始まり

 二人の関係は、のんびりと進んでいく。その間、隆之は三冊の本を書き上げた。業界内でも、少しずつ名前が知られていく。

 やがて、二人は大学を卒業した。晴美は食品会社に就職し、隆之はフリーのライターになる。もっとも、小説も書き続けてはいた。いつか、有名な賞を取ったらプロポーズしよう……などという思いを胸に秘めていた。

 そんな隆之と晴美は、姉弟のような間柄であるのは昔と変わりなかった。ところが、二人の関係を根底から覆してしまう事件が起きる。




 まだ二人が夫婦になる前のこと。

 隆之と晴美は、カリブ海の島国ハイチに来ていた。取材も兼ねた旅行である。

 現地人ガイドの案内に従い、ハイチのあちこちを見て回る。怪しげな儀式を見たり、村の人々を聞いたり、ブードゥー教の呪術士に取材したり……隆之は興味深そうに見ていたが、晴美にとってはただただ不気味なだけだった。

 もっとも、マニアックな場所ばかりを見ていたわけではない。南国の自然に触れたり、見知らぬ町を見て回ったり、マリンスポーツを楽しんだりもした。晴美にとっても、ハイチ旅行は楽しいものだったのだ。

 あの時までは──


 その日、二人は海に来ていた。スキューバダイビングをするためだ。

 もっとも隆之は、スキューバダイビングなど未経験である。二人の趣味は、成長してからも真逆のままだった。隆之はインドア派であり、晴美はアウトドア派であるのは変わらない。

 今回のスキューバダイビングも、晴美が無理やり付き合わせたものだ。初めは渋っていた隆之だったが、最終的には折れた。

 二人は、船から海へと潜っていく……晴美が覚えているのは、ここまでだった。


 気がつくと、晴美は病院のベッドで寝かされていたのだ。

 医師の話によれば、海底で器材が故障して意識を失ったのだという。隆之が、晴美を海底から引き上げたおかげで、一命を取り留めたのだ。

 しかし、隆之は無事ではなかった。意識を失った晴美を引き上げる際、魚のヒレで左腕を切ってしまったのだ。しかも、ヒレには猛毒があった。激痛に耐えながら、晴美を地上へと運んだ後、彼もまた意識を失った。

 結果、隆之は左腕を失う。しかし、晴美には特に後遺症もなく、すぐに動けるようになった。


 その日を境に、二人の関係は変わってしまった。

 退院と同時に、隆之は晴美にプロポーズする。指輪も何もない。いきなり、結婚しようとだけ言われたのだ。

 晴美とて、隆之との結婚を意識していなかったわけではなかった。だが、これはあまりにも急すぎる。

 もっとも、今の隆之にそんなことは言えなかった。彼は命の恩人である。さらに、失われた左腕に対する負い目があった。

 晴美は、隆之のプロポーズを受け入れた。命を助けてもらった恩を返すため、また失われた左腕の代わりを務めるためだ。




 二人の関係は、完全に変わってしまった。

 晴美は仕事を辞めた。隆之は家にこもり、晴美の行動をじっと監視するようになったのだ。

 すぐそばで、隆之に監視され続ける生活は息がつまりそうであった。遠慮がちに、やめてくれないかな……と言ったこともある。しかし、彼はやめなかった。

 夫からの指示は、それだけに止まらなかった。さらには、外出する際の細かいルールまで作られた。


「外出の際は、どこに何をしに行くのか必ず告げること。外出したら、一時間以内に必ず帰ること。最低でも二十分ごとに、何をしているか必ず連絡を入れること」


 以前の晴美なら従わなかったであろう。だが、今の彼女は従うしかなかった。隆之に逆らうことなど出来ない。

 欠損した左腕を見る度、晴美の心を罪悪感がさいなむのだ。黙って従うしかなかった。




 隆之は、家から一歩も出なくなってしまった。

 買い物はほとんど通販で済ませるし、遊びに出歩くこともない。仕事は、たまに訪れる出版社の人間と打ち合わせをする以外、ほとんどがパソコンによるやり取りだ。出社の必要もない。 

 晴美はというと、夫につきっきりの生活を強いられている。今まで、活発な生活を送っていた晴美にとって、隆之との夫婦生活は刑務所にいるようなものであった。実際、最近の彼からは、看守のごとき雰囲気を感じる。

 いつしか、晴美の口数は少なくなっていた。雰囲気も暗くなり、家の中で隆之の顔色を窺うようになっていた。

 こんなはずではなかったのに──




 だが、晴美はようやく決意した。

 この家を出て、隆之と別れる。 

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