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 ※



 宰相はこちらに最大限の配慮をしてくれた。すなわち充分な資金と最低人数の護衛。つける護衛をオーシャにしてくれたのも人竜双方にとってありがたいことだった。顔なじみで、少しは竜の生態を知っており、腕がたつ。さらに人づきあいがいいとはいえないゴーチェの代わりに諸事を取り仕切れる。最善というべき人選だったろう。

 〈盟王〉の都までは約一月。その道のりを二人と一頭は幌付きの馬車で行く。イルは大きめの猛禽のような、コグと同じくらいの大きさになってもらっている。進みやすい主街道ではなく副道を選んだのはオーシャだった。「竜にもお前にも、人の少ない道のがいいだろう」と。きっと〈お召し〉に参加する者の中で自分たちは最もみすぼらしい一行だろうなとゴーチェが言うと、オーシャもまったくだとうなずいた。

 馬車の中で、ゴーチェは子守歌を歌う。歌に合わせて白い竜がゆっくりと翼を動かす。手綱を握るオーシャが時々こちらの様子をうかがい、また顔を前にむける。そんな旅だ。

 国境を一つ越えるたび、ゴーチェにもありありとわかるほど国の豊かさが増していた。整然と手入れが行き届いた麦畑。家屋に破損はなく道も整備され、畑仕事をしている者たちの衣服も故郷よりずっと質がよい。水面に広がる波紋のように、富が〈盟王〉の都から広がっている。その富、豊かさに比例して人の数も目に見えて増していく。

 都に近づくにつれて、自分が徐々に落ち着きをなくしているのをゴーチェもわかっていた。静かな苛立ちによる小さなしくじりは日に一回だったものが二回になり、すぐに五回六回と増えた。

 人は、人とつきあうことは難しい。多くの人間がいる場所に立つと、ゴーチェは鳴きわめく蛙の群れの中に放りこまれたようにどうしていいかわからなくなる。

 彼らの言葉はそのまま受け取っていいものなのか、その表情は、態度は。そんな諸々を考えると疲れ果ててすべてがどうでもよくなってしまう。あの王と話せたのは竜という自分にとって一番大事なものがからんでいたというのと、あの王自身が嘘などとは無縁の誠実な少年だったからだ。

 明日には最後の国境だという晩。ゴーチェは空を見ていた。夜空を見上げても、故国ほど星は見えない。昔からゴーチェを知るオーシャが、なにも言わず淡々と明日の準備をしているのがありがたかった。その横でイルが荷物をのぞきこんでいる。

 イルがオーシャに馴染んだことは少々意外だった。馬車の中でも時々ふらりとオーシャのほうへ飛んでいったかと思うと、オーシャの肩にのってはからかうように尾でオーシャの腕をはたいたりする。

 この男も妙な──ひどい言いぐさだとは思うがゴーチェの語彙だとそう言わざるを得ない──男だと思う。同じ村の昔馴染みといえ、自分にここまでつきあう者は他にはいない。

 あれはオーシャが近衛兵に任じられてすぐのことだったか。一度村に〝凱旋〟したときだ。口説かれ友人以上になったことはある。だがそれから先には続かなかった。

 互いの同意はあったし、けして強引だったわけではない。ただ王都の近衛兵と〈竜の友〉では、ともにいるならどちらかが自分の生き方を変えねばならず、それは当時も今も自分たちにはできないことだったというだけだ。

 ──お前のありようを曲げる権利なんて俺にはないし、その逆も然り。それだけだ。

 そう笑うオーシャがどれだけ稀有な人間か、年を重ねるほどに身に染みてわかってくる。だからといって一緒にいようとは考えもしないのだが。

 ゴーチェとしては〈お召し〉の当日まで都の周辺に留まっていたいくらいだったが、オーシャが言うにはそうはいかないという。

「各国から見知らぬ面々が集まるわけだからな。素性の確認や手続きがあるから十日前には入っていないと。ここまで来て不参加なんてのは御免だろ?」

 こう言われてはゴーチェも黙るしかなかった。

 そこから三日。一行は〈盟王〉の都にたどりついた。ナクル王都の信仰塔よりも高そうな街壁と強固な門を備えたさまは、さながら要塞のようだ。この都はハビ=リョウというが、由来は彼らの信じる戦神の名だというのも納得がいった。

 門での簡単なやりとりの後、馬車は街を西へと進む。

 滞在中は適当な宿をとるのかと思っていたが、ナクルの大使館に世話になるということだった。街壁に近い都の端で、人は他より少ないらしいことは救いといえる。それでも山野と比べれば格段に多いのは間違いないが。

 ハビ=リョウの西部の主道より一本奥へと入ったところに、ナクルの大使館はあった。閑静、といえば聞こえはいいだろうが、他の区域と比べるとあまり栄えている区画とは言い難い。

「ようこそ、〈竜の友〉よ」

 中肉中背の五十代の男が両腕を広げて館の前で待っていた。

「わたくしはボーフ・マール。この大使館を預かる者です。長旅でお疲れでしょう。さあさあ、どうぞ中へ」

 先にオーシャからこの大使の人となりを聞いていなければ、幌馬車を止めさせずに通りすぎていただろう。一見親しげな笑みを浮かべているが、丸顔のこの大使はゴーチェがもっとも苦手とする、あるいは忌避する類の男だった。

 勢いがあり、権力や財への志向が強い人間。それを隠しもしない者。

「わざわざお待ちいただいて感謝する、ボーフ卿」

 先に馬車をおりたオーシャがそつなく笑顔を作り、挨拶をしている。その後ろから、嫌々ながらゴーチェは荷をかついで馬車をおりた。肩にはイルが乗っているが、イルも眼前の人間を警戒している。肩をつかむ足の力がいつもより強い。

「こちらが我が友、ゴーチェ・オンドゥート。先に知らせたとおりの〈竜の友〉だ」

 友人の紹介にもゴーチェは軽く頭を傾けるにとどめた。〈竜の友〉はたいてい人の世から外れた者だし、この大使は白い竜以外まともに目に入っているようでもない。ゴーチェが男か女かすらわかっていないのではないか。

「〈お召し〉の日まではまだ十日ほどあるはずだが」

 オーシャの声を聞いてようやく正気にかえったように、ボーフがうなずいた。無駄に五度ほど。

「はい。そのあいだこちらでゆっくりしていただければ。──それと」

 ようやくボーフがゴーチェを見た。竜を見るときとは大いに異なる視線で。

「〈盟王〉の御前に出られるような服はお持ちで?」

 ゴーチェが着ているのは華美とはほど遠い、飾りのない実用一辺倒の綿の長衣だ。男女兼用のすとんと着られる長衣は裾がすりきれはじめていたし、小さな汚れがいくつもある。

「こちらで仕立てたほうがいいと宰相閣下もおっしゃったので、特に持ち込んでいないんだ」

 ゴーチェに代わり、明るい声で答えたのはオーシャだ。 

「後で仕立て屋を頼めるか。いくらか突貫にはなるだろうが」

 言いながらオーシャが重たそうな革袋をボーフに渡す。中身は金貨だろう。

「確かにこちらで仕立てるのがよいでしょう。宰相閣下はよい判断をなさいました」

 ボーフが扉を開ける。王の別荘よりもよほど華やかに作られた扉だった。足を踏み入れた館内も別荘よりずっと豪華だ。土地に合わせたということなのだろう。

 オーシャの後ろでゴーチェはこっそりため息をつく。ここでくつろぐのは難しそうだ。

 〈友〉のため息を聞いた竜が首をすりよせてくる。人より竜のほうがずっとつきあうのは楽なのだが。



 ※



 くつろぐどころではなかった。

 到着したその日に服の採寸につきあわされ、それからは宮廷でのふるまいや注意事項などを延々と〝仕込まれる〟時間が続いた。一応は一国の近衛兵なオーシャはまだしも、自分は劣等生そのものらしい。

「……〈竜の友〉どのは黙って口元を扇で隠しておられるのがよい気がしてきた」

 何故かこちらより疲弊している教師役の大使が、がくりと肩を落としている。

「それで切り抜けられるのならそうするが」

「その物言いです。公用語は問題ないのに、まったくもって女らしくない」

 ゴーチェは昔馴染みに目をむけるが、オーシャは「言わせとけ」とばかりに苦笑いするだけだ。

 〈竜の友〉は男女の別がない職の一つである。「女らしくない」と言われても、そんなものが必要ない仕事なのだ。それも気に入ってゴーチェはこの生業を選んだというのに。

「まあできるだけのことはしたと思いましょう。注文していた衣装が出来上がりましたので一度御着換えください。……着方がわからなければ若いのをやりますが」

「いい。オーシャがいる」

 これにはボーフも驚いたらしい。それからなにを勘違いしたか、「なるほど、やはり」と一人でうなずいている。誤解など知ったことかと、ゴーチェは隣室に移った。その後をオーシャがついてくる。

 部屋に入るとテーブルにやたら大きな包みが置かれていた。中を開けたゴーチェはため息をつく。話には聞いていたが、予想していたよりも派手だ。

 横に来たオーシャが新品のドレスを吟味しながら言う。

「……俺としては儲けものだと思いたいところだが」

 知られたくないんだろう、とオーシャが声を落として言う。

 こういうとき、この男はなまくらには絶対にならない。

「あの男は信用できない」

 なんの感慨もなくドレスを手に取り、ゴーチェは断言する。

「自分が気に入らないのは珍しくない。だがイルが警戒した。その時点で信用などない」

「そうか」

 なによりも信頼できる護衛は、雑談を聞き流すような軽さでうなずいた。油断など最初からしていないくせに。

 ──そんなやりとりをして十日。

 やすらぐのは竜とともに眠るときぐらいという日々は、地味に精神をすり減らし、ゴーチェの口数はだんだんと少なくなっていった。

 オーシャとともに馬車に乗り、〈盟王〉のいる宮殿へとむかう日など、朝から完全に無言だった。

 乗りこんだのは、この国に来たときのものとは比べるまでもないほど立派な馬車だ。新しいもの、未知のものが好きな竜は心なしか楽しそうだったが、その竜を肩にのせているゴーチェは眉間に皺を作っている。

「せっかくいい服を着てるんだ。眉寄せるなって」

 そういうオーシャも近衛の正装だし、ゴーチェも自分の何百年分の食費だろうというドレス姿だ。袖口や襟元に銀のレースと真珠をあしらったドレスは黒色。白い竜を引きたたせるためのものだが、腕から腰までぴったりと体に添い、輪郭のはっきりした形は落ち着かないことこの上ない。

 ゴーチェがドレスについて出した注文は二つ。竜をのせられるよう肩と腕の生地はできるだけ厚めに丈夫にすること。胸に隠してある竜の卵──仕立て屋には故郷の風習で肌身離さず持たねばならない石だと言った──が完全に隠れること。

 あの仕立て屋はよい腕だった。こちらの注文に応えつつこれだけあでやかな服を作ってきたのだから。あの大使でさえ、ドレスを着て髪を結いあげたたゴーチェを見て「思ったよりは」と言ってきたぐらいだ。……横のオーシャが何故か勝ち誇った顔をしていたのはよくわからないが。

 イルがなにかに反応した。馬車の窓からは白い大理石を使った宮殿の門が見えたが、イルは人間の造るもの以外に反応している。

「そうか、他の竜が来ているはずだしな」

 竜は群れをつくる生物ではない。近くに同種の気配が多く感じられるのに動きがないのが不思議なのだろう。

 門をくぐり、馬車はさらに進む。次の門の前で馬車が止まる。きらびやかな制服を着た官吏が馬車の扉を開けた。その動きの丁重さ優雅さからとてもよく訓練されているのがわかったが、長身の濃い肌色という容姿からしてこの国の民ではなく、もっと東のタルプル国の人間だ。

 そんな官吏がゴーチェの肩にのる竜に一瞬目をとめた。

「ようこそ、〈白の城〉へ」

 仕事を忘れて見入りかけた官吏が笑顔を浮かべて言う。

「ここより御案内いたします。どうぞ」

 応対はオーシャにまかせ、ゴーチェは二人の後についていく。

 〈白の城〉と名付けられたこの宮殿は対外用のもので、住居や政治の場ではないと聞いている。

 つまりは国の外から来た者を圧するための威容なのだ。高い天井に描かれた絵の緻密さも、欠けることのない列柱も、磨かれた床も、すべてが妥協なく整然としている。ゴーチェはそこに美しさより人の欲を見てしまう。「自分は、自分たちはここまでできるのだ。見よ。見て恐れよ」と人の顎をつかんで見せつけるような欲を。

 どれだけ歩いたか、「こちらでお待ちください」と官吏に通されたのは小部屋だった。この宮殿の規模からすれば。

 乗ってきた馬車が三台は入るだろう部屋に二人と一頭というのは、贅沢を通りこして単なる無駄遣いのようにゴーチェには思える。

 椅子に座り、イルを肩からおろして様子をみてみれば、少し瞳孔が大きくなっているのが見てとれた。

「調子はどうだ」

「悪くはない。同種の気配に少し興奮しているが」

「竜じゃなくてお前だよ」

「わたし?」

 小さくイルが鳴く。

「お前の調子が悪かったら竜にも響くだろ」

「見てのとおりだ。気分はよくないし、ドレスも落ち着かないし、早く帰りたい」

「謁見が終われば帰れる。それまでの辛抱だ」

「わかってる」

 子供扱いするなと言いたいくらいだが、実際に子供のようなことをしているのは自分のほうだというのもわかっている。自分で言っておきながら帰りたくて仕方ない子供と今の自分と、どれだけ違いがあるというのか。

「いつものあれは大丈夫か」

 あれとはなんだと返しかけ、ゴーチェはオーシャの目線がこちらの胸元にあることに気づく。

 こういったドレスは本来ならば大きく襟を開けて、肌の上に立派なネックレスなどをつけて谷間を見せつけるのだろうが、ゴーチェのドレスは喉元まで襟がくる特別なものだ。

 そこに隠してあるものをオーシャは知っている。

「今のところは変わりはないと思う。イルの術が効いているのかわからないが、時々中で転がっている」

「イルの術?」

「周囲からの情を断つ──こちらへの流入を防ぐ術だ。とはいえ、これが竜に効くかわからなかったから、わたし自身にかけてある。……肌に触れているあいだはたぶん大丈夫だと思う」

 なにしろこれは初めての試みだ。自分でもどうなるか予想がつかず、この術が功を奏することを期待するしかない。

 この卵のためにも落ち着かねばと思うが、どうもうまくいかない。椅子の手すりにのるイルも気になるのか、こちらの胸元をじっと見つめている。

「ただこんな例は〈竜の友〉のあいだでも聞いたことがない。人と竜が集まることで影響がないとは断言できないな」

「……そうか」

「何事もなくすめばいいんだが。──できれば少しでも上位につけて」

 己をなだめるようにゴーチェはイルの背をなでる。それから黙っていても気が滅入るばかりだと昔馴染みを呼ぶ。

「オーシャ」

「なんだ」

「お前に、〈竜の友〉最大の禁忌を言ったことはあったか?」

オーシャが少し考えこみ、記憶をたどる顔になる。

「『〈竜使い〉に堕すな』だったか、確か」 

「ああ」

 〈竜の友〉最大の禁忌は竜を死なせることでも、竜で人を死なせることでもない。


 ──竜の友となれ。竜をただ〝使う〟人間となるな。


 代々の〈竜の友〉が伝えてきた禁忌がそれだ。

「今回のはそれにあたらないのか?」

「一応考えたが、〝見てもらう〟だけなら問題ないとみなした。それ以上を求められたら断るしかない」

「その禁忌、破ればどうなるんだ?」 

 こちらに近づきしゃがみこんだオーシャがイルの首をなでる。猫をなでるようなやりかただが、イルは気に入ったらしく満足げだ。

「わからない。破った者がいないからな」

「それでも伝えるくらいには恐れているってことか」

 オーシャの言葉は正しい。

 竜は人と異なる、人より強い生物だ。その力を借りるのも頼むのもいい。──だが〝使う〟な。

 もし竜が本気で報復にくれば、人には抗うどころか守る術さえないのだ。

「イルが本気を出せば……近衛軍くらいは消せるぞ」

 オーシャが「そうなのか?」とイルを見上げるが、イルはなにも答えない。

「イルより強い竜はたくさんいる。そんな竜たちが怒ればどうなるか、わたしもわからない」

 〈竜の友〉のあいだでも、竜が人をどう見ているかは意見の分かれるところだ。注意深く観察していると主張する者がいれば、強者らしい無関心から放置しているのだという者もいる。ゴーチェとしてはつきあいのある竜ならなんとなくわかるが、それ以外の竜については知りようがないというところだ。

 ゴーチェが知る──育てた竜は、皆気のいい竜だった。「二本足の世話にでもなってやろう」というような。それでも人間よりはずっと強い生物であることに変わりはない。その気になれば人どころか都市さえ消せる力がある、そんな生物だ。

 だから〈竜の友〉は伝え続ける。

 〈竜使い〉に堕すな──竜の強さを恐れよ。その力を振るえる傲慢に酔うな。警戒を怠るな、と。

「今日集まった〈竜の友〉の中に、欲に目がくらんで〈竜使い〉に堕ちる者がいないとも限らない」

「そのときはどうする」

「止める。ありていに言うとそいつを殺す」

「……わかりやすくていいな」

 イルが翼の先にある爪でゴーチェの胸元の真珠をつついて揺らして遊びだした。ネックレスの代わりにとドレスには百を超える真珠が縫いつけられているが、その中でも中央の一番大きく胡桃の実ほどはありそうな真珠がお気に入りらしい。

 さすがにつつく物が物だけにオーシャが苦笑いしている。

「あまりつつくなよ。高いんだぞそれ」

「一応加減はしているぞ」

 イルは賢い竜だ。無闇に人の意に呑まれることはないだろうが、この〈白の城〉に集った竜すべてがそうとは限らない。注意と警戒はどれだけしてもしすぎるということはないだろう。竜のためにも、人のためにも。

 イルが翼をたたみ、扉のほうをむく。しばし間をおいて扉をたたく、ひかえめな音がした。「どうぞ」とオーシャが声をかける。

 扉を開けたのは自分たちをここまで連れてきた官吏だった。

「お待たせいたしました。広間に御案内いたします」

 二人で目配せし、先にオーシャが立ちあがる。次にゴーチェが立つとイルが肩にのってきた。

 部屋を出て長い廊下を歩かされ「こちらに」と開けられた扉のむこうは、絹の幕が幾重にも垂らされている。この先が会見の場、広間であるらしい。

「そのまままっすぐ進まれたところがお二人の席でございます」

 官吏が二歩下がる。それを見てからオーシャが中に入り、幕を持ちあげた。ゴーチェの肩にのるイルがひっかかったりなどしないように。

 絹のトンネルをくぐった先は確かに広間だった。ここまでくればもうただの広間ではなく大広間というべきだろうという空間だった。ここの大広間だけで王の別荘より広いのではないだろうか。馬鹿馬鹿しいほどの広さがあり、ぐるりと周囲にめぐらされた柱の数は数える気にもならない。そんな柱のそばには様々な国の衣装を着た人間がずらりと並んでいる。

 そのうちの一割ほどが〈竜の友〉だった。彼らが連れた三十体超の竜がひとところに集まるなど、前代未聞のことだろう。

 高い天井はどういうしくみか陽光をとりいれる構造になっているらしく、灯火など不要なほどにあたりは明るかった。特に明るいのはむかって右の奥。そこに五段ほどの階があり、階上に玉座があるのが見えた。居並ぶ面々の中でも自分たちはもっとも玉座から遠い。それが今のナクルの立ち位置なのだろう。

「イルは落ち着いてるな」

 オーシャの声にゴーチェはうなずく。

「ゴーチェ。〈盟王〉の前に行けるのはお前たちだけだ。短慮はおこすなよ」

「この場でなにをおこせと言うんだ」

 今更逃げるわけにもいかない。いつ呼ばれるかわからないが、それまでの辛抱だと自分に言い聞かせる。

 玉座のほうから晴れやかなラッパの音が響きわたった。

 楽隊が王の到来を知らせている。他の面々が次々とひざをつくのにならい、ゴーチェたちもひざをつき、頭を垂れた。何重にもなった衣擦れの音の後に、儀典長らしき男の声が高らかに王の名を呼ぶ。

 再びの衣擦れの音は人々が立ちあがる音だ。ゴーチェも渋々立ちあがる。先ほどの儀典長が玉座の階下で今回の参集の〝意義〟を述べているあいだ、ゴーチェは遠い王を観察していた。

 遠目には五十前後に見える。王冠の下の髪こそ、だいぶ白くなっているものの、堂々とした体躯は老いよりも堅牢さを感じさせ、金糸銀糸で彩られた衣にまったく負けていない。

 ──竜なら一番近づきたくない類だ。

 〈盟王〉ギエル・ナシュルハマトはそんな男に見えた。

 自分に優れた力があると理解しているがゆえに、〝自然〟と他者を圧しそれをなんとも思わない者。自ら決めた理で動き、交渉するのは難しく、下手をうつくらいなら最初から近づくべきではないという類だ。

 儀典長が聞きなれぬ国の名を呼ぶ。予想どおり王に近い場所にいた者が竜を連れて前へと進み出る。階のすぐ前まで出た老年の〈竜の友〉がうやうやしくひざをついた。

 その肩にいたのは金の竜だった。赤銅に近い金の輝きは十二分に人の目を引きよせていたが。

 「どうだ」と小声で訊いてくるオーシャに「よくないな」とゴーチェは答える。

「見栄えのよさを優先したのだろう。まだ人に充分慣れていないから落ち着きがない」

 〈竜の友〉の肩の上で黄金の竜は翼を上下させている。あれは竜が落ちつかず苛立ちはじめているときの動きだ。この竜の場合、翼を上下させればさせるだけその輝きが目立つから、老年の〈竜の友〉もあえて放っておいているのだろうが、竜にはよいものではない。

「悪くない」

 低い声がこちらまで届いた。儀典長のものではない。これが王の声だと理解するまでにいくらかかかった。

 儀典長が軽く手を動かす。これが「退がってよい」という合図らしい。老いた〈竜の友〉が竜をのせたまま、片足をひきずるように元の位置まで戻る。

 次に呼ばれたのはそのむかいにいる国だった。こちらもまた金の竜を連れている。黄味が強く、先ほどの竜よりは年経て落ち着きがあるが、同じ金の竜の後で今一つ目立てないのをこの〈竜の友〉は惜しんでいるようだ。

「……ぱっと見た感じ、白はいないな」

 オーシャがつぶやいたとおりだった。この場に金や銀の竜は多いが、白はイル一頭だけだ。

「金や銀は珍しいから、その希少さを狙って重なってしまったんだろう」

 自分が育てた中には金も銀もいない。だから白いイルを選んだが、結果として唯一の色となったのを喜ぶべきかどうか。

「さっきのよりは慣れてるように見えるが」

「そうだな。年のぶん落ち着いている。いい竜だ」

 〈盟王〉が「その竜はなにができるか」と問う。〈竜の友〉は「岩を砕くことができる」と返した。かなり謙虚な答えといえるだろう。あの竜はゴーチェの見立てなら山を削れるぐらいのことはできるはずだ。

 下された言葉は最初の国と同じ「悪くない」。

 そんな〈盟王〉の抑揚の乏しい声から彼の意図を読み取るのは困難だった。竜のなにをどう評価しているのかも。

 同じようなやりとりの繰り返しでだいぶ辟易してきたあたりで、ようやく儀典長がナクルの名を読みあげた。横のオーシャを一度見てから、ゴーチェは前へと出る。

〈盟王〉の正面まで出たあたりでむきを変えると、イルがゴーチェの肩を離れて飛びたった。竜にしては驚くほどゆっくりとイルは飛ぶ。その後ろをゴーチェは歩いていく。

 ──イルのほうがわかっているな。

 見たいのなら見せてやろうと、空中をなめらかに飛び、イルは階の下におりたつ。それから長い首を〈盟王〉にむけて一度のばし、翼を広げて一礼する。

 近くで見れば白い鱗が純白ではなく淡い虹色を宿しているのがわかるだろう。一番その輝きが顕著に出るのが首だ。

 イルの後ろでゴーチェはひざをつき、頭を下げる。その肩にイルがのってきた。

「その竜はなにができる」

 近くで聞いても〈盟王〉の声は真意をつかみづらい。頭を下げたままゴーチェは答える。

「特に、なにも」

「なにもできぬのか」

「穏やかな竜ゆえ、こちらから頼みこむことでもないかぎり、爪牙を振るうことも術を使うこともない。そんな竜なので」

 あえてゴーチェは嘘をついた。〈盟王〉がどれだけ竜のことを理解しているか探るために。

 イルが穏やかな竜というのは本当だ。だがこの竜の術はそのあたりの竜を軽くしのぐ。イルを育てた経験があったからこそ、今いるコグをのばせたといっていいくらいだ。

「美しい竜だ」

 〈盟王〉の言葉はただ姿を褒めただけのように聞こえた。だが他の〈竜の友〉にむけられたものよりは、いくらか評価が高いように思える。

 ──仕事はできたか。

 あの少年王の希望にそえそうなことに安堵し顔を上げるが、儀典長の手が動かない。まだなにか問われるのかといぶかしむゴーチェの両腕がつかまれる。

「なにを!」

 両側からゴーチェの腕をつかんでいるのは〈盟王〉の親衛隊だった。本来ならば玉座の両脇で王の護衛をしているはずの男たちがゴーチェを拘束している。

 肩のイルが短く鳴く。この声は警告だ。

「偉大なる〈盟王〉、陛下のもとに我がナクルはもう一つの竜を献じる所存でございます」

 歩いてきたのは正装のボーフだった。この場にはいなくてもよいはずの男の手には剣がある。その目には欲の光があり顔には諂いの色がにじみ、よく通る声には慇懃で反吐が出そうな甘さをたたえている。

 ここにきてこの男のたくらみがわからぬわけがない。

「やめろ!」

 己の目の前でボーフが剣を振りかざす。ゴーチェの胸、中央に振り下ろされた剣が真珠と布地を裂き、わずかに肌を切り、首から下げていた革袋をも切る。

あらわになった胸からこぼれ落ちたのは、傷一つない真珠のような白い卵。

「〈竜の友〉が肌身離さぬものなど、少し考えればわかるものでしょうに」

 ──仕立て屋だ。勘付かれたとしたらそこからしかない。

 床に転がった卵を手に取り、ボーフは階上の〈盟王〉へとうやうやしくかかげてみせる。

「これなるは〈竜の友〉以外はなかなか目にすることのない、生きた竜の卵にございます」

 イルを飛ばして卵を奪還すべきか。いや、押さえられているそれだとこの場から逃げられるのはイルと卵だけだ。自分が後で合流できればいいが、どのくらい時間がかかるか予測がつかず、それまであの卵に異変がないとも限らない。

 ボーフを睨み歯ぎしりするゴーチェの肩で、イルが鳴いた。長く、低く、ついで高く。

 何人かの〈竜の友〉がざわつくのが聞こえた。イルが歌ったのは〈エカレの子守歌〉だ。自分が何度も聞かせ、またここまでの道中でも歌ったもの。それをイルが歌ったということは。

「返せ!」

 大使から儀典長へと卵が手渡されていく。階をのぼる儀典長が持つ卵にぼんやりと影が浮かんで見えた。光を透かしたように、竜の翼の形をした影が。

 落ち着け。怒りは竜の糧にはふさわしくない。そう考えれば考えるほど焦りは増していく。

 儀典長が〈盟王〉のもとへ行き、卵を手渡す。

 手にした卵を〈盟王〉は首を傾けつつ眺めた。まるでかの日の少年王と同じように。 

 多くの者には見えていないであろう卵の中の翳りが、あがくように動いているのがわかる。

 竜の体でもっとも硬いのは両手の爪だ。その最初の仕事はやはり硬い己の殻を割ること。

 天からの光を受け、聞こえるのが不思議なほどささやかな、静まりかえった大広間に響くにはあまりにささやかすぎる音をたて、〈盟王〉の手の中で卵が割れる。割れていく。

 砕けた殻が玉座の下に落ちた。

 おお、とあちこちから声があがる。

 薄い膜に包まれた竜がそこにいた。まだまだ小さく、翼を広げきっても大人の腕の半分ほどしかないだろう。だがその親譲りの美しさは雛とでもいうような幼体でも揺るがない。

 青玉の結晶が命を宿せばこうなるだろうという、純粋な青。まだ小さな一本角もあの日見た竜そっくりだ。角が膜を突き破ると、震えるその青はさらに色濃く煌めいた。

 それを見た〈盟王〉の眉がかすかに動く。

「──これこそまさに最上と言うべきである」

 〈盟王〉の声に大使が顔を赤くし、床にひざをつく。

「なんと! ありがたき御こ──」

 ボーフの声をさえぎるように竜が鳴いた。〈盟王〉の手の中で青い竜が懸命に首をのばし、苦しげに声をあげている。

 竜は〈盟王〉を見てからふらつくようにそっぽをむき、拘束されたまま怒りに震えるゴーチェのほうを見た。

 〈竜の友〉ならわかる。あの声は竜の名乗りだ。産声とともに生まれもっての名をあの竜は告げた。ということはあの竜は自分を、このゴーチェを己の〈竜の友〉として認めたのだ。

「返せ!」

 ならば自分も名を返さねばならぬ。あの竜に、己の名を。

「その竜はわたしの──ゴーチェ・オンドゥートの竜だ!」

 この腕をふりほどいてかけつけたいが、抑えられた両腕はびくりとも動かない。

 青い竜が小さく鳴く。竜の返信だ。

 それから竜はまだ濡れた翼をよろよろと動かし飛ぼうとして──〈盟王〉の手から落ちていった。

「ルーディッカ!」

 竜の名を叫ぶゴーチェの前で、ひらりと男の手が落ちていく竜を掴んでいった。彼は走りながら声をあげる。

「かまわん! イル! やっちまえ!」

 左手に竜を。右手に剣を持ったオーシャが茫然とする大使を昏倒させる。ゴーチェの肩から離れたイルが左腕をつかむ親衛隊の頭に爪を立てると、左を抑えていた手が離れた。翼で側頭部を両側からはたかれた親衛隊が気絶する。竜に剣をむけていいのかと困惑するもう一人の親衛隊を、すかさずオーシャの剣が打つ。

 ゴーチェの肩にふわりと温かいものがかけられる。オーシャの着ていたローブだ。

「手、出せるか」

 ゴーチェが差しだした手に弱々しい竜がそっとのせられる。消耗が激しい。どの竜も孵化直後にこれほど衰弱していたことはなかった。

「すまない……」

 弱った竜を胸に抱けば、水の代わりと思ったか、竜は垂れたままの血を舐めた。

「どういうつもりか!」

 声をはりあげたのは〈盟王〉ではなく儀典長だった。自分の横でオーシャが剣を持ったまま答える。

「親から子を引き離すような真似を了承したつもりはないということだ」

 その声には怒気がこもっている。

「今回の〈お召し〉のために連れてきたのはこのイルであって卵でもそこから孵る竜でもない」

「大使の言葉は偽りだと」

「こちらには知らされておらぬ謀りごと。御覧のとおりの不安定な竜をどうして人前にさらせるものか」

 オーシャの堂々とした言葉がありがたかった。さすがは一国の近衛というべきだか。息を整え、平静を保とうとあがく自分よりも、よほどしっかりとたちむかえている。

 怒りは流せ。妬心は鎮めよ。欲は薄めよ。友たる竜にまずいものを食わせるな──くり返し己の言い聞かせ心を落ち着かせようとするがうまくいかない。

「その竜は献ずるつもりはないと」

「無理だ。俺みたいな素人でもわかるくらい弱った竜を置いていけるわけがない」

 ゴーチェは竜を抱き立ちあがる。

「そのとおり。貴様のもとではこの竜は育たない」

 竜の友であれ。この心は竜の糧だ。怒りを糧に与えるな。そう頭ではわかっているけれど、心はおさまらない。

 このような窮地を招いた己の選択。己自身への怒りは消せるものではない。

「〈盟王〉。貴様の心は竜にとって吐くほどまずいんだ」

 ゴーチェの言葉に〈竜の友〉がざわつく。

 その意の重さを解したのはここの二人と〈竜の友〉たちだけだったろう。ゴーチェが〈竜の友〉の秘伝を語っていることをそれ以外の者は気づいていない。

 〈竜の友〉の動揺が彼らの竜たちに伝わっていた。落ち着きをなくしだした竜たちに人間たちが狼狽する。

「どうする、ゴーチェ」

 こちらをむくことなく問うてきたオーシャに、ゴーチェは答える。

「この場を離れられるならなんでもいい」

「なら帰るか」

 あまりにあっけらかんとした物言いだった。ここは酒場ではないんだぞと返したくなるような、あえての軽い声。

「なにもおかしくないだろ。その竜は〈盟王〉に渡せないし、どこか静かなところへ移さないといけない。そして俺は陛下にこのことを報告しないといけない。──ほら、帰るのが一番だろう?」

「……そうだな」

 ゴーチェは周囲を見回す。周縁では竜がわめき羽ばたき、〈竜の友〉はその対応に追われている。衛兵は命令がないために動けずただ立っているしかない。儀典長も同様だ。

 もっとも高き場にいる〈盟王〉は──こちらを見ていた。

 動揺はなく、見上げる顔は一見平静に見えた。だがゴーチェにはわかる。今の彼には希少なものをとりこぼしたという欲からの口惜しさと、威厳を見せつけるべき場を乱された怒りがあると。この平静は極端に抑制された、長年の訓練の末にできた仮面だ。

 仮面めいた顔の口が動く。

「問おう。ゴーチェ・オンドゥート。その青い竜を献ずる気はないか」

 どれだけ威厳に満ちた声だろうと、仮面が発していると思えばなにほどのものか。

「ない」

 あの若い王の覚悟に比べれば、この王の圧など枯葉のようなもの。

「わたしは〈竜の友〉だ。そしてどこの王の臣下でもない」

 言いながらゴーチェは覚悟を決めた。

 己は〈竜の友〉。なら玉座にいるかの男は──竜の敵だ。

「ナクルの位は下がり続けている。此度のこと、王の返答次第では兵を出すことになりかねないが」

 〈盟王〉にとってはこれが譲歩なのかもしれなかった。どこまでも脅迫じみた威圧の塊のようなものであっても。

「ならばわたしは、故郷のための〈竜使い〉となろう」

 横にいたオーシャがぎょっとした目でこちらを見たのにもかまわず、ゴーチェは続ける。

 正気か、と誰かが叫んだ。見知らぬ〈竜の友〉だろう。

「この場でその首落とさぬはこの幼き竜のため。故郷に刃をむけるというならば、竜の力を使い、人を追い、人を焼く、生きた城となろう。──それがこの竜に苦痛を強いたこの身と故郷への代償」

 それでは、とゴーチェはきびすを返す。

「捕らえよ!」

 〈盟王〉の言葉に衛兵たちが一斉に剣を抜く。そんな衛兵たちに竜がとびかかった。〈竜の友〉が連れていた竜たちが次々と衛兵の動きを止めていく。

 ──これが竜の答えか。

 竜は群れる生物ではない。だが同種を理由なく見捨てる生物でもその処遇に対して怒らぬ生物でもなかった。

 青い竜を抱きながら、ゴーチェは心の中で竜に感謝の言葉を贈る。声に出さずとも、人の情を読む彼らにはこれだけで伝わるだろう。

 なんの障害も二人と二体の前には存在しなかった。この場の混乱を収められるはずの〈盟王〉はどういうわけか言葉を発さず、下々の者は目の前の竜たちの対応が精一杯だった。

 ゴーチェたちは喧噪の中をまっすぐ歩き、堂々と外へ出る。

 青天の下、ゴーチェが白い竜の名を呼ぶ。

 かの竜が空を舞い、翼を広げるのを多くの者が見た。

 十倍ではきかぬほど大きくなった竜の背に二人の人間が乗るさまも。



 

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