第4話 空を飛んでみよう

 おれが異世界に来てから三週間が過ぎた。

 「異世界言語を理解する」という課題の進捗はもっかのところ順調である。


 ティオテトは料理、洗濯、掃除その他あらゆる雑用をおれに命じて来たが、

 学生という身分を失った今のおれはそれら全てをこなしてもなお自由時間が余っていた。

 

 そしておれはその時間のほとんどを勉強に費やした。

 

 なにしろ、そうしないとティオテトによって事あるごとに行われた抜き打ちテスト(罰則つき)に合格できないのだ。

 読書中だろうが料理中だろうが入浴中だろうが突然始まるはた迷惑なイベント。最初のうちはまるで回答できず、さまざまな肉体的ダメージをくらった。スパルタにもほどがある。

 そんな環境に放り込まれたおれはおれ史上最大最高の集中力を発揮し、必死で課題に取り組むことになった。

 

 そんなわけで、おれの語学スキルは自分でも驚くほどに目覚ましく向上していた。

 たった三週間で、簡単な日常会話くらいならこなせるようになってしまったのである。


「ふんふん……ほうほう……」


 ある日の朝食前に行われた書き取りテスト&読み取りテスト。

 その結果を見て、ティオテトはあまり見せない笑みを口元に浮かべた。


「やるじゃないか、テル。

 あんた、要領はそれなりにいいみたいだな。

 まあ、一番はあたしの教え方が上手いからだけど」


「………………………………そうだな」

 

 たっぷり間をとって答えると、


「なんだその含みのある言い方は。Σψ、εφτσ?」


「λν!」


 ティオテトの問いに瞬速で答える。

 今のは『あたしを馬鹿にしているのか?』と訊かれたので『いえ、滅相もございません!』と答えたのだ。

 なお、『態度が不遜だ』という理由で結局麻痺魔法はくらった。くそが。理不尽すぎる。

 そしてピクピクと床に転がるおれに、


「……で、本の中身の方はどう?

 ちゃんと理解したか?」


「……ぼちぼち」


 のろのろと椅子に座り直したおれは、机の上にティオテトに貰った本を置く。


 まだ半分程度しか理解できていないが、

 読んで見ると、

 どうやら本の中身はこの世界の歴史を記しているようだった。


 曰く、この世界には昔『魔王』という存在がいて、それが人間を滅ぼそうとし。


 それに対抗するために『女神』が天空都市『エデン』に人を集め、魔王を倒す戦士を育成した。


 選ばれた『勇者』と呼ばれた者たちは、力を次々と継承しながら長い年月をかけて魔王との戦いを繰り広げる。


 そして三百年前、最後の勇者『クライス』が己の命と引き換えに魔王を討ち滅ぼしたのだという。


 以来三百年、この世界は平和が続いている――らしい。


「冗談みたいな話だ」


 おれが言うと、


「あんたが言えた口か、異世界人」


 呆れた顔をしたティオテトがツッコミを入れる。

 しかし現代日本に住むおれにとって「勇者と魔王の戦い」なんてもんが実際にあった、などと言われればやはりそう思わざるを得ない。


「あんたがどう思ってもこの世界はそういう歴史の上に成り立ってるからね。

 エデンも本当に存在してるし」


「え、これ今もあるのか?」


「当たり前でしょ? たった三百年で無くなるような場所じゃないよ。

 何なら見せてあげようか」


 そう言ってティオテトは立ち上がると、玄関から外に出た。

 おれもそれに従い、上を見て天空都市とやらを探そうとした。

 しかし今日はあいにく霧が出ており、上空は白いもやに覆われており、したがって天空都市どころか空すら見えやしない。

 ほんと最悪の立地だなここ。


「……見せるって、どうやって?」


 おれが首を傾げると、


「決まってるでしょ」


 ティオテトは上を指さしてこう言った。





***




「……空を飛ぶって、本当に出来るのか?」


「もちろん。このあたしに不可能は無いよ」


 おれが隣に立つティオテトに訊くと、ティオテトは平然とした顔でそう答えた。


「じゃ、あたしの手を取って」


 ティオテトがおれを見上げて、その手を伸ばす。

 おれはその角度に合うように腕を曲げて、彼女の小さな手を握る。

 大人びた仕草と言動には似合わず、ティオテトの背丈はおれよりも頭二つ分は低いのだ。


「初めに言っておくけど。

 絶対に離すなよ、この手」


 ティオテトが念押しするようなきつい目でおれを見てくる。


「……一応訊いておくけど、離すとどうなるんだ?」


「あたしが飛ばせるのはあたしが直に触れてる物だけだからね。

 潰れたトマトが一つ出来上がる」


「分かった、絶対離さない」


 元の世界に帰る前にそんなもんにジョブチェンジしてたまるか。


「じゃ、行くよ。せー」


 「の」を聞く前に、おれの身体は真上に吹っ飛んでいた。


(――)


 思わず目を閉じる。

 感じたのは、ぐんぐんと上昇していく感覚。

 耳にヒュウヒュウと風を切る音が届く。

 胃から不快な塊が昇って来る。


 しばらくその状態が続いた後、

 どこかでピタリと上昇が止まったのが分かった。


「おい。

 目、もう開けていいぞ」


 隣からティオテトの声が聞こえ、おれはおそるおそる目を開けた。


「…………おお…………」


 初めに目に映ったのは、

 視界の端から端までを横に貫くような地平線。


 しばらく右を見ても左を見ても森、という環境にいたおれにとっては、

 それだけで息を呑むほどに美しい。


(本当に……飛んでいるのか)


 下を向けば、おれの足元には何もない。

 だというのに、まるで空中に見えない床があるかのように、おれはしっかりと立っていることが出来た。

 今まで体験したことの無い感覚だ。


 けれど、こんな高さに居ても、不思議と恐怖は感じない。


(空を飛ぶっていうか……空を歩いているって感じだな)


 おれは真下に目を向ける。

 外側から反るように盛り上がった山の中心部分だけが円形に切り取られていて、そこにぽっかりと空いた空間が緑一色に染まっているのが見えた。


(あれが、おれのいた森か)


 高い山の頂点だけが円形に陥没し、そのままそっくり森に置き換わっているような景色。


 これでは誰も侵入することは出来ないだろうし、誰も出て行くことは出来ないだろう。

 それこそ空を飛べでもしない限りは。


「……すごいな」


 その圧倒的なスケール感を前にしておれがそう呟くと、かたわらのティオテトが、


「あんたの世界と比べてどう?」


 と丸い目を向けて来る。


「むむむ」


 悔しいが、こんなに壮大な景色は見たことが無い。


 まあ、地球でも探せばあるのかもしれないが、実際におれがこの目で見た光景という括りで考えればこれより素晴らしいものは無いだろう。

 

 とはいえこれは観測スポットの違いがかなり大きい。

 身一つで飛んでいるわけだから、上下左右に視界を遮るものが何も無いのだ。


 この状態で見れば地球の眺めだって、たとえば広大な大自然でなくて日本の普通の町並みであったとしても、むやみに感動してしまうに違いない。


 つまり、けして地球が負けているわけではないのである……。


 ……などとひねくれた考えをしたおれは、


「……まあまあだな」


 そう答えた。

 するとティオテトはくるりと後ろを向いて、


「ふーん、そんなもんなのか。

 じゃあ、あっちはどう?」


「あっち?」


 その動きに合わせ、手をつないだおれもまた振り返る。


 その瞬間、おれの思考は停止した。

 

 視線の先にあったのは、今度こそ、地球では絶対にあり得ない光景。

 

 読んだ歴史書の文章が思い起こされる。

 ”壮麗かつ高峻、まさしく女神の座に相応しい威容である”などと書いてあったが、その通りだった。

 

 空に、巨大な島が浮かんでいる。


 何の頼りも無く。

 あまりにも自然に、あまりにも壮大に。

 そこに鎮座している。


 あまりに幻想的な風景に目を奪われる。


 おれたちの浮かんでいる場所からは遥か遠くに離れていたが、それでもその存在感は圧倒的だった。

 島というよりも、小さい大陸が浮かんでいるかのような広さ。

 目を凝らすと、小さいながらも山すらある様子。


 そしてもう一つ。

 

「町があるな……」


 そう、島の上には明らかな人工の建造物があった。

 中心にそびえる城のような巨大な建物と、その周りに円状に広がる家々。


「あれが天空都市『エデン』だよ」


 おれの思考を先に辿ったかのように、ティオテトが指で示しながら説明してくれる。


「あの都市は、あたしたちの住むこの世界の象徴とも言える存在。

 それは三百年前も今も変わらないよ」


「……いや……すごすぎだろ」


 正直、恐れ入った。

 異世界すげえ。


「だろう。

 あれはあたしたちにとっても、そういう感情を抱かせるものだよ。

 ……さて、そろそろ戻ろうか」


 そう言ってティオテトはおもむろに目を閉じた。


 すると、おれたちを空中に繋ぎ止めている見えない床のようなものが、下降を始める。

 ちょうどエレベーターが下の階に降りていくのと同じような感覚である。


 行きとは打って変わって静かに、そしてゆっくりと、視点が下がっていく。


(………………)

 

 おれはその間ずっと、エデンの姿を目に焼き付けていた。




***




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