第8話 私が一人飯に行く理由② 壊滅的に気が利かない
「外食と言えば一人飯」というスタンスに半ば強制的に立たされた時、私は完全に一人飯向きの人間だということに気付いてしまった。
子供の頃からずっと感じていた違和感、大人数での飲み会で感じる身の置き所のなさ、集団の中でイマイチしっくりこないという思いはこれだったのかと、30歳にしてようやく合点がいった。
気心の知れた友人達との少人数の飲み会だと各々が勝手に自分の好きなようにやれるので私も100%楽しめるが、参加人数が6人以上、しかも多少気を遣う方々とのものとなると、とたんに居心地が悪くなる。
なぜなら私が壊滅的に気の利かない女だからだ。
参加者全員のことを思いやりつつバランスよくオーダーし、料理が来たら皆に取り分け、お酒を注ぎ、程良いところで次のドリンクのオーダーを聞き出し、食べ終わった皿の片付けを店員さんに依頼し、果ては会計やお開きの算段をするといった一連の作業をすることが私はまずできない。飲み会では尻が座布団もしくは椅子にビスで固定された状態である。
にもかかわらず、何もしないことに後ろめたさと焦りも感じているので、身の置き所なくそわそわと体を揺らし、かいがいしく働く女性に視線を送って「私に何かできることがあったら言って」と思っているが、本当にただ思っているだけであり特段アクションは起こさないので、はたから見たらただ落ち着きなくもりもり料理を食っているだけのどうしようもない人間だ。
思い返せば幼少の頃から、親戚の集まりでは母や叔母、祖母達が色々と世話を焼いてくれるのを当然のこととして享受し、大正昭和を生き抜いてきた男達と共に座布団の上でちびっこ大名よろしくジュースの入ったグラスを傾けていた。子供だからそれがある程度許されていたわけだが、私をはじめとする子供達ほぼ全員が「子供だから何もできないので勘弁してほしい」という甘えを盾に、後片付けくらいしか手伝いをしてこなかったと記憶している。
その経験を踏まえ世の大人に言わせてもらうが、子供達は「まだ何もできないからお手伝いもできない」のではなく、「やろうと思えばできるけど、自分たちは子供だから見逃してもらえるということを自覚したうえで何もできないふりをしている」ので、その事実を念頭にわが子や甥っ子姪っ子への教育方針を決めて欲しい。ちなみに私は甥姪へ手伝いの要請はしていない。なぜなら私自身が大人達に見逃されてきた側なので、その事実を棚に上げて甥や姪へ厳しくしてしまうと、親類縁者に「どの口が」と思われること必至だからだ。
さてそんなちびっこ大名がその後どんな大人に成長したかと言うと、酒宴や食事会では動かざること山の如しの戦国大名に昇華した。大人になったらエスカレーター式に叔母達のように気の利いた女になるかと思ったら、全くそんなことはなかった。未だ良妻賢母学園中等部に進学できず小等部で留年を重ねており、70代の叔母達が料理を運んできてくれるのを、ソファであぐら、片手ビールでつまみ待ちである。
一方、同世代のいとこやはとこ達は親戚の集まりとなると、きちんと「気の利いた女」として年上の高齢女性達を労わりつつ共に働き、自分の子や甥姪達の世話に忙しい。
そして、家でもできていないことが外でできるわけがないとうっかり開き直りそうになるが、昭和の社畜は家では寝るか飲むか食うかだけの「フリーズした巨大パソコン」と化しているのに、ひとたび外へ出ると見違えるように「仕事のできる立派な社会人」となっていたのだから、私が家でも外でも無用の長物と化しているのはただの甘えと努力不足だと認めざるを得ない。
やはり人間と言えど、最初から何も学ばずの姿勢で大人になってしまうと水族館のヒトデより期待されないし、仕事も与えられないし、他人の関心を得られなくなる。その証拠に親戚の集まりでも仲間や同僚たちとの飲み会でも、周囲の人々には私がぴくりとも動かないことを甘んじて受け入れてはいるが、お前はこちら側の人間でもない、というスタンスを取られている。
断わっておくが、母は私に「気の利く女」になるべく教育を施そうと試みたのだが、調教師が全ての馬を優秀な競走馬に育てあげようとしてもそうはならないように、私もデビュー戦を迎えられず未だ厩舎で待機、である。引き受けてくれる牧場(彼氏)もない状態であり、馬だったらここで命の選別を迫られているところだ。人間で本当に良かった。
この場合、どちらかと言うと調教師に問題があるのではなく、競走馬である私に「努力不足」という問題があることは明らかなのだが、1つだけ皆に勘違いしてもらっては困るのは、女が全員「気の利く女」になれると思ったら大間違いだということだ。「気の利く女」になるのも才能が必要なのだ。
他人に対する思いやり、厄介ごとを率先して受け入れる面倒見の良さ、人の気持ちを汲み取ったりその場の空気を読む能力、諸先輩方の姿からあらゆることを学び取ろうとする努力、目の前にあるお楽しみ(料理と酒)を犠牲にできる自制心など。
以上、私に欠けているもの全てだ。
私くらい早熟だと10代前半にはすでにそのことに気付いていたので、自分は宴席という名の戦場においては汚泥の中で身を隠しているのがお似合いであり、いくらか努力したところで竹やりを持った二等兵にしかなれないと端からあきらめていた節はある。
そしてもう一つ、私が気の利く女になれなかった一番の原因が、「私は自分に自信のない人間だ」ということだ。
「私のような人間に酒を注がれてしまって、この方は不快ではないのだろうか?」
そんな卑屈な考えが何をするにも足を引っ張る。もし相手に不快だと思われているかもしれないと思うと一歩も動けなくなるし、手に持った徳利の中身を全部自分で飲み干してしまえと投げやりな気分にもなる。
私は今から純度100%の偏見をここで述べさせて頂くが、自分に自信のない人間からすると、気の利く女性というのは、自分にある程度自信があると思うのだ。
自分に自信のある方々には理解できないかもしれないが、自信のない我々が卑屈布団を10枚重ねにして万年床で寝ているのは、こちらの好意を好意として受け取ってもらえないという事態に何回かぶち当たっているからだ。
世の中には優しい人がたくさんいると日々実感する毎日ではあるが、そうではない人も稀にいるわけで、取り皿を取ってやったのにあたかもこちらが取り皿にうんこを盛り付けて寄こしたかのような視線を送られることだってあるのだ。だったら、もうこいつには最初から本物のうんこを投げつけとけば良かったと思うこともしばしばだ。
よって、「気の利く女」になるためには、先ほど述べたものに加え、自分に酒を注いでもらって相手もまんざらでもないと思える自信、自分がしてやったこと対して何か文句でもあるのか? と思える図太さといったものが挙げられる。
そのような生まれながらの「最後尾にいるはずだけど、本当にいるかは定かでない」タイプは宴席のすみっこでにこにこ笑って、幹事や皆の話に頷いていれば良さそうなものだが、面倒見のいい先輩方の「いまいち輪の中に入っていけないあいつにも役目を与えてあげないとかわいそう」という謎の親切心から幹事を振られるというサバイバルモードに突入するときがあるので、社会生活というのは本当に油断ならない。
こちらとしては「お前は一生そこにいて、そのまま朽ち果てろ」と言われた方がまだ楽だ。
しかしせっかくのご好意を固辞してしまうと一気に「扱いにくい」というレッテルが貼られ社会に溶け込めなくなるので、謹んでお引き受け致しますと頭を下げるが、これは修行だ、これを乗り越えることで私は何らかの頂に到達することができるはずだ、と自分に言い聞かせなければその日を迎えることができない。
そして幹事として主戦場を乗り切ったとしても、「これで良かったのか?」「あれで合っていたのか?」「実はみんな全然楽しくなかったのでは?」と心の中で自問自答し頭を抱えのたうち回り、至らない自分を責めて眠れない日々に突入する。
こんなことになるくらいなら最初から飲み会など参加しなければよいのだが、独り身にとって同僚や社外の仕事仲間とはいざという時には頼りになる命綱のようなものなので、普段からコミュニケーションを取っておくに越したことはない。
分かっている。
知っている。
大多数の社会人たる大人達が、取引先との接待や、親戚との宴会や、社内の飲み会を、ある程度我慢して乗り切っていることは。私だけがつらいのではないということは分かっているが、周囲を見渡してみると目に見えて特につらそうなのは私だという自負もある。
だから初めて居酒屋でちゃんとした一人呑みをした時、なにも気にしなくていいってこんなに楽なんだと、心がふわふわと浮き立ったことをよく覚えている。
一人なのに、とても楽しい。料理も酒も本当に美味い。家へ帰って自己嫌悪で眠れなくなることもない。
私のように個でいる時より大勢の中にいる時の方が孤独を感じやすい人間は、是非一人飯や一人呑みに行ってみて欲しいと思う。
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