第7話 私が一人飯に行く理由① そして誰もいなくなった
この先の人生を一人で生きていくことについては、特につらいとも悲しいともさみしいとも思っていないが、「いざという時には家族が助けてくれる」というお手軽にして最強のカードを切れないことは、スマホを忘れて旅へ出てしまったようでなんとも心許ない。
旅先の街中で輩に因縁をつけられたとしても現金とプライドを差し出すという方法でどうにか切り抜けることができるが、里山の山猿にその手が使えるかと言うと当然使えない。山猿に詰められた時に必要なのは、物理的武器として使いようがあり、さらには死闘を繰り広げた末に血溜まりの中で救急車を呼ぶためのスマホだ。
世の中金があれば大概のことはなんとかなると思うが、人里離れた山道でひき逃げされた時に頼りになるのは金ではなく、警察と救急車と復讐代行屋を呼ぶためのスマホだし、たった一人で死にかけた時に今際の際で葬儀屋とお寺さんの手配ができるのもスマホだけだ。
こう考えると、「スマホさえあれば何とかなる、場合によっては人間より頼りになるんじゃ?」という現実が世の中の独身比率を底上げしている気がしなくもないが、猿と一戦交えた後やひき逃げされた後、看病や病院への送り迎え、諸手続きやその後の生活の支援をしてくれる家族がいるといないでは手間と時間と金と心強さといった点で、圧倒的大差で「家族」に軍配が上がる。
やはり家族か……
ここまで考えた時点で、ほとんどの独り身は思わず舌打ちをしたと拝察するが、私のように「自分自身の選択」及び「若干難ありの性格のせい」で独り身のままだという自覚がある奴は廊下に立っていろ。私は舌打ちもしたし、ため息もついたし、なんなら一瞬世間を逆恨みもしたので、足首に鉄球をつけて校庭を走ってくる。
このように、独り身は有事の際のことを考えると決してほがらかな気分ではいられないため、自然とそういったものから目をそらすようになってしまうが、目をそらし続けた結果、「孤独死からの腐敗」というほがらかさとは対極の形で己の至らなさを体現してしまうことになる。
孤独死筆頭候補生である私は、「もしもの時、あるいは来るべき時のため」に、独り身に降りかかるであろうあらゆる最悪な事態を想定し、それらに対処する方法を準備していくべき年齢になったと思っている。
さてそんな独り身が今とりあえず快適に暮らしていくために必要なものは、まあまあ健康な心身、安定した収入を得られる職業、車やバイクの免許、情報収集力、他人に頼れる素直さ、周囲の人々に嫌われない程度の協調性、家事を厭わないマメさなどが挙げられる。
本当のことを言ってしまえば、家族がいない独り身にとってマジで、切実に、心底大事なのは「他人とのつながり」であり親友の一人でも欲しいところではあるが、なにせこちとら稀代の人見知りだ。腹を割り、はらわたをさらけ出して語り合えるような友人を作るのは、カルロス・ゴーンを探し出してしょっぴくより難しい。
それでもなんとか頑張って20年ごとに1人ずつ友人を増やすことを目標にしつつ頑張って生きている中で思ったのは、自分が一人で行動できる女で良かったということだ。
私は家で本や漫画を読んだり、テレビや動画を見たり、料理をしたりすることも好きだが、外出することも大好きだ。旅行に行ったり、美術館や博物館、スポーツ観戦、ショッピングや外食をしたいと思った時、誰かと一緒じゃなきゃ出掛けられないという女だったら、鬱屈した気分のままひきこもりになっていたところだ。おそらく、そんな状態になっていたら、「一人も悪くない」とは言えていない。
思い返せば私は就学前の幼年期から一人で出歩くことが好きだった。最初から「今日は一人で!」と決めた上で一人で出掛けるのは良いとして、私の困ったところはみんなと遊んでいる時にも一人になりたくなってしまうことだった。
皆と一緒にいるのは好きだけれど、不意にその輪から外れてふいとどこかへ行ってしまう、周囲の人にとっては厄介で不可解で時には不愉快な存在の子供だったと思う。4~5人の仲間と遊んでいる分にはいいのだが、それ以上の大人数になってくるとなぜか一人になりたくなってしまうのだ
そしてそれは大人になっても変わることなく今に至っているわけだが、さすがに他人の気持ちも少しは慮ることができるようになったため、どこかへ行ってしまいたい衝動を抑えて輪を大事にするようにはしている。
そんなわけで、一人で出歩くことは生まれつきと言っていいくらい好きだったため、子供の頃から冒険と称して一人であちこちに行くことが多かった。ただ一つ変わったことといえば、子供の頃は水筒とおやつさえあれば天竺まで歩いて行けくらいの体力があったのに、30歳を超えたあたりから数㎞毎に座り心地の良い椅子と美味しいものがあるお店でインターバルを設けなければ、足が重すぎて次の一歩を踏み出せなくなってしまったことだ。
そしてファミレスやファストフードを皮切りに、年月を経るたびに入れる種類のお店は増えていき、焼肉、回っていない寿司屋まで、今やほとんどの飲食店に一人で行くことができるようになった。そんなこんなで20代から一人飯・一人飲みをたしなんでいた私だが、その頃には私にも数少ない友人たちがおり、一人飯と並行して彼ら彼女らとともに飲み食いする頻度もそれなりにあった。
だが、月日は流れ、一人飯をたしなむどころか日常的に行くようになった一番の理由、それは「一緒に行ってくれる人がいなくなった」という一言に尽きる。
特に30代に突入して周囲の友人達が申し合わせたように一斉に結婚しだしたときには、それはもう歯が抜けるようにとはよく言ったもので、一人抜け、二人抜け、時には歯槽膿漏のように一気にボロボロと抜け落ちていった。
友達が結婚していようがいまいが一緒にご飯くらい行けるだろうと思う方もいらっしゃるとは思うが、ほとんどの女友達は結婚して割とすぐに子どもができ、子育てで手いっぱいで誰かと一緒に飯を食いに行っている場合じゃねえ、というのが肌感覚で分かったし、既婚の男友達となど論外である。私が男友達の妻の立場だったら二人並べて正座で説教だ。
そもそも、何が何でも秩序を守るべき修学旅行の時でさえ級友たちの輪を離れて一人でどこかへ行ってしまいたくなるような奴が、逆に輪を離れていこうとする友人に「ちょっと待て」という権利はみじんもない。
そんなわけで、30歳を少し過ぎた頃から、私は完全に一人でご飯を食べに行くようになった。
そして、外食が一人飯メインになってから、自分は大人数での食事が苦手だということを改めて痛感することになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます