終わり

「ここなら大丈夫だから。安心して」


 職員は、にっこり微笑む。

 恰幅のいい体格の中年女性であり、安心感を与える風貌だ。晴美の不安も、少しだけ和らいでいった。




 晴美が今いるのは、配偶者からの暴力に苦しめられてきた女性を保護するための民間施設である。

 簡単な手続きをした後、奥の部屋へと通された。六畳ほどの広さで、殺風景だが生活に必要なものは揃っている。職員の説明を聴いた後、おずおずと尋ねた。


「あたしは、ここにいていいんですか?」


「もちろん。話は、全て聞かせてもらったわ。あなたは、今まで言葉の暴力をずっと振るわれてきた。我慢する必要なんかない」


 そう言って、職員は晴美の手を握りしめる。


「あなたの気持ちもわかる。でもね、このままだと確実に共倒れになる」


「は、はい。あたしも、そう思ってここに来ました」


「あなたは悪くない。旦那さんは、あなたを助けるために左腕を失ったそうね。でも、それは事故なんだよ。あなたが、刀を振るって切り落としたわけじゃない。あなたは、何も悪くないんだよ」


 職員の言葉は、力強くて優しい。晴美は、救われたような気分になっていた。


「たとえ命の恩人であっても、あなたを奴隷扱いする権利はない。このままだと、あなたが死ぬか旦那さんが死ぬかのどちらかだよ」


 職員の言う通りだ。

 あの時、晴美は自身の裡に芽生えた殺意を、はっきりと感じた。このままだと、いつか隆之を殺してしまうかも知れない……そう思ったからこそ、家を出る決意をしたのだ。


 その時だった。向こうの方から、とんでもない声が聞こえてきた。


「晴美をどこにやった!」


 聴こえてきたのは、間違いなく隆之の声だ。どうして、ここがわかったのだ? 

 その理由は、すぐに判明した。スマホだ。GPS機能で、こちらの位置を把握できるではないか。


「晴美! 出てこい! 逃げることなんか出来ないんだよ!」


 またしても、彼の声が聞こえてきた。まともではない。完全に狂っている。

 晴美は顔をしかめ、出ていこうとした。自分のせいで、施設に迷惑をかけるわけにはいかないのだ。

 その時、職員が怒鳴る。


「あなたはここにいなさい! 今、警察呼ぶから!」


「す、すみません! 私のせいで──」


「悪いのは、あなたじゃない! あの男よ! 絶対に、ここを出ちゃ駄目よ!」


 そう言うと、慌ただしい勢いで出て行った。

 やがて、獣のように喚き散らす声が聴こえてきた。

 晴美は呆然となり、部屋でしゃがみ込んでいた。 


 ・・・


 現場にいた人間の話によれば、現れた隆之は包丁を手に持っていた。目は血走り、息は荒い。寝癖だらけのボサボサの髪を振り乱し、職員を睨みつけた。


「晴美! どこだ!」


 喚き、包丁を振り上げた。すると、ひとりの女性職員が前に出て来る。


「落ち着いてください。まずは、話し合いましょう。包丁を、床においてください」


 職員の口調は穏やかなものだった。敵意は全く感じられない。しかし、隆之には通じなかった。


「お前らは何もわかってないんだ! 一目だけでも、晴美と会わせろ!」


 喚く隆之。その時、数人の警官が彼に襲いかかる。簡単に取り押さえ、連行していった。


 ・・・


 やがて夜になり、晴美は今後について思いを馳せる。

 すんなり離婚とは行きそうもない。裁判ともなれば、果たしてどれだけの時間がかかるだろうか。


 その時、晴美は異様な感覚に襲われた。 

 なぜか、胸のあたりに異様な感覚を覚えていた。漠然とした不安があるが、それだけではない。何かがおかしい。職員を呼ぼうと、彼女は立ち上がる。

 その時、奇妙な感覚が足裏から広がってきた。晴美は、震えながら足元に視線を移す。

 愕然となった。足の甲が、真っ青になっているのだ。まるで死人のような、不気味な色になっている。得体の知れない恐怖が、体を駆け巡った。

 直後、足から力が抜けた──


 立っていられなくなり、晴美は倒れた。両足が動かないのだ。

 やがて、胸に鋭い痛みを感じた。死の恐怖を感じ、懸命に腕だけで這おうとする。だが、遅かった。

 晴美の心臓は停止した。






 

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