第3話 はじめに③ 人生半分終わったのにほぼ何も成し遂げていないことに焦りを覚える

人生80年と思っていたら数年前いきなり人生100年と言われ出した。


その前になぜ90年という節目をすっ飛ばしたのかという疑問が湧く。


愚民である私ですら薄々気付いていた。もしかして人生は80年より長いのでは? 人生って実は90年では? と。

実際には私の予想を軽く飛び越えて100年という数字が叩き出されたわけだが、国のお偉方や学者諸氏はもっと早く、そして確実に気付いていたはずだ。人生は90年、そして100年時代へ突入するだろうと。100年だと分かる前に、人生90年だと確信した時が確実にあったはずだ、なぜその時に言わなかったのか。


人生90年かもしれないと思っていたところへいきなり100年とは、思いがけずという意味ではサプライズ的とも言えなくもないが、おそらくサプライズが許されるのはサプライズを受け取る側にとってそれがポジティブな意味合いでのみだろう。


8㎞マラソン大会で4㎞まで快調に飛ばしてきて「あと半分」と思ったところでいきなり「実は10㎞マラソン大会でした!! あと6㎞あります!!」と言われて、「大会関係者全員ぶっ殺す」と思わない人間はどの程度いるのだろうか。少なくとも私はゴールテープを切った勢いそのままに運営本部のドアを蹴り破り、ここでは言えないようなことをするための余力を残しておくタイプの人間だ。


こちらは全長8㎞と思ってペース配分してきているのだ。せめて2~3㎞地点で言ってくれればまだリカバリーがきく。おそらく20歳前後で人生100年だと聞いた方々は「へえ、そうなんだ」程度にしか思わなかっただろう。人生設計はこれから立てるという奴がほとんどだ。

だが40歳前後でこれを聞いた私は確実にボディをやられたと思い、関係者各位を「ぶっ殺す」と思ったくらいだから、70代くらいの方々に至っては、いそいそと準備し始めていた自分の骨壺を危うく手から滑らせそうになったことだろう。


70歳ともなれば、80~85歳程度で心身共に摩耗しきって死んでゆくと見積もり、銀行残高もその頃にはスズメの涙程度残っていれば上等、下手に残しても子供達が修羅の子と化すかもしれないので使い切って死のうくらいに思っていただろうし、うまくそうなるように算段をつけていたはずだ。


そんなまさに己の身体と資産がフィナーレに向かってひた走っている状態の時に、「実は20年延長です」と満を持して披露されるということは、「この状態からさらに20年?!」と呼吸が止まり死期を早めることにもなりかねないほどのサプライズだ。覚悟も金も元気も足りなすぎる。


まあその話はまた別の機会にしよう。


さて、そんな人生100年時代において40歳が人生の折り返し地点とは言えないのだが、40歳にしてすでに身体的にこんなにしんどいということは、80歳頃には布団から起き上がるだけで一仕事、90歳より先はただただか細い呼吸を繰り返すのみ、という事態も十分想定できる。というわけである程度人の手を借りずに生活できる年齢が80歳と見積もって、ここでは今まで通り40歳で人生の半分とする。


さすがに人生半分を過ぎると、「人生って何……?」と一度は考える方も多いと思う。しかし平たく言ってしまえば人間も生物である以上、食って寝て排せつして、その合間に子供を育てて種の存続を図り、なんやかんや山あり谷ありを経て死ぬだけだ。


しかし私には子供がいない。この先産む予定もないし、養子を迎える予定もない。生物としてこれでいいのか……今更どうしようもないけど、という気持ちは少しある。生物としてDNAに組み込まれた最低限にして最大の責任感というものが私を”申し訳ない”という気持ちにさせるのだ。


さらに焦燥感に駆られるのは、未だ「成し遂げたと言える何か」がない、という事実だ。


私は死んでからも誰かに覚えておいて欲しいという願いは一切なく、死んだ瞬間に塵芥となって霧散してしまったらいいのに位に思っているので、当然ながら何か偉業を成し遂げて後世に名を残したいという野望も持っていない。


しかし恥を忍んで言うと私も思春期の頃には、自分は特別で、大人になったら何かしらで成功し、世間から称賛を浴びて、みたいな幻想を半ば本気で信じていた。しかし歳を重ねるにつれ、自分はごくごく平凡な人間だということをあらゆる場面で突き付けられ、40歳になる頃には、その他大勢の一人として人生を終えるのだという事実を受け入れた。


ただ、そんな私でも、いつも心の奥底にある言葉がある。


シュワルツェネッガー主演の名作「トゥルーライズ」の中で主人公の妻のヘレンがこう叫ぶのだ。


❝今まで生きてきて、私は何をやり遂げたの? 人生を振り返ってこう言いたいの 「見て! あれは私がやったのよ!」❞ (映画「トゥルーライズ」1994年製作)


当時私は高校生だったが、このセリフは深く深く胸の奥へと染み込んだ。誰にも知られなくていいけれど、棺桶に入る段になって、「やってやったぞ」と心の中でこぶしを振り上げながら火葬されたい。


30代まではまだ残された人生は長いものと思いのらりくらりと日々を送ってきたが、半分となるとさすがに、え、待って、私まだ棺桶の中でこぶしを振り上げるようなこと何もしてないじゃん、という焦りが私を襲う。何言ってんだ、今更遅いよ、と計画的にちゃんと生きてきた方々には言われそうだ。そしておそらく、40歳まで無為に生きてきた私のような女は、この先残りの人生も無為に過ごすのだろう。


人生を半分終え、しみじみと思う。


人生はあっという間だった。


人生は長いと思って生きてきたのに、いつの間にか老い、そろそろ終わりを考えていかなければならない歳になった。老後、自分で自分を甘やかしてきたツケを払う羽目になる予感がするし、無為に生きてきた自覚があるくせに、この先も無為に生きてゆくのだろうという確信もある。


ちなみにヘレンは先ほどの言葉を発した時点で、家族のために家事をそつなくこなし、すでに立派に子供を育てている。たとえ家族のためだろうと、人のために生きるということは大変なことだ。私からすれば、8割方やり遂げている。


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