この距離は埋まらない

石田空

第1話

 律にとって、烈は隣に住む格好いいお兄さんだった。

 律と烈の弟が同い年であり、親同士も仲がよかったため、なにかあったらよく隣の家に預けられていたのだ。

 烈の弟である瑠希はよく言ってしまえば年頃で、悪く言ってしまえばガキだったがために、ゲームをしたら手加減なしに律をボコボコにして泣かせるし、運動神経が特にない律をほったらかしにして公園のアスレチックに夢中になるのだから、ふたりの相性ははっきり言って最悪だった。

 一方、それを見かねた烈は「こら瑠希。律ちゃん泣いてるからもっと優しくしなさい」と言ってから、しょっちゅう慰めてくれていた。


「ごめんな、瑠希が勝手で」

「……ううん。るきちゃんいじわるだからきらい。れつくんはやさしいからすき」

「それ、瑠希には言ってやるなよ」


 律と瑠希が保育園に通っている頃には、既に烈は小学校に通っていて、律と瑠希が小学校に上がった頃には、既に烈は中学校の制服に袖を通していた。

 律は学ラン姿の烈に、ドキドキした顔をしていた。


「烈くんかっこいいねえ」

「ありがとう」


 進学しても大して関係は変わらず、律の片思いは膨らむばかりであった。

 なんだかんだ言ってしょっちゅう瑠希と一緒にいるせいで、ませた女友達からはしょっちゅう「瑠希くんと付き合ってるの?」と聞かれたが、それにはふたり揃って「ありえないから」と言った。

 瑠希は「ないない。あの泣き虫とはありえない」と言うものだから、またしても裏で律は抗議をし、瑠希は「ほら、また泣く」と面倒臭そうにしていた。それを学校帰りの烈は「また瑠希、律ちゃん泣かせたのか」と呆れて律を慰めに行っていた。

 律が泣いていたら、烈が慰めに来てくれる。それに少し優越感を覚えていたところで。

 失恋は唐突にやってきた。

 律と瑠希は今なお小学生だったが、烈は高校に進学したのである。中学時代の学ランも様になっていた烈だが、地元高校はちょうど制服を替えたばかりで、真新しいデザインのブレザー姿の烈は、いよいよ誰もが放っておかないだろうと、律は見た瞬間に顔を赤らめていた。


「烈くん格好よくなったねえ」

「そうか? 兄貴全然中身変わってねえけど」


 しょっちゅう泣かされ泣かす関係だった律と瑠希だったが、小学校高学年ともなれば、そこそこ仲のいい友達で治まっていた。

 その頃には耳年増の子たちも、律には他に好きな人がいると知っているため、ふたりの関係についてどうこう言う人間はいなかった。むしろ律が瑠希の恋愛関係をアドバイスするような関係に落ち着きつつあった。

 その日は調理実習でカップケーキをつくり、「家族に持って帰りましょう」と先生に言われて、ラッピングまでしていた。律の家は、律以外は甘いものが得意ではなく、自然とこれを烈に持っていってあげようと思い立った。

 その日は瑠希は「ちょっとお菓子渡してくる」と好きな子に渡しに行くので、「上手く行くといいね」と励ましてから、律はひとりで烈の家を訪ねに出かけた。

 だが。


「あれ、律ちゃん」

「可愛い。妹さん?」


 烈は同じブレザーを着た女の子と一緒に帰ってきたのである。

 女の律から見ても可愛らしい子で、ふたりで仲良く手を繋いで帰ってきたふたりを見て、律は「な、なんでもない……!」と逃げ出した。

 律にとって、烈は優しい大人びた男の子であり、その優しさは律への専売特許だったが。そうじゃないと初めて思い知ったのだ。

 カップケーキは結局烈に渡ることはなく、律は泣きながらラッピングをむしり取ってひとりで食べ尽くしてしまった。律は初めての失恋で、布団に丸まって泣きながら寝こけてしまったのである。


****


 律と瑠希が地元の中学に進学した頃、烈は大学に通っていた。

 もう制服に袖は通しておらず、ラフな格好でいる烈を律は遠巻きに見ていた。


「兄貴になんか言わなくっていいの?」

「……だって、お兄さんもう彼女いるでしょ?」

「あんだけ烈くん烈くん言ってたのに? あと兄貴は大学入学のときに高校の彼女とは別れてるよ」


 瑠希にあっさりとそう言われて、律はパァーッと紅潮させた。そしてそのあと、背中を丸める。


「……人の失恋を喜ぶのは、よくないと思う」

「それ、今ものすっごく喜んでた奴の言う台詞?」


 呆れられたが、既に失恋の痛みを知っている律からしてみれば、烈の破局を喜んじゃいけないというモラルは当然ながら存在していた。

 中学に入ったら、当然ながら小学校では遭わなかった校区の子たちも合流し、違う人間関係や友達関係も形成されたが。それでも律は烈以上に好きになれる人が現れなかった。


「仲いいんだったら、いっそ瑠希くんにしておけば?」


 中学に入ってからできた友達の来夏にそう言われたが、律は首を振った。


「瑠希くんねえ、運動できる子が好きなの。今は女子サッカー部の子が好きだから。あんまり私に助言聞きに来たら、その子に失礼だよって言ってるところ」

「なるほど……でも今大学生ってことは、私たち高校に入ったらもう社会人じゃない。どうしようもなくない?」

「そうなんだよね……」


 瑠希に対する助言は、今はアプリを使ってやり取りしているため、前のように兄弟の家を訪ねて一緒に遊ぶようなことはなくなった。そのせいで、今の烈も、買い物帰りや庭仕事をしている際に鉢合わない限りは、なにをどうしているのかはいまいち知らなかった。

 律からしてみれば、烈ほど自分に優しくしてくれる人を知らなくて、彼より自分の心をかき乱してくれる相手も知らなかった。

 瑠希の惚れた腫れたの顛末は大概知っていても、烈の彼女遍歴は遠巻きに眺めて、瑠希越しに知ることしかできなかった。

 既に人生の半分は烈に片思いしているから、彼の気配を探し、彼の気配を追い、それを眺めているのが彼女にとっての日常になってしまっている。それでいて烈から話しかけてこない限り話しに行けないのは、律はそう何度も何度も失恋をしたくないせいだった。

 いい加減彼女も、中学生を大学生がどうこうする目で見たらまずいということくらいわかっているからこそ、余計に遠巻きにしか見られなくなっていた。


「他に好きな人ができればいいなあって思うよ。でも、烈くん以外に失恋したくないなあとも思う。烈くんに対しての失恋より痛くて苦しいこと、なかなか味わいたくないもの」

「重傷だねえ……律ちゃんがいいんだったら、それ以上はなにも言えないけどさ」


 来夏は呆れた声を上げたが、それに対して律はどう答えるべきかはわからなかった。

 近所には柿の木が季節が変わってもなお柿の実がしがみついているのを見かける。それはまずいらしく、鳥すら啄むことがなく、ただ冬になったらボトリと落ちて、発酵した果実酒の匂いを吐き出している。

 律の恋は既に発酵した柿のように、ぐずついて未練たらしいものになってしまっていると、本人が一番自覚している。


****


 せめてもの抵抗で、律は受験勉強する際に女子校を受験することにした。それには瑠希も来夏も当然ながら突っ込んだ。


「ええ、律。お前彼氏つくんなくっていいの?」

「別に。彼氏いなくっても生きていけるし」

「りっちゃん。まだ私ら高校生だよ? そんなヤケにならなくっても」

「なってないよ。ただこの学校ね、エスカレーター式で、成績優秀者は大学進学の際に行きたい学科を選べるんだって。成績頑張って上げないと」


 大学受験をしたくないからという理由もあったが、もうひとつは律の中で切実な理由があった。女子校生活に入ったら、もしかしたら彼氏ができなくても生きていけるようになるかもしれない。もしかしたら恋愛したくなくなれば、やっと烈のことを忘れられるかもしれない。

 律はそれはそれはよく勉強し、学内奨学金を取って一年間授業料タダという特待生として、合格を決めたのだった。

 女子校の制服は、今時古臭いワンピースタイプのセーラー服で、自然と大正や昭和の匂いを思わせた。そこで女子校生活を送ったら、なにかが変わると思っていたが。

 入学式の際、律は信じられないものを見てしまった。


「それでは、皆様と一緒に新任教師になった教師一同の挨拶です」


 入学式のシーズンに同時に新任教師の発表となったが、その中に烈がいたのであった。よくよく考えれば、女子校にだって普通に男性教師はいる。男子が入学できないだけで、男性は普通に働き口があれば働けるのだった。

 烈は新任のために担任クラスはなかったが、数学教師として授業を受けはじめた。

 女子高生は若い教師を見た途端に、勝手に恋に落ちはじめたが、烈は「はいはい。突発小テストです」と、モーションをかけてきた生徒のクラスを突発小テストで狙い撃ちしたために、あっさりと嫌われた。


「若い先生だからもうちょっと生徒に振り回されると思ってたけど、あの人笑顔で鋭いわ」


 そう言ってのけたのは、女子校に入学して友達になった露美だった。それに律は笑う。


「そう? 真面目なんだと思うよ。教師と生徒で恋愛って、まずいのは教師のほうだし。処世術だよ」

「りっちゃんわかった風なこと言うねえ」

「世間一般だとそうなんじゃない?」


 実際に人間関係や彼女のいるなし、結婚がどうのこうのは、授業中に誰かが唐突に聞き出すことがあっても、烈は全てスルーしてしまうため、なにもわからないままだった。

 一度地元の高校に進学した瑠希にアプリで確認したが、【兄貴家を出てったから、今は彼女いるなし知らねえぞ?】と返してきたため、やはり律でも今の烈の交流関係は謎のままだった。

 失恋して痛い目を食らうくらいだったら、せめて遠巻きにして彼を眺めていたい。烈は数学の授業中、ずっと烈を眺めて、一生懸命授業を受けていた。小テストで満点を取れば、返却の際に「すごいぞ」と褒めてくれる。そのひと言をもらうためだけに、彼女は前以上に勉強を頑張るようになった。


****


 烈にアタックし、ひとりふたりと撃退され、とうとう「烈先生は生徒に興味なし」と結論がついた頃、律は成績を上げるだけ上げて、やっかみなのか本当に任されたのか、クラス委員になってしまっていた。

 秋になれば日が落ちるのも早くなる中、委員会活動に出かけ、それで日が落ちた中帰ることも増えていった。


「ああ……」


 委員会活動で行きそびれたトイレに行っていたら、その間にバスは行ってしまった。

 基本的に律の学校はバス通学であり、学校専用バスで登下校をする。バスが行ってしまった場合は、学校を出てしばらく歩いた先のバスに乗らないといけないが、既に帰宅ラッシュだ。バス停は混雑していていつ乗れるかがわからない。


「どうしよう……」


 駅まで歩くべきか、お小遣いが消える覚悟でタクシー探すべきか。外灯がついているとはいえど、駅まで歩いて帰る勇気は、律にはこれっぽっちもなかった。

 泣きそうになりながら、律はスマホを眺める。家族は病院勤めであり、今日は両親どちらとも夜勤だったはずだ。だとしたらタクシーを呼び出すべきか。お小遣いが心配だが。

 そうひとりで躊躇してたら。


「まだ帰らないのかい?」

「あ……」


 烈であった。学校での教師スタイルは基本的にスーツで、夏はシャツだけだが、秋にもなったらかっちりとジャケットを羽織ってネクタイも結んでいる。それに律はあわあわとしながら答えた。


「トイレ行ってる間に……バスが行っちゃって……今からバス停まで歩こうか、歩いて駅まで帰ろうか、迷ってたところです」

「ああ、そっか。もう学校のバス出ないかもなあ」

「はい……」


 一応女子校は大学と隣接しているのだから、大学のほうまで歩けばバスがある可能性もあるが。大学は高校よりも授業が終わる時間が遅く、いつになったら帰れるかがわからない。暗い上にやや肌寒くて、そのせいで自然と律も心細くなり、涙を浮かべていたら、烈が溜息をついた。


「じゃあ駅まで送ろうか」

「え……」

「生徒がバスに乗り遅れてたらなあ。他の子たちはもう皆帰ったし」

「お、お願いします……」


 知らないうちに免許を取り、知らないうちに車持ちになっていた。烈は律の知らない人生を送っているんだなということをまたひとつ知り、またひとつ傷付いた。

 烈の車は静かで、ときどきバスに乗っているときに乱暴に感じる揺れひとつなく、車は進んでいった。

 授業の話や委員会活動の話、本当にただの先生と生徒の話をしたあと、長くて楽しかった時間は終わり、駅の前で車は停まった。


「ほら、降りて。もうすぐ電車来るから」

「は、はい。ありがとうございます……」

「次から気を付けて。あとこれは」


 烈はちょん、と人差し指を差した。


「他の生徒に内緒な」

「……はいっ」


 車が軽やかにスピードを上げて去って行くのを、律はぼんやりと眺めていた。


「烈くん……」


 彼女にとって、やはり烈は教師であったとしても、優しいお兄ちゃんであり、失恋をしてもなお好きな人のままだった。

 その日、久々に律は浮かれた。浮かれついでにアプリで友達に報告した。

 同じ学校の露美に言ったらまずいだろうと、未だに交流のある瑠希と来夏にだけだが。

 瑠希からは【あーあーよかったなよかったな】と棒読みな返事と一緒に、何故かカッパのスタンプを大量に送られ、来夏からは【いち生徒の付き合いじゃないよ、これは。絶対に脈あるから、頑張れ】とチアガールの格好のシマリススタンプを送られた。

 律はふたりに【ありがとう】とメッセージを送ってから、空を見上げた。

 成績優秀で、いい生徒で、それからなにができるだろうか。

 律は当たって砕けていった生徒たちみたいな行動は取れなかった。それをしたら、教師としての壁をつくっている烈が、今日みたいにそれを崩して助けてくれるような真似はもうないだろうから。

 だからと言って生徒のままでは、いい生徒と先生のままで終わってしまう。

 なにをどうしたらいいのか、律にはいまいちわからないままでいた。


****


 それからというもの、律は烈とはいい生徒と教師の関係を維持してきた。

 小テストの成績で満点を取り、定期テストの際にいい成績を取れば、皆の前で褒められるから、それで満足しようと思ったのだ。

 時にはわからない問題を直接烈に聞きに行くこともあったが、烈はそのときも教師の言葉のままだった。


「りっちゃんさあ。もしかして、烈先生のこと好き?」

「えっ?」


 律は二年生に進学しても、できる限り気付かれないようにしようとしていたので、唐突に露美に指摘されて、激しく狼狽えた。律はそもそも秘密は黙り込むことであり、嘘をつくのは苦手であった。

 それを知ってか知らずか、露美は「だってさあ」と続けた。


「理由を付けては職員室に行きたがるし」

「それは授業を聞きに行って……」

「でもりっちゃん成績優秀過ぎて、先生にいちいち聞きに行く必要ないじゃん。大学の進路相談だったらわかるけど。でも私たち、まだ学科選択できる立場でもないし」


 一応二年生に進学したら、進学希望ごとにクラス分けはされる。

 大学の理系学部希望なら前半クラス、文系学部希望なら後半クラスと。ふたりは理系クラスに入れられ、前よりも理系教科中心の授業割りにはなったものの、それを理由に職員室に行く口実が増えたくらいにしか、律は思ってもいなかった。

 だからこそ、高校からの友達の露美に突っ込まれるとは思ってもいなかったため、律はひやひやしていた。しかし露美は「まあ、いいんじゃないの?」と言う。


「えっ? でも、先生は私のことなんとも思ってないよ?」

「そりゃね。先生が生徒に色目使ったらいろいろ問題あるとは思うけど、生徒が先生を勝手に好きなのは問題なくない?」

「そうなのかな……」

「だってりっちゃん。烈先生にいい生徒ですアピールより上のこと全くしてないのに、咎めることもなくない?」

「うん……そう、なのかな」

「まあ、烈先生無茶苦茶厳しいからね。ちょっと色目使った子たちからは反感食らってるみたいだけど、それ以外の生徒からは概ね人気みたいだから。競争率高そうだけど頑張れ」

「それ応援されてるのかな……」

「してるしてる。頑張れー」


 露美からやる気のあるのかないのかわからないエールを送られつつも、律はなんとかその日の授業も終えた。

 進路については、「律の成績なら大丈夫じゃない?」と言われ、薬学部に入れるように頑張るつもりだ。そこでますます授業は難しくなっていったが、律はそれもなんとかこなしていった。

 しかし烈と話がしたい、勉強が難しいから頑張らないといけない。

 頑張り過ぎがいけなかったのか、その日はふらふらとしていたものの、その日の選択授業のためにも人気のない廊下を突っ切らないといけなかった。


「あれ、大丈夫かな?」

「烈先生……」

「顔色悪いけど。このまま授業受けに行って平気?」


 烈が本当に珍しく律を心配そうに、しかも距離が近くなっているのにドキリとする。


(烈くん、こんなに距離近いのいつ振りだろう……)


 そう素直にドキドキとするものの、気のせいかドキドキとする鼓動が激しい。


(あれ……?)


「ああっ!」


 烈の悲鳴と一緒に、律の視界は暗転してしまった。

 暗転してから、律は走馬灯のように夢を見ていた。

 小さい頃から瑠希におちょくられてワンワン泣いていたのを、烈に慰められていた夢。烈が中学生になったのをドキドキしながら隣から見ていた夢。高校の制服の女の子と寄り添っているのにショックを受けて逃げ出した夢。

 折角高校で再会できたのに、生徒と教師になってしまい、どうしようもない現状。


(同い年だったらよかったのに。瑠希ちゃんと烈くんの立場が反対だったらよかったのに)


 瑠希に幼馴染甲斐のないことを思いながら、律は考える。


(優しかったけど、それは誰に対してもなんだよね。今の烈先生だって、いい子にしていたら褒めてくれるし笑ってくれるけど……それはいい生徒だからであって、私だからじゃないし。頑張ってきたのに、倒れちゃって……あぁあ。あれ? そういえば今、私はどこにいるんだろう)


 目が覚めたとき、ツンと薬とアルコールの匂いがして、辺り一面真っ白なことに気が付いた。カーテンの閉め切られた保健室である。


「ああ、目が覚めましたか? 貧血ですよ」

「貧血……私、月のものはもう終わりましたけど」

「思春期だったら、考え過ぎてもなることはありますよ。勉強し過ぎもそうですけど、悩み過ぎも貧血になりますから」


 保健室の先生にやんわりと注意され、貧血用に鉄分入りの飴をもらった。


「あの……私廊下で倒れたんですけど……どうやって」

「ああ、大丈夫かい?」


 突然保健室がガラリと開いたかと思ったら、烈が入ってきたのに「まさか」と律は思った。でもよくよく考えたら、人気がなくって女子校で倒れたとなったら、授業を受けに行く女子生徒ではまず運べず、女教師でも気絶した生徒を運ぶには無理があるのだ。となったら。

 保健室の先生がニコニコと笑う。


「慌てて先生が運んでくれたんですよ」

「ご迷惑おかけしました。担任と親御さんには許可を取ったから、今日はもう下校しなさい」

「えっと……残りの授業は」

「今は考えなくていいから」


 烈が本当に珍しく慌てているのに、律は少しだけ胸が疼いた。


(それが生徒が目の前で倒れたからじゃなくって、私が倒れたからだったらいいのに)


 ただ誰に対しても優しい教師が、そんな依怙贔屓をするとも思えず、そのことはなるべく律は考えないようにした。

 いつかのときと同じく、車に乗せられるとそのまま運ばれる。


「駅まででいいですよ」

「いや、このまま家まで送らせてほしい」

「でも……先生困りませんか? 授業は?」

「先生の次の授業は、午後からだから大丈夫……保健室の先生が言っていたけど、勉強し過ぎだって。大丈夫か?」


 烈は運転をしたまま、隣に座る律のほうに目もくれない。そのことを寂しいと思えばいいのか、気を抜けた緩みそうになる口元を見られなくてよかったとほっとすればいいのか、律にはわからなかった。

 ただ、流れていく車窓を見ながら答えた。


「勉強し過ぎってほど、勉強してないですよ」

「でも成績は優秀だろう? 担任も褒めていたよ。薬学部までストレートで行けそうだって」

「大袈裟ですよ……ただ、早く大人にならなきゃと思っただけです」


 大人にならないと、烈の隣に立てない。生徒と教師のままだと、どうにもならない。

 車は駅を通過して、律のよく知る住宅街まで突っ切ると、家の前で降ろされた。


「今日は一日安静にしてなさい。明日からまた、頑張ればいいんだから。肉でも食べてちゃんと休みなさい。それじゃあ」

「先生……送ってくれてありがとうございます」


 烈はそれに会釈で返すと、元来た道を走っていった。

 それを見送りながら、律はくすくす笑い、そして目尻から涙を溢した。

 心配されても傷付いて、心配されなくってもきっと傷付く。すっかりと取扱注意物になった自分の気持ちがどこまでも面倒臭く、諦められたらよかったのにとだけ思った。

 しかし既に人生の半分以上片思いしているので、諦めることすら既に諦めている自分がいた。


****


 そんなこんなで、律は最後の高校生活を迎える年となった。

 一学期の時点でエスカレーター式の大学の薬学部への進学が決まり、肩の荷が降りた。それからは残りの高校生活を大事にさえしていればよかったが。

 今まで担任を持っていなかった烈が、副担任として律のクラスの担当になったのだった。

 そして、理系クラスは比較的外部受験の生徒が多く、必然的に内部進学生が大がかりな係や委員活動をすることとなり、律は何故か卒業文集係になってしまった。

 受験生たちに「暇なときでいいから、原稿用紙一枚でいいから」と説得して卒業文集に乗せる文章を回収し、自分も原稿を書く。

 印刷所に持っていくために、印刷所に出せるように表紙やらレイアウトやらまで考えなくてはいけなく、他クラスの卒業文集係と額を寄せ合いながら考えていた。

 なによりも、卒業文集係の監督に、烈が回されたのだから律からしてみれば歯がゆかった。


(……なんにもないのに、どうしてずっと烈くんのことを意識しないといけないんだろう)


 もう最後の一年くらいは、烈のことを考えずに過ごしたかったが、彼とのことを考えない日はなかった。

 諦められない恋ほど見苦しいものはない。

 律の気持ちは、ずっとぐるぐると、吐き気がするほどの渦巻いていた。

 春先から始まった卒業文集づくりは、途中から卒業アルバムづくりと並行して行われ、最後にいよいよ係の皆で卒業文集を印刷所に提出する運びとなった。

 律は自分の書いた当たり障りのない文章を、ずっと迷っていた。本当はもう一枚書いてあったが、それを出すことはどうしてもできず、結局はそれを卒業文集として出すことはしなかった。


「皆、長いことお疲れ様。あとは卒業式になったら皆に配るから、楽しみに待ってなさい」


 ほとんどの子はノルマのように達成するもので、卒業アルバムや卒業文集に意味を見出さない。しかし律にとってはお腹が痛くなるほど悩んだものだった。

 その中で「どうかしたかい?」と烈から声をかけられた。それに律は「あ……」と声を上げる。


「卒業文集、提出しましたけど……私の文章、ちょっと納得いかなかったんで」

「ふうん。なら、それは卒業式に出せばいいんじゃないかな」

「えっと……?」


 副担任として、卒業文集係の監督として、それなら律は烈と普通に話をすることができた。律が烈に恋をしていることなんて、学校では露美しか知らず、立場上告白が全くできないことを知っているために全部「ふうん」で通してくれていた。

 その中で、律は烈との他愛ない会話で、ずっと恋をし続けているのに気付いていた。

 彼が優しいのは先生と生徒の関係だからだ。彼は自分を特別扱いしていない。立場上告白したら、迷惑なのは烈のほう。何度も何度も言い訳を重ねても、結局恋することだけは止められなかった。

 だから、その言葉を聞いたら期待してしまった。


「卒業式に、君の書いた文章が読んでみたいな」


 その言葉で、また勝手に浮き足立ち、「卒業式まで烈くんは覚えてないかもしれない」とへこんで寝込んでしまった。


****


 その年の桜は例年よりも早く、卒業式シーズンに桜が咲いたのは奇跡に等しかった。

 お別れになる制服を眺めながら、律は卒業証書を手に、烈を探した。

 生徒たちは泣きながら、最後に「先生のスーツの第二ボタンをください!」と無茶振りをしては、烈に断られていた。三年生が卒業したあとも学校に残るほうがスーツのボタンをむしられたらたまったものではない。


「あ、あの」

「うん? 卒業おめでとう」

「……ありがとうございます」

「それで、卒業文集だけれど」

「はい」

「今日、実家に帰るんだ。隣の家」

「えっ?」

「聞かせてもらえるかな?」


 律はそこでポロリと涙を溢した。

 もう覚えていないと思っていた。

 制服を脱いだあとにも、続きがある。

 先生と生徒の関係が終わったあとも続けられる。

 そのことに律はひどく安堵したのであった。


<了>

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