、ノンディを見返す。

「人間の喧嘩は一対一ばかりじゃないだろ。〈盟王〉のところにはぞろぞろついてる。そいつらは黙っているのか」

「他の属国ならばすぐには動かぬと、昔の筋から」

 王に対するときと同じ顔でノンディが答える。

「デグフォイアは代替わり中で、リヨンは国内が荒れて外征どころではない。この二大属国が動かせぬとあれば他の国から兵を出させるでしょうが、どの国も出せるものは出しているという状態。実入りのないナクル攻めに積極的になる国はどこにもない」

 それからノンディはにこりと笑った。

 ――これはきついやつだ。経験がそういっている。この癖のある老人の中でも別格な、マーシスが何度かくらった、一際きつい叱責の前にくる顔だ。

「サーフィル様はあちらのお生まれ。〈盟王〉とも面識がおありでしたな」

 効果は覿面だった。これ以上ないほどにサーフィルの鱗がざわりと逆立つ。

「――マーシスの師匠じゃなかったら燃やしてるぞ」

「無論、承知の上で申しておりますとも」

 年季がものをいった。変わらぬ笑顔で応じるノンディの前に、サーフィルは黙りこむ。

「……御二方、そして他ならぬ私も〈盟王〉と面識があるわけですが、御二方は〈盟王〉をどう見ましたか」

 マーシスはひざからおりない竜を見る。完全に機嫌を損ねた竜はぷいとそっぽをむいていた。

「……わたしが会ったのは三度か。都に着いてすぐの会見と、狩りに招かれたときと、出立のときと」

 〈盟王〉は五十代。父よりもがっしりとした体つきの、威風堂々という言葉が似合う王だった。

 一番よく覚えているのはこちらを見る目だ。初見時の、冷めた、だが逃れようのない圧のある目。

「恐ろしい人だとは思う。……けれど狩猟に行ったときは楽しそうにしていて、それがかえって不思議だった」

 それはあの都での数少ないよい記憶だ。

 自分についた猟犬がよかったのだろう。狩りも弓もほぼ初めてながら、マーシスは兎と鹿を射止め、その場にいた者たちから褒められた。

 それ以来、あの日のような狩りこそできていないが、故郷に帰ってもマーシスは弓の稽古は欠かしていない。

「〈盟王〉は狩猟を好むと言われておりますな」

「ノンディはどう思った」

 彼は笑顔を消し、少し考える。

「嫌な男、かと」

「怖い、ではなく?」

「はい。あれほど我々の仕事を、外交をだいなしにしてくれる者はおりませんので」

 どれだけ根回ししても、彼の気まぐれで状勢が変わる。こちらの数年単位の積み重ねが、〈盟王〉の思いつきで何度無駄になったことかとノンディは嘆いてみせた。

「別にこちらを狙っているわけではない。それでもだめになるほどの力が〈盟王〉にはある。権力という力です」

 同じ王といえど、自分とは揮えるものが桁違いだ。自分たちのような小国はその直撃を受けぬよう、戦々恐々としながらなんとかやりすごしているといっていい。きっと、他にもこんな国はいくつもあるのだろう。〈盟王〉の怒りをこうむることなく生きのびる。そのために粉骨砕身してきたのがノンディたちだった。

「どれだけ用心してもしすぎるということはないでしょう。……と、ここの人間二人は考えておりますが、サーフィル様はいかがです」

 しばらくサーフィルは黙って丸くなっていた。かなり不機嫌だが、相手が相手だから大人しくしているというところだ。相応の人物だとサーフィル自身が認めている相手だからこそ、こうして火も噴かず黙っている。

「サーフィル。嫌なら黙っていていい」

 別にこれは裁判でも聴取でもない。手強い爺さんのたちの悪い煽りだ。――ということもサーフィルはわかっているだろうけれど。

「……マーシスがいなかったら、まっすぐあいつの首を狩りに行ってる」

 丸くなったままサーフィルがつぶやく。

「それくらい嫌いな男だ。理由は言わずともわかるだろ」

 ぷい、とサーフィルの首が動く。マーシスは顔を上げ、老練の師の前〝これ以上は〟と苦笑いした。

 人の姿こそマーシスと同年くらいの外見だが、サーフィルはまだ生まれて一年ほどしかたっていない。

 サーフィルは〈竜の友〉ゴーチェ・オンドゥートが竜から託された卵から生まれた。マーシスはその卵を見ている。

 ふてくされている竜の顎と喉のあいだを軽くなで、マーシスはオーシャたちから報告を聞いたときのことを思い出す。


 自分たちの要請から、ゴーチェは〈竜の友〉としてオーシャとともに〈盟王〉の都ハビ=リョウにむかった。「国で一番の竜を連れてくるように」という〈盟王〉の言葉にゴーチェが選んだのは彼女が育てた白い竜。

 道中から披露の場までは順調だったという。

 当時の大使がゴーチェの胸を暴き、隠していた卵を〈盟王〉に献ずるまでは。


「サーフィルにとっては嫌な思い出どころじゃない。あれからそれほど時もたっていないし」


 ……よりによって〈盟王〉の手の中で卵は孵った。

 めったにいない竜の、とびきり鮮やかな青い竜。〈盟王〉が気に入ったのも無理はない。生まれたばかりの竜を奪い返し、ゴーチェとオーシャは帰還した。

 多くの者は竜の生態を知らない。竜が人の心を〝食う〟ことをマーシスはゴーチェからこっそり教えられていた。それゆえに顛末を聞いたときは血の気が引いた。

 自国の序列、その危機もある。だがなによりあの卵が、まだ孵るまで時間があるはずだった卵が孵ってしまったことが衝撃だった。

 ――そんなところで生まれて、大丈夫だったのか。

 マーシスの言葉にゴーチェは首を横にふり、懐中からぐったりとして動かない竜を見せた。


「竜は人の心に敏感だ。悪意には特に。きっと毒の沼に沈められるくらいきつかったろう」

「今の御仁を見ていると、とてもそうは見えませんが」

 竜の尾がぱた、ぱた、と太腿をうつ。だいぶ機嫌は戻りつつあるようだ。

「それはそうだ。でも実際に瀕死だった。少なくともわたしにはそう見えた」

 卵のころからは思いもかけない弱々しい姿になっていた竜へと、マーシスが手をのばしたときだった。

 力なく顔をあげた竜と目があった――とマーシスが理解した瞬間、自分は床に押し倒されていた。

 あおむけになった自分の上にいたのは一糸まとわぬ姿の美少年。初めて見る顔だった。けれどもその青玉のような瞳には見覚えがあった――。

 あの竜だ、と思うと同時にじっとこちらを見たままの少年の口が開いた。

 ――へ、い、か。

 ぎこちなくたどたどしい発声は、初めて言葉というものに触れた幼児のよう。けれども竜の姿のときよりはずいぶんと体は楽そうに見えた。


「〈竜の友〉が言うには、竜が人の姿をとることなどないということでしたが」

「わたしも、ゴーチェからそう聞いた」

 まず竜がいちいち姿を変える理由がない。けれども目の前で姿は変わっている。「どうして」と問うたマーシスに、生まれたて変わりたての竜はまだたどたどしく答えたものだ。「このほうが、いいと、おもった」と。

 〈竜の友〉は竜を育てるのが生業だ。本来ならばサーフィルもゴーチェのもとで育つはずだったが、当の竜が「こっちがいい」と言ってマーシスにしがみついて譲らなかった。

 竜が望むなら仕方ない、というのが竜を優先するゴーチェの答えで、王宮側も反論はなかった。若い王の護衛兼学友に見栄えのいい竜が、美少年がいるのも悪くないだろうと。

 あれから一年。すっかりこの竜は王宮というか王のそばになじんでいる。

「……いろいろと例外ばかりの竜なんだろう、サーフィルは。わたしはそう思っている」 

 人間の世の中を知らないサーフィルが起こす騒動は裏も悪意もなく、時がたてば笑い話になるようなものばかりで、王宮の人々を少しずつ和ませていった。

 服を着ることを忘れて外出し女官を卒倒させたり、着衣を覚えたら覚えたで今度は竜に戻ったときに服の落し物をしたり、何故か見当はずれの礼装で竜人たちの訓練につきあったり。

 ――たまにまあ、今朝のような〝事故〟があるにはあるが、王宮でサーフィルを嫌う人間はいないだろう。狩人に従う猟犬のように忠実な、そしてわかりやすい王の竜。王宮の人間たちはサーフィルをそうみている。

「〈盟王〉は、我々の敵です」

 マーシスは竜をなでる手を止める。韜晦の具現のような老人がこのように断言するのは稀だ。

「それは、国の仕事をする者としてか? それとも私情か?」

「両方ですね」

 嫌な男、と〈盟王〉を評したノンディだが、この老人もかの王に恨みがあるのだろうか。マーシスが生まれる前にカナレイアに赴任していたとは聞いているが。この人は自分のことはなかなか語らない。

「陛下は、兄君たちのことを覚えておいでですか」

 サーフィルが首を持ちあげてこちらを見ていた。

「……はっきり覚えている、とは言い切れない。母上のことはもう少し覚えているけれど」

 二人の兄とその下の姉。記憶こそ春の日の光のように柔らかくおぼろげになりつつあるが、皆、自分を大事にしてくれた、かわいがってくれた人たちだった。

 末子の自分が幼くして王位を継いだのは、上三人が若くして亡くなったからだ。兄姉は留学先で病を得て、故郷に戻ることなく死んだという。

 さらに続けて妻を――二人目の王妃をも失った王は、残った末子をなんとかして守ろうとした。わずか十才の子に譲位したのはそのためだと聞いている。

 その父も、譲位の一年後に病で帰らぬ人となった。ノンディたち親しい者には伝えていたらしいが、譲位の前に余命はもって二年と言われていたという。

 ――すまない、ディート。

 臨終の直前、病床の父は乾いた手でマーシスの手を握り、泣いていた。

 ――お前はまだ幼い。そうとわかっておいていく父を、これだけのことしかできなかった父を呪え。

 呪うことなどできるはずがなかった。

 ぎりぎりまで譲位に悩んでいた人こそ父だということを、自分は知っている。十才の子が担うには王冠は重すぎると悩み、戴冠式の場で涙を流していたさまを自分は見ている。後見ができるうちにと親友たちに言われなければ、父は臨終まで王の座にいたに違いない。

 なにより、兄たちの訃報を聞いたときの父の顔をマーシスはそばで見ていた。声はなかった。けれども震える背から、壁を打ちつけた拳から、父の想いは明らかだった。

 あれほどの嘆きを、怒りを見たことはない。

 怒り――そう、確かに父の慟哭には怒りがあった。悲哀だけでなく、なにに対してのものかはわからないが、まぎれもない怒りが。

 そんな父の姿を見て、呪いの言葉が出てこようはずがない。

 父の手を握り返し、マーシスは首を横にふった。幼い身にも感じられた不穏を隠しながら。

 この父を呪うことなどあるはずがない。けれど、あまりにおかしいことではなかったか。兄姉三人がほぼ同時に死に――遺体も返ってこないということはそうあるものだろうか。

「……腹違いのわたしにもよくしてくれた。特に下の兄上は留学前までよく遊んでくれた」

 上の兄――太子とは十二才差、下の兄は六才差となれば、年の近いほうと親しくなるのも道理。

「兄上たちがどうかしたか?」

「そろそろ命日が近いなと思い出しまして」

「……そうだな」

 サーフィルの尾が動く。人の腿の上でとんとんと調子よく、親が子を寝かしつけるときのように。

「先の太子は聡明な御方でした」

「そう聞いている」

 マーシスは警戒する。授業の時間にただの世間話をしてくる師ではない。

「他の御二人も。そして御三方とも健康であられた」

 サーフィルのときのようにまっすぐくるのではなく、周囲から攻めるつもりなのか。竜の背に手をおき、マーシスは思考を巡らす。今までの話からノンディが切ってくるだろう手札を。おそらくはこちらにとってひどく〝痛い〟、サーフィルにとっての〈盟王〉のような話題だ。

 今日の話は、ほぼすぺてにカナレイアと〈盟王〉がからんでいる。カナレイアと家族。この時点でマーシスは身がまえるしかない組み合わせだ。

「御家族がどのように亡くなられたか、お耳にされたことは」

「病死と聞いた」

 マーシスの左手首にひょいと軽く竜の尾がからむ。遊んでいるのではない。こちらの心を読んで励まし――というかなだめているのだ。落ち着け、無理はするなと。

「誰もそれ以上は教えてくれない。ナクルの者もカナレイアの者も」

 留学とはていのいい名目で、実際は人質だ。王になり、自分がハビ=リョウに滞在してそう理解できた。かの都には自分より年長の王子王女があちらこちらの国から集まっており、そのたいていは達観によく似たあきらめの顔をしていた。

 なにをあきらめたのか。とある王子がぽつりとこぼした一言でわかった。「もう一度帰りたいなぁ」。

 彼らは皆あきらめていた。〈盟王〉の庇護のもと、王の自分よりもずっとよいものを着てよいものを食べ、不足なき暮らしをしているように見えたのに。ただ一度故郷を見ることを、己の自由と命をあきらめていた。

 ――何故そうなったのか。そうなるに足る〝なにか〟があったのではないか。

 一つ、心当たりはあった。彼らと同じようにハビ=リョウに来て再び故郷を見ることなく命尽きた者がいる。マーシスのそばに四人。二人の兄と、姉と、彼らを迎えに行ったはずの母。

 大使にも、会ったカナレイアの者にも訊いてはみた。そのとき家族になにがあったのか。

 けれども誰一人として本当のことを語りはしなかった。「その年にひどい流行り病があり」「健康だった方々も治療の甲斐なく」「病を恐れて遺体はすぐに焼かれ弔われた」。

 皆が示しあわせたように同じことを言った。十をすぎたばかりの子供でもわかることはある。彼らが自分に本当のことを伝える気がないこと。そして、それでもなお訊き続ける自分を内心で笑っていること。彼らの誰一人親切でない者はいなかったが、誰一人本当のことを言ってくれる者はいなかった。家族について知りたいという子供を見下ろし、「親切に」「同じこと」を言う。その年に病など流行っていなかったはずなのに。

 ハビ=リョウ滞在の二月のあいだ、亡くなった家族について新たにわかったことはなにもなかった。自分の国がおかれている状況と立場、人というものの陰湿さは嫌というほど思い知らされたけれど。

「幼い子供を気づかって、本当のことをいわないというのはわかる。けれどもあれはそういうものではなかつた。兄上たちになにかがあって、それをあえて言わずからかい笑っている――そういう顔だった」

 〝なにか〟を知っている者は親切だった。問いに口ごもり、あるいは問われる前に遠ざかるような者――そういう人たちはたいてい兄と同じ立場だった――は悲しげに黙るか、「もう忘れるんだ」と小声で忠告してきた。そのうち何人かはマーシスが滞在しているあいだに「旅に出た」か「帰国した」。

「兄上たちになにがあったか知っているのか」

「おおよそ察しはつきますが、細部までは」

 ノンディ、とうながすように呼べば、師から表情が消えた。


「先の太子が〈盟王〉に殺されたのは間違いありません」


 驚きはなかった。うかつなことを言わない師が初めて触れてきたという衝撃はあったけれども。

「太子たちについてどれだけ調べても〝何故なのか〟〝どう死んだのか〟はわかりません。ただ状況からして〈盟王〉の意志がからんでいなかったとは考えられない。四人の遺体が帰ってこなかったのは、証拠となることを疑われたか、単に面倒だったかあたりでしょう」

 マーシスとノンディの両者でわかっていることは大差がない。それだけナクルの者はなにも知らない。知らされていないのだ。

「……ユウル殿下は私にとっても姪のようなものでした」

 父にとって二番目の妻。マーシスにとっては母。宰相にとっては妹であった、今は亡き王妃。

「彼女の仇がのうのうと生きているのを見ながらくたばるなどまっぴら御免です」

 〈盟王〉を「嫌な奴」と言ったのはずいぶんとひかえめな評価だった。天が落ち地が避けようと許せぬ終生の仇。ノンディ個人で語るのならそれくらいの相手だろう。

「まさか、それだけのために開戦しようというのではないことはわかっているが」

「もちろんです。ただ、今しかその機会がないのは間違いありません。戦争も、ユウル殿下たちのことも」

「開戦したとして、どれくらいの時間がかかる」

「我々の計算では、およそ十年」

 今日一番驚いたのはこの言葉かもしれなかった。短期決戦で〈盟王〉の都を狙うものと考えていた自分の考えの外も外。

「我々も一度はまっすぐ最短で狙うことを考えました。だがそれでは〈盟王〉は堪えない。少しずつ相手の力を削いでいく。属国から兵を集めて同じことをするでしょう。ならば徹底的に相手に敗北を教えこんでいくしかない。そのための十年です」

「……もつのだろうか、そのあいだ」

「この国ならば。〈盟王〉の寿命は運次第というところかと」

 ――王都に戻ったらそのために動け。忙しくなるぞと師は教えてくれている。休息はここにいるあいだまでだと。

 下手な講義よりもずっと疲れるような雑談だった。そう思うマーシスのひざの上で、青い竜があくびをした。



 ※



「ノンディの爺さんの読みは正しいと思いますよ。さすがの気の長さだと思いますが」

 午後の訓練は午前と同じく雑談だった。

 大事をとって休んでいるマーシスの横で、サーフィルが「なんとなくその気にならない」と人の姿で座っている。近衛兵にして竜人兵のまとめ役、二人の訓練を担当しているオーシャ・グリングにいたっては「そういう日もあるよな」と酒瓶を持ってきてくつろぐ始末だ。一応中身は酒ではないらしいが。

「竜人たちは強い。二百騎いれば二万いるも同然。その強さをもとに籠る〈盟王〉の軍を削っていく――まあ小国のほうがやる戦法じゃないですが」

「攻城戦ってやつだろ。歴史の講義で聞いたぞ。確かクレンエイダ城の戦いだ」

「よく知ってるな、そんなの」

「サーフィルは歴史好きだから」

 クレンエイダ城の戦いは、大陸西部で百七十年ほど前にあった攻城戦だ。城に籠った三千人が五万の敵から一年にわたって城を守り抜いたという勇敢な戦士たちの話は、詩人にも人気の物語となっている。

「この場合、逆にでっかい領土という城に籠ってる〈盟王〉、カナレイアを小国のナクルが攻めるんだろう? 実際どれくらいの勝算なんだ?」

「うちの爺さんたちは負けないつもりでいるようですがね」

 あの二人が勝算なく動くとも、いちかばちかの賭けに出るともマーシスには考えられない。それは二人と親しいオーシャも同じであるようだ。

 オーシャがサーフィルをさして言う。

「一番は竜人たちがこいつと同じ飯いらずってことだと思うんですよ。なんたって兵糧の心配がない。いくらかの水があればそれで事足りる。――陛下はまだ懸念がおありのようだが」

「長すぎる、と思うんだ。距離も時間も」

 相手の戦力を削ぐために十年。ならばハビ=リョウまでの年数はどれくらいか。

 短期戦でといっても替え馬を用意し走り続けるとして一月半はかかる距離が、二つの都にはある。その距離を補う策はあるのか。

 にかりと鳶色の目の男が笑う。

「〈盟王〉を相手にうちだけがやる理由はないですよ」

「よその国を巻きこむのか」

「どの国も心から〈盟王〉に従っているわけじゃない。こちらが勝ち続ければ、勝ち馬に乗ろうとする連中が必ず出てくる。そういうのをうまく使えばいいわけで」

 そうオーシャが言うのを聞いて、ピンときた。

「すでに手を回しているんだな。よその国に」

「もちろん。ノンディの爺さんが大人しくしてるわけがないでしょう」

 我が事のように楽しそうな顔でオーシャが言う。

「こっそり、いくつか隠密裏に同盟を結んだところがあるとは聞いてます。中身までは知りませんが。――まずは同盟属国にいる兵たちを解放して国に送り返します」

 ナクルのように税の代わりとして人員を差しだした国は少なくない。人の帰還は動揺と困惑と喜びをもって迎えられるだろう。――そこからだ。

 オーシャは水入りの瓶を揺らしてからぐいと飲んだ。

 彼が飲み終わるのを待ちマーシスは問う。

「オーシャは〈盟王〉の前にいたことがあったな」

「ええ」

「〈盟王〉を見てどう思った」

 瓶を置き、オーシャは薬草を噛むような顔で考えこむ。

「嫌な奴、ですかね」

 奇しくもオーシャの答えはノンディのものと同じだった。年齢も性格も違う二人が。

「ああいう偉そうなのは嫌いなんで。まあ実際偉いわけですが……人間として好きになれる相手じゃなかったなぁ」

 オーシャはこれでいて人の良し悪しを自分から言うことはない。問われれば答えるが、長短両方をあげる律儀な男だ。それがこんな答えを出している。

「見ただけで〝ああ、これは駄目だ〟とわかる、どうしようもなさがある感じで」

「それは、外見が?」

「外見といえば外見といえるのかな? 中身が外までにじみでている感じというか」

 食っていくために近衛兵になったというオーシャだ。そこに王への、権威ある相手への服従心というものはない。むしろ普段の言動からすると反骨心のほうが強いようにも見える。

 そんなオーシャが自分に仕えているのは「小さいのを見捨てられないでしょう」という年長者らしい責任感と、マーシスの王様らしくなさゆえらしい。

「なんというか、人とずれているというか、言葉が通じないような感じはしたな。うん、嫌いだ」

 一度か二度会っただけの相手にそこまで言えるのかというのはあったが、マーシスもおおむね同じ印象だった。

 こちらがどれだけ発言しても意に介さないのだろう。そう思わせる雰囲気が〈盟王〉にはあった。

「うちみたいな国がどこまでやれるか、様子を見てから決めようという国も多いでしょう。爺さんは十年とみてますがね。周囲をうまくとりこめれば、もう少し縮められる気はしますよ。あの爺さんは強気だが慎重なんで」

「そのときはオーシャが前線にいるんだろうな」

「でしょうね。なんでか俺は竜人たちに好かれてるんで」

 竜人たちは近衛兵たちの預かりとなっているが、そのまとめ役はオーシャだ。

「……竜に好かれるほうなんだから、竜人にも好かれるだろ、オーシャは」

 それのどこが不思議なんだという顔でサーフィルは言う。

「あのなぁ、サーフィル。俺みたいな普通の人間は自分が竜に好かれるかどうかなんてわからねぇんだよ」

「オーシャみたいなまっすぐなのはたいていの竜が好きだぞ。あの爺さんみたいなのはめったに好かれないが、たまに物好きなのがすごくなつく」

「なんでだろう。ノンディについてはすごくわかる気がする」

「俺も」

 それとは別に、サーフィルがオーシャになつく理由はわかる気がした。生まれてすぐ、サーフィルはオーシャに助けられている。

「それじゃあ、陛下はどうなんだ? ゴーチェが言うには充分に〈竜の友〉の素質があるって話だったが」

 サーフィルがこちらをふりむき、じっと見てくる。そのくせ少し顔をしかめて「知らん」とそっぽをむいた。

「……言いたいことがあるなら言えよ、サーフィル」

「特にない」

「嘘つけ。その顔は言いたいことがある顔だろ」

「だからない」

「お前なぁ」

 そんなやりとりをしていると、くつくつと低い音がした。

 下をむいて顔をそらしながら、オーシャが笑っている。

「オーシャ?」

「いや、陛下が楽しそうでなによりです」

「……そう見えるか?」

「はい、とても」

 まだオーシャは笑っている。

「サーフィルが来てからこっち、ちょくちょく年相応の顔をされるようになったのは間違いないんで」

 オーシャが悪い意味で言ったわけではないことはわかる。

 自覚はあった。身内はもう伯父しかいない自分にとって、一番近いかもしれない、家族に近いものがいる安心感。王というものを気にしない、こちらが王であるということを脇においてもかまわない、そんな存在がそばにいる楽しさと気軽さが。

「俺としては安心してるんですよ。昔から見てきた陛下が楽しそうにしているのは」

 近衛の中からオーシャが自分つきになったのは、その気のよさにマーシスがなついていたからだ。市井でいうなら頼れる近所の兄貴分というところだろうか。

 こんな王宮勤めの人間には珍しい類の気安い親しみやすさと頼もしさがオーシャにはある。それでいて礼節を崩しきらず、適度に〝弟分〟を甘やかす器用さもあった。

 そんなオーシャが「安心する」という。

「昔はそんなに楽しくなさそうだったか?」

「楽しさが違う感じですかね。ほら、怒られるにしても宰相殿の雷とノンディ爺さんの叱責は別物でしょう?」

「嫌なたとえだなぁ」

 笑いながらマーシスは伯父の怒鳴り声と師の延々と続く正論を思い出す。どちらも勘弁願いたいが、くらったときの気分は確かにいくらか違う。

 そういう顔ですよ、とオーシャが顔をほころばせる。

「人生は一度きりなんです。どうせなら楽しいことが多いほうがいいじゃないですか」

「それはそうだが」

「いずれ二人とも前線に立たなきゃならないんだ。それまではゆっくりやっていてください。こちらはこちらでうまくやっておきますから」

 わざと気楽に言うことでこちらの心の負担をやわらげる。そういう気遣いができる臣下がそばにいることが、マーシスには嬉しかった。



 ※



 その日の夜。人の姿をとったまま、サーフィルがマーシスのベッドに入ってきた。広めのベッドはもう一人増えたところで寝られないわけではないが、夜着に着替えて部屋の主になにも言わずベッドに入ってくるのがサーフィルだ。マーシスがなにも言わないのは、慣れと〝これになにを言っても無駄だろう〟という単純な、そして今までの結果をふまえたあきらめゆえ。

 とにかくこの竜は一緒にいたがる。なにをするにもついてきたし、竜の姿であれば特に問題ないだろうとかなり好きにさせた。大きな犬が、あるいは鳥がそばにいるような感じで。

 ――最初になんでも許しすぎたのかもしれない。

 母や女官たちが、猫と一緒に寝る話をしてくれた。それがうらやましかったのもある。以前別の竜と一緒にすごしていたときは一緒に寝ていた――あの竜は人の姿はとらなかった――から、最初にサーフィルが竜の姿でベッドに横になってもそのままにしていたのだ。

 以来サーフィルはマーシスのベッドを自分のベッドだと思っているらしい。部屋数の少ない別荘でも、そうでない王宮でも同じようにこうして入ってくる。

「どうした?」

 すぐ横でこちらを見る目は、今は黒く見える。もう少し明るいか月明かりが入れば、いつもの綺麗な青色に見えるだろう。

「竜は不思議だな、と」

 うつぶせに寝転がるサーフィルは、よくわからないという顔をしている。

「俺には人間のほうがずっと不思議だ」

 このままだとなんだか漠然とした、くり返しばかりの話になりそうで、横向きに体勢を変えつつマーシスは話題を変えることにした。

「――サーフィルは、勝てると思うか?」

 ノンディが言っていた話だ。オーシャの話と合わせれば、準備はほぼ済んでいるように考えられる。〝正式な〟開戦はまだだが、それも遠い話ではないだろう。他の国も動向をうかがっているに違いない。

「話している最中のノンディには、躊躇も後ろむきな感情もなかった。あのノンディとヨウグが『いける』とみなしたんなら大丈夫だろ」

それに、ともぞもぞとサーフィルの手が動く。なにをしているんだと思ったら枕にしていないほうの手を握られた。

「なにがあろうと絶対お前を死なせたりしないし、お前の望むものならなんだって持ってきてやる」

「何度目かな、これ」

「何度だって言うぞ。本当のことだからな」

 王宮に来ていた詩人が、宴の場でそんな物語を歌いあげていた。誇り高き騎士が愛の誓いをたてるのは姫君だったはずだけれど。

 サーフィルの言葉は誓いでもなんでもない。当人は「今日はいい天気だったな」というくらいの、当然のことを言っているつもりなのだ。

「サフィ」

 他人がいる場では使わない、二人きりのときにだけ呼ぶ名。

「わたしはそれほどたいした人間じゃないぞ」

 マーシスという名は生来のものでなく、王位を継いだときからのものだと説明したら、「それなら俺も別の呼び名があっていいな」とよくわからない理屈で当人がつけたものだ。使い分けに深い意味や理由はない。ただなんとなく、だ。

「俺にとっては無二のものだ」

 手が離れ、ぐいと肩を押された。あおむけになった自分の上にサーフィルがのっかってくる。視界を占める綺麗な顔。

「やめろ」

「どうしてだ? 竜のときは止めないだろ?」

「こっちだと重い」

 竜の姿でのられても、それこそ猫のようなものと苦笑いですませられるが、人の姿でのしかかられると落ち着かないのだ。そう正確に言ったとしても、サーフィルは首をかしげるだけだろう。サーフィルにはどちらの姿も同じ自分なのだ。

「人間は不思議なものなんだろ?」

「ああ、本当に不思議だ」

 言いながらサーフィルはこつんと軽く額をぶつけてくる。それから彼は横にどいた。

「なにがあろうとお前のそばを離れる気はないし、お前の望むこと以外はする気はないぞ」

「……それはよく知ってるよ」

 竜と人とが親しくなることは、稀ではあるがないわけではない。けれども人の姿をとってまで常時そばにいようとするのは聞いたことがないと、かの〈竜の友〉は言っていた。

 ――ですので、特に気をつけてください。

 〈竜の友〉ゴーチェは気がかりだというような顔でマーシスに言った。

 ――若い竜は不安定です。人の中におくことでどのような影響があるか誰にもわからない。

 マーシスはサーフィルの髪に手をのばす。

「サフィは、王宮で苦しくなったりしないのか?」

 黒い髪を指にからめてみる。すべりのいいさらりとした髪は指を離すとするりと元に戻った。

「たまに『こいつ不味いなあ』という奴がいないことはないけど、お前の横なら平気だ」

「……そういうのも食べるのか?」

「食べるというか、勝手に流れこんでくるというほうだな。宴会で酔っぱらって騒いでるおっさんがいたら、席が離れていても声が聞こえてうんざりするだろ?」

「それは……いやだな」

 サーフィルがそう例えた理由もわかる。

 前に、とある大使の帰国を祝う宴があった。酒豪で知られた大使がどんどん飲み続けて羽目を外した。

 さらにその横で赤ら顔の使者が卑猥な声を叫びだした。眉をひそめる女性陣とざわつく男性陣のあいだを歩いていったのはサーフィルだった。

 景気のいい水音がした。使者は桶一杯の水をかけられ茫然としている。間髪おかずに続いたサーフィルの「声がでかい!」という一喝に、場は静まり返った。大使は平謝りし、冷水を浴びた使者は青ざめて詫び、それを機に宴はお開きとなった。

「あのときの、わたしが顔をしかめたからわざわざ水をとりに行ったんだろう?」

「ばれたか。――でも火を噴くよりはずっと穏便だったろ?」

「丸焦げとずぶ濡れじゃあなぁ」

「俺の王の前での無礼がずぶ濡れだけですんだんだ。かなり寛大な処分だぞ」

「……普段はどうしようと思ってるんだ」

「程度にもよるけど、黙らせようかな、ぐらいはある」

「わたしにだまってやるなよ? せめて一声かけろ」

「わかった」

 喋れない、という状況にもいろいろあるが、サーフィルが言う「黙らせる」は、二度と口をきけなくなるやつだろう。

 自分とともにすごすことで人の世の中のことはそれなりにわかってきているが、サーフィルの考えかたは、はしばしでかなりずれている。サーフィルに自分と同じ授業を受けてもらっているのも、人の世について少しでも知ってもらいたいからだ。

 本来、竜と人との関係はもっと単純だ。それは力のある者とない者とのやりとりに帰結する。竜をだまして角をとろうとした人間が大きな炭になったという話もある。竜の機嫌を損ねて五体満足でいられるほうが稀なのだ。

 それにくらべれば、サーフィルはかなり温厚なほうといえなくもない。だがそれがすべてサーフィルの意志かというとそうでもないことをマーシスはわかっている。サーフィルの行動の下限上限、その基準のほぼすべてが「これ以上したらマーシスが怒るか悲しむ」という、他者の、マーシスあってのものだからだ。すべてをマーシス中心におくサーフィルが時折悲しく、不安にもなる。

「なあ、サフィ」

「なんだ?」

「……お前は、好きな人間はいるのか? わたし以外でだ」

「お前以外で?」

 サーフィルは少し時間をかけてから言った。

「オーシャは好きだな。いろいろ教えてくれるし。ゴーチェもだ。あとはノンディとヨウグの爺さんたちか。二人とも本当のことを言わないことはあるけど、嘘はつかないし」

「……そうか」

「でもお前ほどじゃないぞ」

「知ってる」

 この竜の好意と敵意はわかりやすい。これ以上ないほどに。

「わたしのこと以外でないのか、やりたいことは」

「お前以外でなら一つある」

 自分で訊いておいて、少し意外でもあった。そして考えもせずに「特にない」と返ってくるかと思っていたのだが。

「〈盟王〉の首をとる」

 すぐそばの顔に笑みはなく、声は平静。だがその奥には深い恨みがたゆたっていた。その理由もマーシスにはよくわかる。

「お前ほどじゃないが、俺も〈盟王〉への恨みはある。あいつだけはだめだ。許せない」

「そうか」

「止めないのか?」

「〈盟王〉の国と戦争しようとしている王が?」

 マーシスは笑う。

 こうして口にしてみるとなんとおかしいことか。十三歳の小国の王が、円熟の中にある大陸屈指の王に挑もうとしている。

 他人から見れば人に立ちむかおうとする虫のような滑稽な図だろう。ハビ=リョウにいたときのように笑い者になってもなんらおかしくはない。

 だがあのときよりはずっとましだ。不安がないわけではないが、自分はあれより少しは賢くなっているはずで、周囲に味方もいる。

 なにより横にサーフィルがいる。

「そろそろ寝よう。……明日はさすがにノンディも休ませてくれないだろうし」

 わかった、という竜がなかなか寝ないことをマーシスは知っている。こちらが眠って寝顔を見られるようになるまで、彼はずっと起きているのだ。

 寝たふりをする竜の横で、マーシスはさっさと目をつぶる。そう毎度夜更かしの竜につきあってはいられない。

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